第七十七夜 人界の守り手たち -8-
ここで、タルナールたちの方に話を戻しましょう。
防壁の外側でネイネイが命を拾ったのと同じころ、タルナール、ラーシュ、そしてエトゥの三人は、ウシャルファの中心部。城館の前を守っておりました。ルアフときょうだいたちは城館の屋根にのぼり、高所から目を光らせています。
夜の獣が攻め寄せてくるとの報せを聞いた士官たちは、すぐさま防壁の外にいる市民や避難民たちを招き入れ、門にしっかりと閂をかけました。そして彼らをひとまとまりにして、城館の中庭や、城館近くの広場で固まっているよう指示したのです。
壮健な男たちの中には、農具や棒切れを手に取り、自分たちも戦うと申し出ました。気丈な女たちも少なからずいて、刃物や槌を握りながら万が一に備えていました。
もちろん、ウシャルファの市街にも三千の兵士たちが散っていて、防壁を越えてきた夜の獣を掃討する用意をしています。家に籠る多くの市民にとっては、彼らの存在が頼りです。
さて、南の空をひときわ明るい閃光が照らし、地面や建物を揺るがす衝撃が走り抜けたとき、タルナールはネイネイの魔術がうまく働いたのを確信しました。しかしながら敵は二万。これで全滅させられたとは思えません。
案の定、討ち漏らした夜の獣たちが防壁にとりつきはじめたようです。狂おしく舞う動く松明の光や、宵闇に響く号令、風に乗って流れてくる血のにおいなどが、戦いの激しさを伝えます。
「ネイネイは無事かな」と、ラーシュが言いました。
「エルもいる。大丈夫さ」と、タルナールは言いました。
「壁をよじのぼる獣もいるだろう。油断するな」と、エトゥが言いました。彼は背負っている矢筒のほか、足元にふたつの予備を置いていました。もしそれらの矢を撃ち尽くしたとしても、エトゥは短剣で戦うでしょう。短剣が折れたとしたら、石や、拳や、歯で戦うでしょう。彼の横顔からは、そんな覚悟が見てとれました。
狩人の推測を裏づけるかのように、防壁の内側で騒ぎが起こりました。ついに夜の獣たちが、守備兵をすり抜けて市街へと入り込んだのです。南だけでなく、東や西からも。ウシャルファを押し包みつつある群は、もはや方角を選びません。
黒い気配がどんどん近づいてきます。まるで、城館に集まった人々の恐怖を嗅ぎつけたかのように。タルナールたちの頭上で、ルアフたちが警戒の声をあげました。
「街にいる兵士たちはなにをしてる? もう突破されたのか?」
ザーランディルを抜いたラーシュが、苛立ったように言いました。
「違う。敵は屋根を伝ってるんだ。……防ぐ方法はない」
エトゥが弓に矢をつがえながら、低い声で答えました。
もし千匹の敵が侵入したとして、それが地上を走るものばかりであれば、市街にいる三千の兵で押し返せもするでしょう。しかし悠々と壁をよじのぼり、背後に回り込んだり、頭上から襲ったりしてくる敵が相手では、日頃の訓練も大して役に立ちません。そのうえ、いまは夜。死角の多く生ずる夜なのです。
手にじっとりと汗をかきながら、タルナールが槍の柄を握り直したとき、城館の正面にある建物の屋上に、ぬらりと異形の影が姿を現しました。二匹や三匹という数ではありません。ぞっとするほど多くの獣が、まるで落穂を狙う雀のように、広場にいる人間たちを見おろしていたのです!
「来るぞ!」と、兵士がうわずった声で叫びます。
一匹の猿が広場におり立つと、武器を持たない市民たちは悲鳴をあげて逃げ惑いました。戦える者は各々の武器を構え、人々の楯となるべく進み出ます。タルナールもまたラーシュと肩を並べ、前線の一角に加わります。
若干の弓兵が、城館の見張り塔から矢を放ちました。屋上に陣取る獣の群を射落とさんと、地上でも十数人が弓を取っています。その中でも、エトゥの射撃は群を抜いて精密でした。彼は城館の中庭に繋がる門の前に立ち、息をつく間もなく矢を放っているようでした。
ルアフときょうだいたちも攻撃をはじめます。彼らは獣を高所から急襲し、その身体を上空まで運びあげると、地面や壁に叩きつけて殺しました。
しかし、敵はどんどん押し寄せてきます。二十匹を殺した次の瞬間には、五十匹の獣が広場におり立つのです。城館の周囲にいる味方はおよそ三百。いまでこそ数の優位を得ていますが、それもいつまで続くことか。
そして白兵戦がはじまります。
敵味方の小集団が、広場のあちらこちらでぶつかりました。タルナールも跳びかかってきた猿に槍の一撃を見舞います。研いだ穂先が深々と突き刺さり、肉を貫く感触が伝わります。
しかし瀕死の敵が柄を握ったために、タルナールは中々槍を抜くことができません。黒い毛むくじゃらの指を外そうとしているうち、襲ってきた新手に肩を掠められます。
なんたる乱戦! このような場では、一瞬の隙が命取りになります。
タルナールは地面を転がって攻撃を躱しながら、腰の短剣を抜きました。しかし酒場の酔客が相手ならともかく、夜の獣にはいささか心もとない得物です。いましがた襲って来た一匹を仕留められないでいるうち、さらに二匹が横あいから距離を詰めてきました。
「タル! 前の一匹に集中しろ!」
すぐうしろでラーシュの声が響きました。
タルナールは彼の言う通り、正面の敵だけを見据え、短剣を構えて身体ごとぶつかっていきます。敵は刃を躱しざまタルナール掴んで引き倒し、滅茶苦茶な殴打を加えてきましたが、タルナールだって負けてはいません。
左腕で顔面をかばいながら、自由な右腕で短剣を振るい、剛毛に覆われた脇腹をざっくりと切り裂きます。ひるんだ敵の身体を押しのけて体勢を立て直し、短剣を逆手に持ち替えて、二度、三度と叩きつけるように刃を突き刺します。
やがて獣は掠れた呻き声をあげながら六肢を痙攣させ、自らが流した体液の中に沈みました。
「ひどい戦いだ」
ラーシュが寄ってきて、タルナールに槍を押しつけました。先ほど手放したものを拾ってきてくれたのです。
「けど、このままならなんとか――」
ラーシュが言いかけたとき、南の防壁で物凄い音が響きました。〈星の火〉ではありません。途轍もない大きさと重量を持つものが防壁にぶつかり、薄い陶器でも割るように突き崩したのです。
「巨獣だ。まずいな」と、ラーシュが言いました。
「いや、もう動いてない。ぎりぎりのところでやっつけたんだ」と、タルナールは半ば願望を込めて言いました。不死と思えるような怪物でも、〈星の火〉に焼かれ、弩砲の射撃に晒され、数千の火矢を突き立てられれば、滅びぬ道理はありません。
「防壁を破られたのがまずいんだ。じきに図体のでかいのが来るぞ」
そう言って、ラーシュは乱戦の中、散開しつつある兵士たちに、城館近くでまとまるよう呼びかけはじめました。タルナールはひと足先に踵を返し、城館の入口あたりにいたエトゥと合流しました。彼の足元に置かれている矢筒は、もうほとんど空っぽになっておりました。
「大きいのが来る、とラーシュが言ってる」
「だろうな」と、エトゥが言いました。「それでも、やるしかない。もう逃げ場はないんだから」
広場には猿の骸が累々とし、犠牲になった市民や兵士の死体もまだ回収できていません。すでに惨憺たる状況であるのに、まだ脅威が続くとは!
第一波の敵を追い散らした兵士たちが、三々五々戻ってきます。タルナールも負傷した者をさがらせ、どこからともなく回ってきた革袋の水で喉を潤し、ほとんど休む間もなく次に備えます。全体の趨勢がどうなっているのか、気にかける余裕もありませんでした。
じきに、地鳴りが広場の石畳を震わせます。
やがてウシャルファの入り組んだ街路を通り抜け、建物の壁をがりがりと削り取りながら、猛然と広場に突っ込んできたものがありました。
それは背を鋼鉄の針で鎧った強大な夜の獣。かつてタルナールたち弩砲を使って戦った、あのブルズゥルクと同じ姿の獣でした。途中で幾人もの兵士を殺し、さらに興奮した様子の獣は、脇目も振らずに城館の門へと体当たりを敢行します。
たとえ百枚の楯があったとしても、こんなもの喰いとめることなど不可能です。数百年の不落を誇る城館が獣の体当たりで震撼し、壁の石材が崩れて埃を舞いあげました。中庭に避難している人々は恐怖の底に突き落とされ、あたりには悲鳴にならない悲鳴が響きました。
タルナールはその突進を辛うじて躱しました。しかし反撃をおこなうどころではありません。それにブルズゥルクのあとからも続々と、猿よりも大きな獣たちが、広場に侵入してくるのです!
「敵の正面に立つな! 肢を狙って動きを鈍らせろ!」
どこかでラーシュが叫んでいます。彼はザーランディルを片手に奮戦しているようでしたが、広場全体として見れば、先ほどまでの優勢は消え失せていました。はじめ三百人いた城館周りの兵士たちは、獣たちの圧力に屈し、戦意を喪失し、多くが為す術なく蹂躙されておりました。
さきほどまで高所の有利を得ていたルアフたちも、大型の敵に対しては、充分な力を発揮できないようです。
敗北の色は徐々に濃くなり、闇より昏い絶望へと変じていきます。
いつのまにかエトゥともはぐれてしまったタルナールは、必死に槍を打ち振るいながら、身に迫る牙や、爪や、丸太のような肢をかいくぐります。
しかし、それもいつまで持つことやら。
タルナールは荒い呼吸を繰り返しながら、濃密な死の空気が自らの奥深くまで入り込み、肉体に残っていた勇気や、活力や、わずかな希望さえ、ぐずぐずと腐食させていくのを感じました。
混戦の中で自分の位置を確かめようとしたとき、タルナールは足元に転がった兵士の身体に躓き、ばったりと前のめりに倒れました。見ればその兵士は兜のうえから頭を一撃され、白っぽい脳漿を垂らして絶命しておりました。
タルナールがぞっとしながら身を起こしてみれば、額が触れるほどの至近で、鼻面の長い獣がばっくりと口を開けているではありませんか。馬に似た、しかし奇妙なほどに首の長い獣が、血と腐臭まじりの唾を飛ばしながら掠れた咆哮を放ちました。
それは無力な人間を嘲っているようでもあり、殺戮に酔っているようでもありました。
必死に身をよじって逃げようとしたタルナールでしたが、間もなく自分がすっかり囲まれていることに気づきました。
到底、ひとりで対処できる数ではありません。かといって、ラーシュやルアフが駆けつけてくれそうな気配もありません。
人は死の間際、生涯の記憶を鮮明に思い起こすと言います。このときタルナールの頭に浮かんだのは、師であるナジャハの姿でした。彼女が歌う英雄譚でした。ふたりで過ごした短い月日のことでした。
タルナールは心の中でナジャハに詫びながら、諦めの気持ちで天を仰ぎます。
すると、冷たく煌めく星々の中、飛び抜けて明るい光がひとつ見えました。
光は急速に大きさを増し、次の瞬間、轟音を立ててタルナールの傍らに着地します。
腕で顔を庇いながら見てみれば、そこには熱のない白銀の炎を纏い、同じ色の戦斧を携えたひとりの妖霊が立っておりました。
「異界の獣たちよ! 悪意と腐敗の被造物たちよ! 人界を荒らすその不届き、この高貴なるドゥーザンニャードが断じます! 泣き叫び、慈悲を乞うならば見逃してあげましょう。さもなくば、残らず破滅の火口に突き落とされるものと覚悟しなさい!」
彼女は呆れるほどに大きな戦斧を振りかざしながら、なおも叫びました。
「兵たちよ! 剛健なる青銅の妖霊たちよ! その技量と勇気、わたくしの名のもと存分に振るいなさい! すべての敵を駆逐するまで、ひとときも休んではなりません!」
ドゥーザンニャードに応えて、彼女より幾分か色味の鈍い、しかしふた周りほど大柄な妖霊たちが、無から湧き出るようにして何百人も現れました。彼らは猛々しい鬨の声をあげながら、両腕に持った燃え盛る曲刀でもって、手近な獣へと斬りかかります。
三日前に別れた妖霊の姫は、決して逃げ帰ったのではありませんでした。彼女は郷里で軍勢を起こし、脅威に晒された人々を救援するため舞い戻ってきたのです。
「あら、タルナール。まるで生きるのを諦めたような顔をしているじゃない?」
「助けにきてくれたのか」
ドゥーザンニャードの手を借りて立ちあがりながら、タルナールは言いました。
「当たり前でしょう! 何百年も留守にしていたのはともかくとして、困っているエルトラさまをうっちゃってきたなんて言ったら、お父様に厳しく折檻されてしまうわ! さあさあ、わたくしの配下が頑張っているのですから、あなたも気を抜いちゃだめよ。怪我人を見つけて、お館の中へ連れていってあげなさい! そういえば、エルトラさまはここにいないのかしら?」
「彼女なら、南の防壁あたりにいるはずだ」
「ならば、ここらを片付けて早急に向かわなくてはね!」
彼女が戦斧の石突を地面に叩きつけると、そこから眩い火花が散りました。
堂々たる体躯を持つ青銅の妖霊たちは、広場にいる夜の獣たちを押し返しつつありました。辛くも命を拾った兵士たちはなんとか態勢を立て直し、負傷者の収容に当たりはじめます。タルナールもまた、動けなくなった兵士をひとり担ぎながら、城館のすぐ傍まで戻りました。
壁際で座り込んだり寝かされたりした負傷者の中、タルナールはラーシュとエトゥの姿を見つけます。ふたりは獣の返り血に濡れてひどい有様でしたが、なんとか五体満足で立っておりました。とはいえさすがに疲労困憊らしく、ぐったりと壁に背を預けています。もう少し援軍が遅れていれば、彼らもきっと無事では済まなかったでしょう。
「お互い、悪運が強いな」
タルナールを見つけたラーシュが、にやりと笑って言いました。
傍らのエトゥは、矢を撃ち尽くしても戦ったのか、手に曲刀をぶらさげています。倒れた兵士のものを拾ったのでしょう。
タルナールは担いでいた兵士をおろし、傷の止血をしてやりながら、改めて戦況に思いを馳せます。
はじめ三百ほどいた味方のうち、いまなんとか動けるのはせいぜい百人といったところ。市街全体を見渡したところで、健在な者は少ないでしょう。青銅の妖霊たちは目覚ましい活躍を見せていますが、二万もいる敵を一層できるほどの戦力ではありません。
ひと息ついたのも束の間、すぐにまた絶望が押し寄せてくるのではないか。タルナールの望みが萎れかけたとき、市街の外からけたたましいラッパの音が聞こえてきました。東と西の二方向。さきほどまでときおり響いていたものとは、音色も調子も少し違います。後詰の部隊が決死の突撃を敢行しているのでしょうか?
その正体は、少しして知れました。
ドゥーザンニャード率いる妖霊たちが南へ進軍していき、夜の獣の骸だけが残された広場に、興奮した様子の伝令が走り込んできます。血に濡れた石畳に馬蹄の音を響かせて、希望の報せを運んできます。
「シーカの援軍だ! シーカの重装騎兵たちがやってきたぞ!」
伝令の兵士はそう呼ばわりながら馬をおり、拱門の前にいる兵士や中庭の避難民たちを押しのけるようにして、城館へと入っていきました。
それを見送る間もなく、第二の報が飛び込んできます。
「喜べ! ケッセル軍の救援だ! ジェディア姫が兵隊を何千も連れてきたぞ!」
こちらの伝令は頭に血濡れの白布を巻いておりましたが、その目は感動のあまり潤んでいるように見えました。
ふたつの報せはみなを大いに勇気づけました。城館の中からも歓喜の雄叫びや、手を打ち鳴らす音が聞こえてきました。
いまや、絶望の霧は晴れつつありました。生きて朝を迎えることはできないと思っていた者たちも、再び目に光を、足腰に力を取り戻し、最後のひと踏ん張りをしようと動きはじめました。
「本当に援軍が来るなんて」と、ラーシュが言います。「シーカにもケッセルにも、得があるとは思えないが」
「シャルカン陛下の人徳だろう。でも、なんだっていい。僕はもうくたくただ」と、タルナールは弱音を吐いて、ついには壁に背を預けたまま、ずるずると座り込みました。
「落ち着いたら、エルとネイネイを捜しにいこう。ふたりともきっと無事でいる……」




