第七十夜 人界の守り手たち -1-
どんよりと羊毛のような雲が垂れこめる早朝。灰色がかった弱々しい日照は、単調な荒地の景色をなおさら陰鬱にしています。
ときおりなにか見えたかと思えば、惨たらしく損壊され、打ち捨てられた羚羊や駱駝、人間の死体といった不吉なものばかり。それはごく最近、このあたりで夜の獣が爪牙を振るった証左でした。
死体にたかる腐肉喰らいの猛禽たちは、トゥーキーの大きな影が頭上をよぎると、ぎゃあぎゃあと声をあげながら散っていきます。
タルナールの気分もこの景色と同じく、間違っても爽快なものではありませんでした。少し前に通り過ぎたアモルダートから発せられる異様な存在感や、わずかに硫黄のにおいが漂う風もまた、タルナールの胸を悪くしました。
前日深夜、〈魔宮〉最奥より地上への帰還を果たした一行は、翌未明に野営地を発ちました。そしてネイネイの魔術を施したトゥーキーたちの翼を利用し、まっすぐにウシャルファへと向かっておりました。
アモルダートに向かう多くのダバラッド人が、旅の中継地点とするであろうウシャルファ。街の原形ができたのは、エルが王であった時代よりさらに旧く、一千年も昔のことであると聞きます。
古ダバラッドの一都市として栄華のときを過ごしたあと、街はたびたびケッセル人の侵攻に晒されました。大挙する弓騎兵たちはときに市街まで入りこみ、苛烈な略奪をおこないました。
しかしウシャルファの人々が市街の周囲に堅牢な防壁を築くと、その脅威も段々と小さくなっていきました。当時の防壁は今日まで取り払われることも崩れ去ることもなく、ダバラッド南部の荒野を旅してきた人々に、遥か遠くからでも街の存在を知らせます。
アモルダートができてからの二年半で、ウシャルファも随分と潤いました。自給が困難な新興の街に物資や食料を売ることで、大きな利益をあげることができたからです。
それでも街全体の雰囲気としては、アモルダートよりも随分と落ち着いています。以前タルナールが寄ったときにも、昔ながらの堅実な暮らしを続けている人が多くおりました。
さて、一行に目を戻しましょう。ルアフの脚にぶらさがっているタルナールにも、既にウシャルファの姿が見えておりました。防壁の外にはダバラッド軍のものと思しき天幕が数多く並び、戦時の緊張感を漂わせています。
集められた兵力はおそらく、ウシャルファの人口である五千を優に超え、万の単位にも達するでしょう。アモルダートを巡って各国の勢力が睨みあいをしていたときとは、もはや局面が違います。夜の獣の群を相手取った大規模な野戦、あるいは防衛戦を想定した動員と思われました。
太陽はまだ地平線からそう離れておりません。出発前に想像したよりも、ずっと短い旅でした。徒歩であれば二日半はかかったであろう行程。馬や駱駝を使ってもせいぜいその半分という行程が、わずか一刻足らずで消化できたことになります。
野生動物や野盗への警戒も、当然のことながら不要。安全面や乗り心地にはいま少し改善の余地ありですが、移動の助けとして、トゥーキーほど優秀な者はおりませんでした。
みるみるうちに近づいてくるウシャルファ。街の見張りや軍の斥候たちも、どうやらこちらに気づいたようです。さすがに夜の獣と間違えられることはないでしょうが、いまの情勢が情勢ですから、あまり派手な登場するのは得策でありません。
一行は人々を刺激しないよう、街の手前で何度かゆっくりと旋回したあとで、防壁からやや離れた場所、人気の少ない市街の辺縁あたりに着地しました。
何人かの市民が、建物から出てきたり、木陰で腰を浮かせたりして、一行に好奇と恐怖の入り混じった視線を向けます。
そのうち、ダバラッド軍なり街の兵士なりが駆けつけてくるでしょう。タルナールはしばらくこの場で待とうと全員に伝えてから、ルアフにも動き回らないよう言い含めました。彼ときょうだいたちは物珍しげにあたりを眺め、ともすればうずうずと身体を動かしておりましたが、ひとまず、勝手な行動は慎んでくれました。
少しばかり見物人が増えてきたころ、市街の方から二十騎ほどの小部隊やってきました。彼らはみな駱駝に乗り、反りのある長刀を携えておりました。ややくたびれた感じの装備を見るに、もともとウシャルファにいた守備兵たちでしょう。
タルナールたちは足元に武器を置き、敵意がないことを示してから、近づいてきた兵士たちに呼びかけます。自分たちは街に害をなす者ではない。昨日の深夜〈魔宮〉から戻り、重要な報せを届けにきたのだ、と。
それを聞いた兵士たちは、怪訝な表情を浮かべつつも歩調を緩め、やがて一行から十歩ほど離れたところで立ちどまりました。
「アモルダートから戻ってきたのか?」と、隊長らしき男が言います。
「少し違いますが、似たようなものです」
タルナールが答えると、隊長は信じてよいものかどうか、決めかねるように首を振りました。おそらく彼らも、アモルダートがいまや夜の獣の巣窟、混沌の湧き出す場所となり果てていることについて、誰かから聞き及んでいるのでしょう。
そのようなところからいまさら人が戻ってくるということなど、あり得るのだろうか? とても言いたげです。
いちいち問答に応じていると長くなってしまいます。タルナールは相手の出方を窺うことなく、率直に要望を伝えました。
「いまこの街を脅かしている危機の元凶について、シャルカン陛下に急ぎ伝えたいことがあります。恐れながら、陛下はどこにおられますか? いまもご無事でしょうか?」
「あれについてなにか知っているのか?」と、隊長が南の空を見遣りながら言いました。
「陛下に直接伝えなければなりません」
「その鳥はなんだ。そんなに大きな鳥は見たことがない。夜の獣とやらではないだろうな」
「おとなしい気性の生き物です。僕たちを運んできたのは見たでしょう。危険はありません」
「エルトラの子たち、怖いか?」
ルアフが大声でそう言うと、駱駝たちは怯えて二歩三歩とあとずさり、兵士も刀を握りなおして、喋ったぞ、などと囁きを交わします。しかしおそらくはただの――言葉の内容を考えればそんなはずはないのですが――声真似だろうと考えたのか、大騒ぎというほどのものにはなりませんでした。
「お許しください。彼に悪意はありません」と、タルナールは穏やかにとりなします。
さて、この不審な者どもの処遇をどうするか。隊長以下兵士たちはエルにも目線を送っておりましたが、タルナールはあえて説明を避けました。エルの素性を納得させるには、秘された歴史や〈魔宮〉の成り立ちについても語らねばなりません。〈魔宮〉を見たこともなさそうなウシャルファの兵士たちに、それらを理解してもらうのは骨が折れます。
その後もいくつか些末な質問を投げかけられ、少々焦れてきたタルナールは、少々強引な手に出ました。報告の遅れによってシャルカンの怒りを買うかもしれない、とほのめかしたのです。これは中々に効果があり、隊長は苦々しい顔でしばし考えたあと、ひとまず一行がウシャルファへ入っていくことを許しました。
もしこれが国同士、部族同士の争いであれば、まずは間諜の疑いがかけられ、拘留されることも充分に考えられました。しかしいま敵となっているのは、アル・アモル及び夜の獣という、明らかに異質な存在です。人間ならばまあよいだろう、という考えが働いたのかもしれません。
トゥーキーたちに関しては……おそらく鳥と似ている姿であったのが幸いしたのでしょう。彼らの半分ぐらいの大きさであれば、ムジルタあたりにいてもおかしくはありませんから。
ともかく、タルナールたちは兵士たちにつき添われ、市街の方へと歩いていきます。防壁にある大門のあたりまで到着すると、隊長は一行に危険がないと判断したのでしょう、ほとんどの部下に解散を命じました。残ったのは彼と二名の兵士のみ。
「タル。このままシャルカン陛下のところへ向かうのか?」
門をくぐったあたりで、エトゥが言いました。
「そうなると思う」
「俺は子どもたちが無事かどうか、見に行かなくちゃならない」
もっともな要望でした。タルナールは前を行く隊長に、知人の安否を確認するためにひとりを割いてもいいか、と尋ねました。突っぱねられることも考えられましたが、隊長は案外あっさりと、エトゥの離脱を許可しました。
「出稼ぎでアモルダートにいたウシャルファの人間は多い。今回のことで、大勢が縁者を失った」と、隊長は堅苦しさを残しつつも、少しばかり人情のこもった声で言いました。「知己がいるというのなら、会いにいくがいい」
そうしてエトゥと別れた一行は、さらに市街の中心へと向かいます。
ウシャルファの通りは、アモルダートのそれに比べるとずっと幅の狭いものでした。道筋もくねくねと曲がったり折り返したり、分岐したり合流したりと、慣れない者は簡単に迷ってしまうような、複雑な街並みを造りあげていました。
建物には新しいものもあれば古いものもありましたが、概して素朴で飾り気のないものが大半でした。しかし貧相かというとそうでもなく、その静かで落ち着いた佇まいには、数百年という長い時間によってしか醸成されない、見る者に郷愁を感じさせるような趣がありました。
そんな街中、ふつうの市民も出歩いてはおりましたが、やはり目につくのは兵士たちの姿でした。もともとウシャルファにいた守備兵たち、それから守護者旗下の軍勢に加えて、近隣の街からもかなりの数が動員されているようです。
彼らはそれぞれ微妙に異なる装備や顔立ちをしておりましたが、表情は一様に陰のあるものでした。それはとりもなおさず、アモルダートから発した事態の深刻さを示しておりました。
やがて、一行はウシャルファの代官が住まう城館の前までやってきました。これもまた街同様に古いもので、いまのダバラッドができる前、部族同士が小競りあいを繰り返していた時代に普請されたものでした。建物の四隅にある胸壁つきの塔などは、まさしくこの城館が戦乱を見てきたことの証です。
「陛下は中におられる。鳥はそのあたりに繋いでおけ」
鉄扉のついた拱門――弓なりの上部を持つ門――の前で、隊長が言いました。
「中になにがある?」
置いてけぼりの気配を察したルアフが、首を左右に振りながら尋ねました。
「レヴィッドのような偉い人がいる。驚かせてはいけないから、君たちはここで待っていてくれ」と、タルナールは言いました。
できることなら、トゥーキーたちを馬や駱駝と同じように扱いたくはありません。しかし彼らを人間と同じように遇するべきだと主張したところで、きっと不毛な結果しか生まないでしょう。
タルナールが言ったことをルアフがきょうだいたちにも伝えると、彼らはアー、と不満そうな声を出しました。とはいえ、ひとまずは我慢してくれそうです。
「私がルアフたちについてるよ」と、ネイネイが遠慮がちに申し出ます。彼女はシャルカンがやや苦手と見え、対面が避けられるならそれに越したことはない、という様子でした。
「じゃあ、お願いしよう。そんなに長くはかからないと思う」
そういうわけで、シャルカンに相まみえるのは、タルナール、エル、ラーシュの三人ということになりました。
拱門をくぐり、石畳の敷かれた殺風景な中庭に入ったところで、タルナールたちの身柄は近衛と思しき兵士に引き継がれます。その兵士がシャルカンに謁見できるかどうか確認するまでの間、三人は城館を出入りする士官や兵卒たちの目に晒されながら、しばらく待つことになりました。
「君の時代と比べて、どうかな」
タルナールは街の印象をエルに尋ねます。彼女はネイネイが持っていた替えの長衣に身を包み、頭に巻いたぼろ布の中に、長く美しい銀髪を押し込めておりました。それでも並外れた容貌だということは分かってしまいますが、いまのところ、少々注目を浴びる程度で済んでいます。
「この街には何度か来たことがあります。当時の建物は残っていなくとも、面影は確かに感じられます。ですが、ここも――」
じきに戦場と化してしまうのだろう、という言葉を、エルは呑み込んだように思えました。
「堅牢な街ではある」と、ラーシュがエルとは別の視点から感想を述べました。「ここの防壁に一万の守備兵を配置すれば、五万からの軍勢を防げるだろう。……もし人間が相手ならの話だが」
「きっと大丈夫さ」と、タルナールは言いました。しかし、確たる根拠があったわけではありません。
「士気の問題もある。守護者直属の部隊や、ウシャルファの守備兵は勇敢に戦うかもしれない。ただ見たところ、ほかの街や別の部族から派遣されてきた兵士もいる。彼らは命をかけてまで、ウシャルファを守らないだろう。エルが全部吹き飛ばしてくれれば、そう難しく考えなくていいんだが」
「すみません、いまの私では……」
「冗談だよ。冗談だ。地上の人間が〈魔宮〉を掘り起こした。地上の人間がなんとかしなきゃならない」
そうこうしているうちに、中庭に面した扉が開き、出てきた兵士がタルナールに呼びかけました。
「お会いになられるそうだ」
タルナールたちは案内されるまま、狭く圧迫感のある城館の廊下を歩きます。途中、なにがしかの会議をしていたのであろう数人の士官が、部屋のひとつから出てくるのを見かけました。彼らの表情は、街中の兵士たちにも増して険しいものでした。
やがてタルナールたちは、城館の最上階まで連れていかれました。そこには贅沢に焚かれた麝香や龍涎香のにおいが漂い、行き交う奴隷たちの身なりも卑しからぬものでした。廊下の突き当たりには屈強な見張りの兵士がふたりいて、分厚い両開きの扉を守っておりました。
案内の兵士は見張りのところに近づいていって、陛下のご友人だ、とタルナールたちのことを説明しました。既に話は通っているようで、特にそれ以上なにかを問われることもなく、タルナールたちは室内へと招かれました。
そこは城館の中でもっとも大きな部屋なのでしょうが、ダバラッドの守護者にあてがうものとしては、いささか貧相なものと言わざるをえませんでした。シャルカンをもてなすことになったウシャルファの代官は、きっと大層恐縮したに違いありません。
縦横二十歩ほどの空間には、白い駱駝の毛皮から造られた大きな敷物が置かれ、奥では柔らかそうな小布団に身をもたれさせたシャルカンが、左肩に巻いた包帯を換えてもらっているところでした。
治療をしているのはマヌーカです。タルナールは思いがけない再会に驚きながらも、常々世話になっていた彼女の無事を喜ばしく思いました。
「ほれ、やはり無事であったろうが?」
タルナールたちが近づいていくと、シャルカンは傍らの小布団を数個投げて寄こしつつ、傍らのマヌーカに得意げな顔を向けました。
しかしながらその表情には――豪胆にて放蕩なる若き守護者の表情にさえ――道中で見た士官や兵卒たちと同じ、くすんだような憂いの色が、わずかに混じっているのでした。




