1話「ハーバリウム」
「あれが、雲か」
君の名前を聞いてない事に気付いたのは、デタラメに青いこの空を望み、まるで生まれたての赤子のように崩壊した大地を踏みしめている頃だ。
思えば君の手を引き、ここに行こうと言い出したのは俺だ。それなのになぜ、君に帰るよう言ったのか分からない。
俺達は檻に閉じ込められていた。その檻から出て、俺は自由を手に入れた。だけど手に入れたのは空虚だけだ。君をここに導いたはずなのに、いつの間にか君の背中を追いかけたあの瞬間、脳裏に焼き付くあの瞬間が俺の犯した最低の罪だ。
笑ってくれ。これは、俺の拙い昔話だ。
これは俺が外に出て知った情報だ。地球は度重なる津波と洪水により多くの死者を出したらしい。さらに急激な海面上昇により人類は点々と孤立した。人類は身を守る為にシェルターを作り上げた。この、シェルターというものが俺らが呼んでいた『世界』の事だろう。
現に俺らがこの場所を知らなかったから、外についての情報は無いに等しかった。外が人類にとって脅威である事を知らずに平和な生活を送っていたと言う訳だ。俺らを取り締まっていたロボット、『保安官』の存在。今思えばあいつらは『世界』内の治安と精神的不安、外の存在を知りパニックにならないように取り締まっていたのかな。そう思えば、あいつらも悪いやつではないな。悪い事をした。だけど、『世界』の中で彼女は生きるべきじゃない。
美しいものに囲まれた君は綺麗だ。あの殺風景な檻に輝く、花なんだ。君は太陽が好きって言ってたけど、あの『世界』の太陽は紛い物だったよ。何でかな。話せば話すほど、君が今隣にいない事が悔しくてならない。ここから水没した大きな街が見えるよ。時々、というか結構雨が降るけど、どうやらこの雨は毒みたいだ。俺の皮膚が悲鳴を上げたから気付けた。海、だったっけ?深くて青い水の塊さ。それは毒じゃないみたいだ。でもこれが、あの『世界』を作り上げたんだね。そう思うと、複雑だな。美しい薔薇には棘があるってね。そう言うからこれがそういう事なのかな。
やっぱり、とても綺麗な世界だ。あの真っ黒な空なんて比じゃない。君の花屋に並んでいた花が目の前に沢山あるみたいだ。いや、それは違うか。ああ、情けないな。俺は、外に出られたくせに君の事ばかり考えているよ。君に初めて会った時とか、君と過ごした廃病院の時とか、君の笑顔とか、君が扉を閉める時に隠すように見せた涙とか。外に出たはいいけど、何しようか決めてないから懐古するばかりだ。
あの時、君が営んでいる花屋の前を通り過ぎたんだ。花はこの『世界』じゃ高級品だろ?俺みたいな庶民が、上流階級が嗜むものに触れるなんておこがましいと思ってた。でも、コンクリートと消毒液ばかりのこの場所で嗅いだ事のないような甘い、芳しい香り。花の香りだと知った時は驚いたよ。上流階級が好むのも頷ける。俺は、誘われるようにその店に向かった。君がいたんだ。
俺はよく保安官と小競り合いをしてた。俺は疑問に思った事をすぐ質問してしまう性分でさ。あの日も、花屋に向かう途中保安官と口論になったんだ。保安官は楯突くやつらは排除するから、俺はいつ排除されてもおかしくなかったな。結局、排除って何をされるんだろうか。そんな事はいいんだ。その時、君が保安官を上手く丸め込んでくれたね。幸か不幸か、俺たちは出会った。
君は『世界』内部の有名人。とても美人で、高級品の花を取り扱うその姿はどんな美術品よりも美しかった。と言っても俺は庶民だから美術品とかには詳しくないが。俺は君の美しさに、一瞬で心奪われた。一目惚れってやつだな。自分で言ってて恥ずかしくなるが、あの瞬間は何物にも代え難いよ。
君は保安官が去るのを見送ると、顔を少ししかめて「お店の前で騒ぎを起こさないで」って言った。その時の俺は、聴こえてはいるんだが動けなかった。君の顔を直視できないというか、でも目を外らす事のできない状況で俺は、振り絞って「ごめん」と言葉を発した。君は笑って、
「別にいいの。そこまで迷惑じゃないから。お花、見にきます?」
あの時の気遣いの笑みは俺の身体を貫いたと思う。
君は、その紫色の髪をなびかせ俺に背を向けた。君の白いワンピースの裾が揺れて、地面に柔らかな影を落としている。花屋に向かい歩く君の背に釘付けになっていると、君は振り返って首をかしげる。
「私のお店、知ってます?」
その時の俺がどんな表情をしていたのかは想像がつかないが、俺の顔を見るなり噴き出したように君は笑った。
「何て顔してるの。ついてきて。私の自慢のお花を見せてあげるわ。見た事もないようなものばかりよ」
君は俺の手を引き、歩みを速めた。花屋は石造り。この『世界』じゃ珍しいものだ。周りはコンクリートばかりだから、余計に目立つ。とても心地の良い香りと共に、活気に溢れた店先が近付いてくる。
「ようこそ! 私の居場所よ!」
自慢げな表情。何と可愛らしい。何か、嫌だな。今の感想は。撤回するよ。可愛らしい。ああ、違う。で、他の客が既に店にいて、君におかえり、とか騒ぎを鎮めるなんて流石だとか何とか。要するに彼女は俺の所にわざわざ向かって行ったという訳だ。君が接客をしている間、俺は花をまじまじと見ていた。すると、君はカウンターから一つの筒を取り出した。中には液体が入っていて、綺麗な花が浮いていた。
「これは、ハーバリウムっていうの。お花を普通より長く見る事ができるのよ?」
「そう…...なんだ」
「綺麗でしょ? この筒の中の液体はオイルなんだけど、アルコールでも良いの。上流階級の人たちはお酒にお花を入れて嗜むらしいわ。まぁアルコールは花の色が褪せちゃうから観賞用には向いてないんだけど……」
君は饒舌にこの筒について話す。我に返って、少し恥ずかしそうな顔を浮かべる。
「ごめん。急に話しちゃって……」
「いや、良いんだ。綺麗だね」
彼女のセールストークから、この店に長く勤めている事が分かった。
「でしょ? あなたにあげるわ」
突然の事に驚いた。と同時に慌てた。
「そ、そんな。何で俺に?」
慌てすぎて変な挙動をしてしまう。君は腹を抱えて笑ってる。
「そんなに慌てなくても良いのに……君っておかしいね」
店内の客から野次が飛ぶ。
「おいおい女の子の告白だぞ! そんな態度とるなんて男の恥だ!」
「油売ってないでこの花を売ってくれないか? あと、その筒がもう一つあるなら、私にもひとつ」
君は俺の目の前に筒を置くと、慣れた手つきで接客に戻った。呆気にとられた俺は君と客の会話を聴いていた。
「嬢ちゃん、あの男とはどのような関係で?」
「勘違いしないで。彼は、ここに来店した人で1000人目なのよ。その記念ってだけ」
「へぇー1000人! そいつは凄いな。まぁこの店なら当然か。坊主、よかったな」
客の男、中年くらいか。ニヤニヤしながら肩を叩かれた。俺は目の前の筒を取り、立ち上がった。
「ありがとうございます……」
「また来てね」
俺は、その場を去った。この花は大切にしよう。しまった。この筒の名前なんだったか。ハー何とか。次来た時に聞いておこう。
この日記は、君に会ってから書き始めようと思った。俺は見栄を張るから、こういうのがちょうどいいと思う。
俺が初めてあそこに行った時、俺は生きててよかったと思えたんだ。あいつらによる上っ面だけのものじゃない。純粋にそう思えた。君の花屋には様々な色がある。
俺にとって、この世の全てに等しかった。君は分かっているかどうか、正直自信はない。俺だって分かっているかどうかも怪しい。結局俺が疑問に思っただけだから。でも、君と話していると確かめたくなった。
あいつらにどう思われるかは知らない。多分、排除されるだろう。そんな事は分かってる。でも外に行きたいと思った。君と一緒に行きたいと思った。馬鹿な俺を怒ってくれる君にもし、外の世界に行こうと言ったらどんな顔をするだろうか。




