第五十七夜 災禍の呼び声 -5-
さて、ここでふたたび視線を転じ、バーラムの城館で手記を読んでいたマヌーカがなにを見ることになったのか、話していくことにいたしましょう。
夜の獣が地上に出現したとの報を受け、マヌーカは信じられぬ思いで己が忠良なる部下を見返します。
しかし、ハアルが言うからには本当なのでしょう。彼はこれまで一度も嘘をついたことはありませんでしたし、怪しげな噂を真に受けたり、そそっかしい間違いをしたりする性質でもありませんでしたから。
「獣の数は多く、もはや制圧は困難です」と、ハアルは続けて囁きます。「表に駱駝を用意しました。マヌーカさまも、お早く」
「あなたの勧めに従いましょう。ハアル」と、マヌーカは答えました。「なにが起こっているかを考えるのは、ひとまず置いておくほうがよさそうです」
「あの、あの、マヌーカさま、どうされたのでしょう?」
ハアルの言葉を聞き取れず、しかしただならぬ雰囲気を感じ取ったアミナが、不安そうな顔で言いました。「ここを出て行かれるのですか? 私、どうしたらいいでしょう?」
アミナはバーラムの奴隷ですから、本来であればマヌーカがあれこれ指示するべきではありません。しかし当の主人が戻る見込みはなく、城館にもすぐに混乱の波濤が押し寄せるであろう現状、ここで彼女を捨て置くのは、見殺しにも等しい行為であることは明白でありました。
マヌーカは別段善人というわけではありません。しかしもともとの性質として、抑圧されたか弱い存在に対しては、ついつい情をかけてしまう傾向がありました。
「アミナ、あなたの大事なものがどこかに置いてあれば、すぐに取ってきなさい。わたくしと一緒にここを離れましょう。詳しい説明はあとでします」
「あの、あの、ありません。私、ただの奴隷ですので……」
「では、ついてきなさい」
それからマヌーカはハアルに案内させて、用意してあるという駱駝のところへ向かいました。廊下を歩いている途中、どこか遠くから悲鳴が聞こえ、アミナがびくりと肩を震わせます。
建物の外へ出ていきますと、百人以上の市民たちが、門のあたりで兵士たちと押しあいへしあいしているのが見えました。
彼らは口々にバーラムの名を叫び、いきなり現れた怪物を退治してくれ、と必死に救援を求めておりました。
一方でそれをとどめている兵士たちも、バーラムが顔を出さないことを不審に思っているのか、あるいはすでに彼が失踪したことを知っているのか、はっきりした態度を取れないでいるようでした。
マヌーカたちは群衆を押しのけるようにして門を出ると、近くの壁に身体をこすりつけていた駱駝の手綱を握りました。二頭を騒がしい集団から少し離れたところまで引っ張り、急いでその背に跨ります。
ハアルはマヌーカが指示するまでもなく、無言でアミナの手を取り、自分のうしろに腰を据えさせました。
「お待ちください! マヌーカさま!」
マヌーカたちが駱駝を立ちあがらせてその場を離れようとしたとき、ひとりの若い兵士が駆け寄ってくるのが見えました。それはマヌーカが城館にやってきたとき声をかけてきた、あの童顔の兵士です。彼はいまどこからか急いで走ってきたらしく、ぜいぜいと息を切らせておりました。
「バーラムさまは見つかりましたか? 誰かが指揮して、夜の獣を抑えないと」
「いいえ。彼はもう戻らないでしょう」と、マヌーカは兵士に妙な期待を持たせないよう、あえて冷淡な調子で言いました。
「マヌーカさまは、どこへ……?」
「守護者のもとへ」と、マヌーカは答えました。「しかし、すぐに助けがくることを期待してはいけません。あなたはあなたの力が及ぶ限り、市民を逃がしなさい」
兵士の反応を確認することなく、マヌーカは駱駝の首を巡らせます。
「ハアル、いったん市街を西南に抜けてから、改めて北に向かいます。アミナを落とさないように」
腹を蹴って合図をすると、駱駝はぶるるると鳴き声をあげてから、勢いよく走りだしました。大通りは逃げる市民たちで混雑しており、駱駝は一度ならず彼らを蹴飛ばしかけましたが、マヌーカはいちいち彼らを顧みることなく、先を急ぎました。
建物が密集する区画を過ぎてから、マヌーカは駱駝の向きを変えて北に進路を取ります。少なくない数の人々が、マヌーカたちと同じく守護者を頼ろうと、彼のいる野営地を目指しているようでした。
アモルダートはそもそもがダバラッドの勢力圏であり、市民の大半もダバラッド人ですので、それはある意味で自然な選択と言えるでしょう。夜の獣が跋扈する市街に留まるよりは、飲まず食わずでも半日歩き、守護者の慈悲を求めれば、命ばかりは助かろうというもの。
しかしそれでも、せっかく築いてきた財産や仕事をうっちゃり、すぐに逃げる判断ができたものは多くないようです。
曇天下に吹く冷たい風の中、人々はしきりに背後を気にしながら歩き、あるいは騎乗して荒野を往きます。余裕のある者はこのまま逃げに逃げ、さらに北のダバラッド諸都市まで行ってしまうつもりかもしれません。
そんな彼らを追い抜いて進んでいたとき、マヌーカはふと、見知った格好の男――ジャフディの姿を目にしました。別段、無視してしまってもよかったのですが、蹄の音で振り向いたジャフディがこちらに気づき、手を振りながら近づいてきましたので、マヌーカも駱駝の手綱を引いて、彼と歩調をあわせました。
「ご無事でなにより。廃砦から逃げてこられたのですか?」と、マヌーカは尋ねました。
「いいや、いったん〈病人街〉に戻ったとき、騒ぎに出くわしちまったんだよ」
「それは危ないところでございました」
「危ないなんてもんじゃねえ。死ぬところだった!」と、ジャフディは大仰に身震いしてみせました。「だがまあ、易々とやられる俺じゃねえわな」
「そうでございますか」
「ところでおめえ、宿にはいなかったな」
「バーラムさまの城館におりました」
「……街を出てから、ちょいと小耳に挟んだんだが」と、ジャフディは周囲の耳目を憚るような顔になって言いました。「バーラムがいなくなったってのは、本当か?」
この期に及んでは、隠し立てする意味もありません。マヌーカは頷きました。
「終わりだな。なにもかも終わりだ」と、ジャフディは泣きそうな声で言いました。
「いいえ。終わりではありません」と、マヌーカは返します。
「命さえあれば、ってか?」と、ジャフディは苦々しげに顔を歪めました。
「いいえ。夜の獣の氾濫は、ただの前兆に過ぎぬということです」
マヌーカは冷たい予感を抱きながら、低い声で言いました。
「アモルダートを逃れたとて、安全な場所などないかもしれません。くれぐれも、用心なさいませ」




