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環境で完封


世の中には、「勝つ」必要のない戦いがある。


勝てば終わる戦いと、勝っても終わらない戦い。

深層で生き残りたいなら、後者を選べ。


つまり、相手を倒すのではなく、相手が動ける手順を潰す。

呼吸を止めるのではない。行動を止める。

行動が止まれば、結果として全てが止まる。


畑で学んだ。

害虫は殺すより、寄せないほうが早い。

寄ってしまったら、絡めて、離す。

殺すと死骸が残る。死骸は別の虫を呼ぶ。

離せば、何も残らない。


土は、そのためにある。


---


久遠洋、享年なし。戦死扱い。ただし生存中。職業、農業者。


土塁の外で、三つの光が揺れていた。


携帯灯の白い光。揺れは小さい。小さいのは、足が動かないからだ。足が動かないと、腕だけが動く。腕だけが動く人間は、水面で溺れる人間に似ている。水面の溺れは水が殺す。深層の溺れは、土が掴む。


俺は畑の中にいた。


土に手を当てていた。温かい。堆肥の熱。菌糸の呼吸。根の成長。生活圏の土は、毎日少しずつ深層に勝っている。酸の匂いを薄め、毒の甘さを削り、菌糸の網を張り、水を通し、命を育てる。


結界ではない。

畑だ。

畑が、知らない足を拒んでいる。


ムクが土塁の縁に座っていた。

座っているだけで空気が重い。

琥珀色の目が、三つの光を見ていた。見るというより測っている。距離と、質量と、脅威度を。


俺は鍬を手に持ったまま、動かなかった。

動く必要がない。土が仕事をしている。ムクが仕事をしている。俺は畑の仕事をすればいい。


だが、このまま放っておくと厄介になる。


土が掴んでいる間に、相手は必ず「手段」を出す。刃物。火。投擲物。そういうものが畑に触れると、畑が傷む。畑が傷むと、明日が傷む。明日を傷ませるわけにはいかない。


今日のために明日を犠牲にするのは、農学の敗北だ。


「……風向きが先」


水でも土でもない。今日は空気だ。


---


発酵壺の横に、堆肥の山がある。

生活圏の熱源であり、浄水と乾燥と発酵を支える中核だ。


堆肥は便利だ。菌糸が分解して熱を出し、匂いを出す。普段は蓋をしている。蓋をしないと生活圏に回って、俺の鼻が鈍る。鼻が鈍ると、水の安全が測れなくなる。嗅覚は深層での生命線だ。


だが、今日は蓋をずらす。


苔と蔓で編んだ薄い蓋を、指一本ぶんだけずらした。

隙間ができる。隙間から、温かい空気が這い出る。温かい空気には匂いが乗っている。酸い匂い。酵母の匂い。腐葉土の底の匂い。


深層の空気は重い。重い空気は流れにくい。流れにくいなら、流れを作ればいい。


土塁の端の排気用の切れ目を開ける。水路の上の板を一枚外す。空間に微かな気流の「道」ができる。熱い空気が上へ抜け、冷たい空気が下から入り、その流れに匂いが乗る。


匂いは、土塁の外へ向かって流れた。


ドローンの光が、薄い靄を照らした。普段は見えないものが、光に縁取られる。靄は、三つの光のほうへ流れていった。


---


「……くさっ」


二人目の男が咳き込んだ。


咳は深層で最も愚かな行為だ。一回の咳で、平常呼吸の数倍の酸素を使う。薄い空気で数倍の浪費は、財布に穴が空いたまま走るのと同じだ。落ちるものは加速する。


「何だこの匂い、腐ってるのか」


三人目が声を上げた。声も浪費だ。浪費の連鎖が始まる。


夜叉丸斑が低く言った。


「口を閉じろ。鼻で吸うな。口で浅く呼吸しろ」


正しい指示だ。斑は深層の経験がある。経験がある人間の声は短い。短いのは、息の価値を知っているからだ。


だが、正しい指示は遅いと無意味だ。二人はもう吸っている。目が滲み、鼻腔が拒絶している。拒絶しながら吸い続ける。呼吸は止められない。


俺はもう指一本ぶん、蓋をずらした。


匂いが少し濃くなる。だが濃くしすぎない。濃くしすぎると畑側に回る。畑は守る。相手だけに届ける。風向きの制御は、農学者の基本だ。


「……静かに」


自分に言った。ムクにも言った。ムクの耳が微かに傾いた。


---


次に、腕を止める。


土が足を掴んでいる。だが人間には腕がある。腕が自由なら、刃物が出る。刃物が出たら畑に届く可能性がある。刃物が畑に触れる前に、腕を止める。


俺は畑の外周に這わせていた蔓に手を当てた。


《魔力合成栽培》。


蔓は植物だ。魔力の勾配を辿る。

指示は言葉じゃない。流れだ。


蔓が、ずるりと動いた。


土塁の外側へ、細い糸のように伸びる。地面を這い、泥に潜り、三つの足首に巻きつく。ゆっくりと。ゆっくり締めると、気づくのが遅れる。気づいたときには、もう動けない。


「っ――何だ、足に何か」


二人目が叫んだ。叫ぶと息が減る。


「蔓だ。植物だ」


斑が言った。斑は気づいている。だが対処できない。足が固定され、体勢が崩れている。刃物に手を伸ばそうとするが、蔓は手首に届く速度で増えている。


「切れ! 切れよ!」


三人目の声が裏返る。


斑の呼吸が一つだけ乱れた。

乱れたのは、焦りじゃない。判断だ。


斑は本来、引き際が速い。異変が重なれば撤退を選ぶ。だから生きてきた。だが――引く足がない。引けない撤退は、撤退じゃない。ただの停止だ。


---


最後に、足元を嫌なものにする。


水路の一部には、深層の腐食水を薄めて流している。薄めれば扱える。扱えるなら守りに使える。


俺がやったのは、仕切り板を指一本ぶん引いたことだけだ。


流量がわずかに変わる。匂いが変わる。金属の匂い。油が焼ける匂い。靴底が「嫌がる」匂い。


「……熱い! いや、痛い!」


二人目が叫んだ。叫ぶと息が減る。


「踏むな! 動くな!」


斑が怒鳴った。怒鳴りは計算の破綻だ。計算が破綻した斑は、ただの人間になる。


俺は仕切り板を戻した。


戻すのが重要だ。畑の水路は畑の血管だ。酸を流し続けたら畑が死ぬ。守るために使って、すぐ引く。手順は短く。被害は最小に。


三人の足元には、不快さだけが残った。不快さは恐怖を増幅する。恐怖が増幅されると判断が鈍る。判断が鈍ると体が強張る。強張った体は蔓に絞められやすくなる。


良い循環だ。

相手にとっては、悪い循環だ。


---


ここまでで、相手の手順は潰れている。


足:粘土に固定。

足首:蔓が巻きつき締める。

呼吸:発酵の匂いで浅く乱れる。

足元:嫌な水で動く気が削れる。

腕:蔓が届き、刃物が出せない。


俺がやったことは四つだ。

蓋をずらした。蔓を伸ばした。板を引いた。板を戻した。


四つの手順で、三人が止まった。


戦っていない。殴っていない。斬っていない。

環境が、勝った。


---


そして、ムクが立った。


どすん。


音はそれだけだった。

だが「それだけ」で、深層は十分だ。


ムクが四足で立つと、空気の層が変わる。圧というほど大げさじゃない。ただ呼吸が一段浅くなる。肺が勝手に縮む。胸の奥の、理屈より古い部分が「逆らうな」と言う。


三つの光が、一斉に止まった。


止まるのは勇気が出たからじゃない。怖くて動けないだけだ。地上の恐怖は逃げろと言う。深層の恐怖は動くなと言う。


ムクは土塁の縁まで歩いた。四歩。

一歩ごとに空気が重くなった。


内側には入らない。まだ入らない。

だが縁に立つだけで十分だった。


琥珀色の目が、三人を見下ろした。


斑がその目を見て、理解した。


この目は「食えるかどうか」を測っている。測った結果、食える。食えるが、食わないでいる。食わないのは、隣の畑の男が「静かに」と言っているからだ。


つまり、その一言が消えた瞬間に食われる。


斑はプロだった。プロは状況を読む。読んだ結果が絶望でも、読むこと自体は正確だ。


斑の手が震えた。震えは寒さじゃない。計算の結果だ。計算が「勝てない」を返したとき、体は震える。本能のほうがプライドより正しい。


斑が携帯端末を掴もうとして、落とした。


落ちた端末が泥に跳ね、画面が上を向いた。

そして、ドローンが寄った。几帳面に、勝手に。


画面には通知が残っていた。消しきれていない、仕事の文字。


「前金 300万」

「残金 完了後」

「依頼:DL-0117(深層DASH村)/口封じ」

送信者:MIKADO_PR


声じゃない。推測じゃない。

点だ。動かない点だ。


コメントが爆発した。


『出た』

『口封じって書いてある』

『MIKADO_PRって三門だろ』

『運営!保全!』

『ログ!スクショ!』

『終わった』


斑の顔が白くなった。

ムクの圧よりも、「録られた」という事実のほうが斑を白くした。


プロが最も恐れるのは敗北ではない。証拠だ。


---


ムクが、一歩前へ出た。


斑が落とした端末に手を伸ばしたからだ。拾えば証拠が消えると思った。だが拾う動きは、深層では「食う動き」と同じだ。目立つ。


一歩だけだった。一歩で十分だった。


ムクの鼻先が、斑の顔の高さまで降りた。


ふっ。


息を一つ吐いた。温かい息だった。だが温かさの中に、重さがあった。重さの中に答えがあった。


お前は、ここにいてはいけない。


斑の手が止まった。止まって、下がった。

下がって、もう動かなかった。


---


俺は畑の中にいた。


立ったまま、鍬を持ったまま。


三つの光が止まっている。声が途切れている。蔓が締めている。ムクが立っている。ドローンが映している。証拠が残っている。


俺がやることは終わった。

いや、やることは一つも変わっていない。


畑を傷ませない。

水路を戻した。

蓋を戻す。

蔓は、相手が力を抜けば緩む。

酸は、板を戻したから止まっている。

粘土は、動かなければ沈まない。


すべて、可逆だ。

壊していない。殺していない。

環境を少し変えて、戻した。


農学者の戦い方だ。


俺は土に手を当てた。温かかった。


温かかったが、その温かさの手前に、一瞬だけ冷たいものが通った。


殺しに来た。俺を。畑を。


その事実が、堆肥に還る前に、胸の真ん中に留まった。冷たかった。土の冷たさではない。人間の冷たさだ。


冷たいものは、堆肥にしにくい。

だが、できないわけじゃない。時間がかかるだけだ。


俺は胸の冷たさを、堆肥の山の隅に置いた。比喩じゃない。冷たいものが通った直後に、堆肥の蓋を完全に閉じた。閉じるという動作が、感情に蓋をする動作と重なっただけだ。消えたわけじゃない。


だが蓋の下で、菌糸が仕事をする。

いつか分解される。それでいい。


「……まあ、やる」


鍬を下ろした。構えを解いた。


畑に戻る。今日の水を確かめる。明日の根を育てる。


三つの光は、まだ揺れていた。だが、もう近づいてはこなかった。


ムクが土塁の縁に戻った。座った。前足が、縁に触れていた。


昨日は縁の外側だった。

今日は、内側に、爪先が一つ、入っていた。


一ミリ。



久遠洋、享年なし。戦死扱い。ただし刺客は完封された。

戦っていない。環境が勝った。

「口封じ」は声になり、通知になり、点になった。匂いが、名前になる。

ムクの前足が、初めて土塁の内側に触れた。

畑、稼働中。堆肥の蓋、閉じた。


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