第1話 勇者社会
開拓から二十年、人口わずか二百人ほどのガンツ村は、豊かな自然と人々の活気に満ちていた。かつては不毛の地であったこの場所も、強力な職能を持つ勇者たちの手によって瞬く間に切り拓かれ、今では穏やかな生活が営まれている。
空が茜色に染まり始めた夕暮れの広場に、二人の子供の甲高い声が響き渡っていた。
八歳になる少年、ジョーウ・ジーン・ボンタと、同い年の幼馴染である少女クレメンスだ。二人は手頃な木の枝を剣に見立てて、「勇者ごっこ」の真っ最中であった。
「いくぞ、魔王軍!前線は任せろ!未来に続く道までも僕が切り開く!」
ボンタは手にした木枝を天高く掲げ、元気いっぱいに叫びながら見えない敵へと立ち向かう。どこにでもいる素朴で親しみやすい顔立ちの彼は、誰にでも警戒心を抱かせない柔らかい笑顔が特徴的だった。
その頼もしい背中を見つめるクレメンスもまた、木の枝を構えながら無邪気な笑みを浮かべて応じた。
「えぇ、そしてアタチがあなたの背後を守りますわ」
二人は顔を見合わせ、心の底から楽しそうに声を上げて笑い合う。その瞳には、一点の曇りもない純粋な輝きが宿っていた。
この世界では、百年前を境に人類のほぼ全員が何らかの超人的な職能を持つ「勇者」として啓示されるようになっていた。
十歳になれば、誰もが神の恩寵たる職業を授かるという絶対的な「啓示ルール」が存在している。親の職を引き継ぐことが一般的とされており、大人になればそれぞれが規格外の力を振るうことになる。
だからこそ、十歳未満の子供たちはまだ何者でもなく、神の天啓を受けていないただの子供だった。大人たちが抱えるギスギスしたプライド至上主義社会とは対照的に、彼らだけが持つ無垢で純粋な輝きは、この世界においてひときわ眩しいものとして重宝されていた。
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「ボンタ、暗くなってきたからもう帰るわよ」
広場の入り口から、夕暮れの空気を温めるような優しい声が響いた。陽が落ちかけた頃、ボンタの母であるメイが迎えに来た。
メイは村の食糧事情を支える農業勇者であり、卓越した農業スキルによって大地の生命力を限界まで活性化させる『慈愛の豊穣』の使い手だ。彼女が土に触れるだけであらゆる不純物が浄化され、一瞬にして最高品質の作物が超高速で実るという、自然界の摂理そのものを加速させる規格外の能力である。かつて不毛だった村の土地を豊かな農地に変え、飢饉から村を救った「土の聖女」として周囲から尊敬を集めていた。日に焼けた健康的な肌と優しげなタレ目が特徴的で、今日も土仕事で汚れたエプロンを身につけている。
「あ、お母さんだ!」
ボンタは聖剣代わりの枝を下ろし、パッと花が咲いたような笑顔を母へ向けた。駆け寄る彼は、一点の邪気もない声で告げる。
「お母さん、迎えに来てくれてありがとう!」
満面の笑みで放たれたその言葉に、メイの足がピタリと止まる。
「おほあぁ……っ」
メイは胸を強く打たれたように身を震わせ、子供からの純粋な感謝によって至福の表情を浮かべた。頬を染め、とろけるような顔つきになったメイは、脳髄の奥底から湧き上がる喜びに浸り、しばらくその場に立ち尽くしていた。
この世界の勇者たちは、性欲や食欲や睡眠欲と同列の「四大欲求」として、「他者に感謝されたい賞賛獲得欲求(承認欲求)」を背負っている。勇者は、まだ何者でもない十歳以下の子供からの感謝に対して至福を得られるため、社会全体が子供を優遇した町づくりを行っていた。
「クレメンスちゃん、また明日ね」
しばらくしてようやく我に返ったメイが優しく声をかけると、クレメンスも嬉しそうに手を振り返した。
「うん、また明日ね、ボンタくん!」
幼馴染と約束を交わし、ボンタはメイと手を繋いで村の中央通りへと歩き出した。
村のメインストリートには、いくつもの露店が立ち並んでいる。
メイとボンタは、通り沿いの店に立ち寄った。そこは金物屋で刀鍛冶勇者が打ったであろう精巧で頑丈そうな鍋を無言で掴んだ。
メイが商品を持って店先を出ようとしても、店主は何も言わずに見つめるだけだ。メイは彼に対してお金を払うことは一切していないのにだ。
その代わり、彼女は店主に対して「首を横に少しだけ素早く傾ける」という動作を行った。
それを見た店主もまた、張り詰めた「真顔」のまま、同じように首を横に傾けてメイからの微感謝を受け取る。
メイはそのまま、流れるような動作で退店していった。
この世界では、すでに通貨という概念が完全に消滅していた。
勇者たちは自らの承認欲求を満たすため、各々の職能を活かして無償で善意を提供し合っており、それによって社会のインフラが円滑に回っているのだ。
しかし、周囲の人間も全員が強力な職能を持つ勇者であるため、他人の親切を「当たり前の顔」で受け取るのが普通となっていた。大人の勇者にとって、他者へ本気で感謝を述べることは、「私はあなたより劣っています」「あなたの施しがないと生きていけません」という敗北宣言と同義になるのだ。
そのため、大人同士で本気の感謝を伝え合うと勇者としてのプライドに深刻な傷がついてしまう。物をもらったり善意を受けたりした時は、ただ無言で「首を横に少しだけ素早く傾ける」という微感謝表現で済ませるルールが定着していた。
誰かの役に立ちたいと願いながらも、感謝を口にできない。これが、大人たちの社会に蔓延する奇妙なギスギス感の正体であった。
ボンタは母と手を繋ぎながら、真顔で首を傾げ合う大人たちの姿を不思議そうに見つめていた。
「お母さん、お店のおじさんたちに『ありがとう』って言わないの?」
純粋な疑問をぶつけるボンタに対し、メイは困ったように微笑みながら彼の頭を優しく撫でた。
「大人はね、いろいろと難しいのよ。でも、ボンタは今のままで、たくさん『ありがとう』って言える素直な子でいてね」
「うん!僕、お母さんの美味しいご飯を作ってくれるところも、いつも優しいところも大好き!今日もお仕事お疲れ様、ありがとう!」
「ひぎぃぃ……!」
ボンタの無邪気な追撃の言葉に、メイは再び膝から崩れ落ちそうになりながら、全身を駆け巡る至福の波に包まれていた。




