第五十三夜 災禍の呼び声 -1-
タルナールたちがいよいよ〈魔宮〉の最深部に至ろうとしているとき、〈魔宮〉の外、すなわちアモルダートやその近郊においても、極めて重大な事態が発生しておりました。
もちろん、それらの場面にタルナールは立ち会っておりませんから、みなさまにお話しするにあたっては、別の者の目を借りなければなりません。
ひとまず、もっとも事態の中心近くにいたひとり。宿の女主人にして蛇の術師、マヌーカが見聞きした出来事から述べていくことにいたしましょう。
数日前、思いがけずダバラッドの九代目守護者、ダワール・クム・シャルカンの訪問を受けたマヌーカは、彼の希望に沿う形でともに〈魔宮〉へと赴き、色々な経緯や危機はありつつも、なんとか〈病人街〉へと帰ってきておりました。
留守を任せていた奴隷によれば、マヌーカが不在の間も特に困りごとはなかったようで、ひとまずは安心しつつ、酒場の定位置に腰をおろします。
とはいえ今回の件、バーラムに対して何事もなかった風を装い、秘密としておくのは少々まずい気がします。特に昨今の情勢下、あらかじめ適切な釈明をしておかなければ、内通の嫌疑をかけられたとき不利になりかねません。
ともあれ、ダバラッドの大臣をこっそりもてなしたというのならともかく、放蕩、破天荒、神出鬼没で有名なシャルカンが相手ですから、ありのままを話したところで、バーラムもせいぜい渋面を作るぐらいだろう、と思われました。
そのようなわけで、マヌーカはタルナールたちが再び〈魔宮〉に出かけるのを見送ったあと、バーラムの城館を訪れることにしました。
早くから混雑している〈病人街〉を出て、大通りを南に歩きます。数日留守にしているうちに季節が進んだらしく、風は随分と冷たくなっておりました。空は珍しくどんよりと曇り、街並みもわずかに灰色がかっておりました。
もう少し着込んでくればよかったか、などと考えつつ、マヌーカはバーラムの城館までやってきます。すると、門のところにいた若い兵士がはっとしたような顔をして、早足で駆け寄ってくるのが見えました。
「マヌーカさま、ちょうどよかった。いま、使いを出そうと思っていたところです」と、童顔の兵士は困惑した様子で囁きます。
「なにかありましたか」
「ここでは少し……。どうぞ中へお入りください」
はて、もしやシャルカンと会ったことが早くも発覚したのだろうか。マヌーカは不穏な気配を感じつつ、兵士に案内されるまま門をくぐり、前庭を通って城館の玄関口へと向かいます。
途中で立ち働く奴隷の姿をいくつか見かけましたが、彼らの様子も心なしか浮足立っているように思えました。
城館に入ってすぐの広間。兵士が大声で呼ばわりますと。普段からバーラムの世話をしているアミナという名の奴隷の少女が、ぱたぱたと小走りでやってきました。
「ああ、マヌーカさま、ようこそおいでくださいました」
「こんにちは、アミナ。なにかわたくしに用があるのですか?」
ひっつめ髪の小柄な少女は額を汗で湿らせながら、慌てたようにせわしなく手振りをしました。
「用といいますか、そのう。ちょっと困ったことが起こりまして」
あとはよろしく、と言い置いて去った兵士を見送ってから、マヌーカとアミナは広間の端でこそこそと囁きを交わします。
「実は、バーラムさまがいなくなってしまわれたのです」
「それは……」と、マヌーカは束の間言葉を失いました。「いつからですか?」
「気づいたのは今朝がたです。でも、寝床がすっかり冷たくなっていたので、夜か早朝のうちに城館を抜け出したのではないかと思います」
「財物はどうなっていましたか? 宝石やアモル銀の延べ棒などは?」
バーラムの失踪。マヌーカの心中にはさまざまな可能性がよぎります。まず疑っておくべきと思ったのは、バーラムが自らの意思でどこかに逃げ去ってしまったのではないか、ということです。
もし今後、アモルダートを巡る情勢が致命的に悪化すれば、バーラムはよくて捕虜、最悪は敵の大将として処刑ということになるでしょう。当然、いま彼が持っている地位や権力や財物は、すべて奪われてしまいます。
その前に宝石のひと掴みでも持って出ていってしまえば、これまで築きあげてきた財産のほとんどを失ったとしても、そこらの庶民よりはよっぽど上等な余生を送ることができる。そう考えたバーラムが、アモルダートを放り捨てて逃げてしまったという可能性は否定できません。
「お部屋を漁るのは憚られましたので、確認しておりません。ですが、ひどく荒らされているといったことはありませんでした」
アミナの言うことが確かならば、強盗が押し入ってバーラムを攫ってしまった、というわけでもなさそうです。他国の刺客という可能性も低いでしょう。
こんなことを言っては可哀そうですが、アモルダートを巡る情勢においては、バーラムが持っている兵力や権力、技術、富などが重要視されているのであって、彼という人間自身にさほど価値はないのです。
アモルダートを混乱させるだけであれば、単に殺してしまうだけでよく、騒ぎも起こさず痕跡も残さず、というほどの丁寧な仕事をする理由は、ちょっと考えつきません。
ならばやはり、夜逃げの線が濃厚か。
「アミナ、部屋を見せてもらえますか」
「ええと、どの部屋でしょう」
「彼がふだん、寝たり書きものをしたりする部屋を」
「分かりました。こちらへ」
奴隷の少女は頷き、とことこ廊下を歩きはじめました。マヌーカもそれに従い、なにか異変を示す痕跡でもないかと、あたりに目を配りながら歩きます。
マヌーカがアモルダートにやってきたのは、街ができてまだあまり時間が経っていないころでした。したがってバーラムとのつきあいは、二年を超えるくらいということになります。
とはいえあまり頻繁に顔を合わせる機会はなく、マヌーカはバーラムの人となりについて、詳しく知っているわけではありません。
マヌーカにとって、バーラムは容易に理解しがたい存在でした。ただの山師であるにしてはあまりに思慮深く、誰にも負けぬほどの富を築きながら、金に飽かせて享楽にふけっている様子もなく、〈魔宮〉の謎には無関心と見せかけて、先日のように不可解な激励をおこなったりする。
それに比べると、宿で面倒を見ている鉱夫たちは随分と理解しやすい存在です。出自はさまざまですが、大抵は金を稼ぐためにやってきた流れ者。喧嘩はするものの概して仲間意識は強く、遠い将来のことはあまり考えない。
宿ができた当時はろくな医者もおりませんでしたので、マヌーカは怪我をして帰ってきたり、〈魔宮〉に漂う硫黄の瘴気にあてられたりした鉱夫たちをよく治療してやりました。
そのうち街が大きくなり、人が増え、マヌーカ自らが働くような機会は減りましたが、古参の鉱夫の幾人かは、当時のことをいまも覚えているはずです。
そのようなことを考えながら、マヌーカはアミナのうしろをついていき、やがて奥まった場所にあるひとつの部屋に辿り着きました。
「バーラムさまが寝室として使っておられる部屋です。今朝がた、なかなか起きてこられませんでしたので、お体の具合でも優れないのかと思い、声をおかけしましたが、お返事がありませんでした。心配になり中に入ってみたところで、ご不在に気づいたのです」
「扉に鍵はかかっていなかったのですね」
「はい」
マヌーカは寝室の扉に手をかけ、ゆっくりと部屋の中に立ち入りました。アミナはしばらく戸口に佇んでおりましたが、マヌーカが目で促しますと、おずおずと傍までやってきました。
バーラムの寝室はふたつの間から成っておりました。しかし城館の規模や立派さに比べると、随分こぢんまりした印象です。いまでこそ破格のお大尽ではありますが、バーラムは元々貧しい山師だったとのことですから、やはりこういった造りの部屋の方が、くつろいだ気分になれるのでしょう。
間取りはともかくとして書置きでも落ちていないか。マヌーカはあたりを見回します。
入ってすぐの間は書斎のような場所となっておりました。床には繊細な模様が織り込まれた羊毛の絨毯が敷かれ、窓際には黒檀の書き物机、それから同じ素材で作られたいくつかの書架。
さきほどアミナが言った通り、荒らされてはおりません。かといって、長らく留守にするときのように、整理整頓をした形跡もありません。住人が失踪した部屋にしては、むしろ不自然なくらい変わった様子のない部屋です。
マヌーカは書架に目線を転じます。置かれている書物の数はさほどでもなく、熱心に読んでいたわけでもなさそうでした。
ほとんどは単なる飾りか、誰かから贈答されたものなのでしょう。もしや書架が隠し通路の入口にでもなっているかと思い、近づいて調べてみましたが、仕掛けのようなものは見つかりません。
それからマヌーカは書き物机に歩み寄ります。バーラムはここで諸勢力に宛てた書簡を作成し、また返事に目を通していたようです。机上にはインク壺や真鍮の筆記具、羊皮紙の束、なにも書かれていない巻物などが、ばらばらと無造作に置かれておりました。
マヌーカは遠慮なくそれらを漁ろうとして、備えつけられたひきだしのひとつが半ば開き、隙間から小さな本の端が覗いているのを見つけました。目についたそれを引っ張り出し、ぱらぱらとめくってみます。
「日記でしょうか?」と、アミナが脇から覗き込みます。
マヌーカは彼女にも中身が見えるよう、それを開いたまま、机の上に置きました。
「そのようですね」
ほんの数行を読んだ限り、手記は出来事の客観的な記録に加え、それに対する考察や感想が記されているようでした。マヌーカがかつていたカリヴィラの宮殿でも、側室や女奴隷たちが同じようなことをしておりましたが、それに比べるとこの手記にあるひとつひとつの文章は短く、簡素でした。
マヌーカは頁をめくり、最も新しい記述を探します。すると本の終わり近くに、このような文が書かれておりました。
『アル・アモルが我を呼ぶ』




