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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第四十夜 蛇と大君 -7-

「うわぁっ」


 突然、シャイタンが叫び声をあげました。


 すぐ傍にいたタルナールが驚いて振り返ると、シャイタンが身体を妙な具合にひねりながら、なにかと格闘しておりました。よく見れば彼の腰あたりに、縄のように太い、黒々とした糸が張りついております。


 糸の先――正確には元――に目を遣ると、なんとそこには蜘蛛に似た巨大な夜の獣が、縦穴から半身を覗かせ、通路に這い入ろうとしているではありませんか!


 次の瞬間、大蜘蛛は強い力でシャイタンを引き倒し、彼の身体を自らの口に運ぶべく、ずるずると身体を引きずりはじめました。


「な、なんじゃこれは! 助けてくれ! 助けて!」


 シャイタンは手足を振り回し、腰にへばりついた糸を引っぺがそうとします。しかし糸は柔軟にして強靭、おまけにひどく粘着質でしたから、暴れれば暴れるほどいろいろな場所にくっついて、脱出はかえって困難になっていきました。


 もはやのんびり対処を考えている猶予はありません。タルナールは咄嗟に地面を蹴り、大蜘蛛の間合いに飛び込むと、槍を強く握りしめながら、その穂先で大蜘蛛の口吻あたりを突き刺しました。


 がつん、と固い感触が伝わり、大蜘蛛がわずかに怯んだような様子を見せました。しかし残念ながら撃退には至らず、タルナールは直後、軽挙の代償を支払うことになりました。


 短剣のような爪を備えた一肢が、タルナールの眼前で閃きます。


 あっ、と思って槍を手放し、身をよじりましたが、至近での攻撃を躱すことはできませんでした。


 左肩から胸にかけて、焼けたような痛みが走ります。タルナールは転倒し、地面に頭をぶつけ、いっとき前後不覚の状態に陥りましたが、なんとか追撃は食らわずに済みました。仲間たちがタルナールの腕を掴み、安全な場所まで引きずってくれたからです。


「タル、しっかりしろ。大丈夫だ、傷は浅いぞ」と、頭のうしろで聞こえるのはエトゥの声。ラーシュはザーランディルを抜き、夜の獣と戦っているようです。


 感触からして深手は避けられたように思いましたが、タルナールはそのうち、自らの肉体に生じた危険な変化に気づきました。肩から胸にかけての感覚が徐々に薄れ、筋肉はところどころ痙攣し、心臓の鼓動までが不規則になりはじめたのです。


「毒を受けたみたいだ」


 エトゥに引きずられながら、タルナールは言いました。もはや腕には力が入りません。


「身体が麻痺してきてる」


「それはいけません」と、マヌーカが言いました。「麻痺が心臓や肺腑に及べば、命の危険があります。これ以上動かさず、すぐに寝かせてください」


「私も手伝う」と、ネイネイも申し出ます。マヌーカに対抗しているような響きもありましたが、タルナールにそれを気にしている余裕はありません。「タル、大丈夫だからね。安心して」


 そのうち、ラーシュも無事にシャイタンを連れて戻ってきます。


「殺し切れなかったが、なんとか撃退した。タルの具合はどうだ?」


「止血はすぐ済みますが、毒が厄介です。いまから処置しますので、急ぎ湯を沸かしてくださいませ」


 獣の毒は身体の自由を奪うのみで、意識を失わせるものではありませんでしたので、タルナールは魔術師ふたりのなすがままにされながら、自らの肉体を責める毒の不快感に耐えなければなりませんでした。


 それでも、同じように麻痺したまま貪り喰われるのを待つよりは、ずっとましな状態なのでしょうが。


 マヌーカは一行に対して、〈魔宮〉の瘴気を和らげる飴を出すよう指示しました。カモミールや羚羊の血などから作られた、あのひどい味のする飴玉です。そして集めたうちのみっつをタルナールの口に詰め込み、残りを沸かした湯で溶きはじめました。


「若干ですが解毒作用がありますので、一部は傷口に塗り、残りはすべて飲んでいただきます」


 飴湯が早く強く作用するようにと、ネイネイが薬効を高めるまじないをかけてくれました。しかしそれは苦味やえぐみをも増してしまいましたので、タルナールは麻痺した身体で悶絶しつつ、それを流し込まなければなりませんでした。


「おい、死ぬなよ。死んではならんぞ」


 ラーシュもエトゥも当然タルナールのことを心配しておりましたが、特にシャイタンは負傷に対して責任を感じているのか、うろうろと落ち着かなげに歩き回ったかと思うと、やれ傷口から毒を吸い出せだの、やれ毛布で身体を温めてやれだの、余計な横やりを入れては邪険にされておりました。


 迅速で適切な治療のおかげか、一刻ほどでタルナールは危険な状態を脱しました。麻痺はまだ少し残っておりましたが、呼吸も楽になり、鼓動も規則正しくなりました。


 とはいえ、探索を続行するのは無謀というもの。早く安全で風通しのよい場所に映り、ゆっくり休まなくてはなりません。どのみち縦穴をおりるには準備が必要ですから、一行はさきほどラーシュがくだした判断に沿って、このままアモルダートへ帰還することに決めました。


 しかしエトゥの見積もりによれば、いまの地点から直上に戻った場合、エイブヤードのかなり高い場所に出てしまうとのこと。


 中腹までなら狭い平地や人が住めるような渓谷も存在しますが、それより上は雪や氷に覆われた危険な岩場が広がっており、うっかり急な斜面に放り出されようものなら、そのまま長い距離を転がり落ちてしまう、ということにもなりかねません。


 かといって、まだ充分に身体の自由が利かないタルナールを運びながら、長々と魔宮を移動するのも安全ではありません。大型の夜の獣が出現すれば、それに対処する者とタルナールを守る者、背後からの奇襲を警戒する者とで、手が足りなくなってしまうからです。


 相談の結果、一行はタルナールを運びながら二刻ほどの距離を引き返し、しかるのち、ネイネイの魔術を使って地上へと戻ることにしました。


 ありあわせの道具で作った担架に載せられ、タルナールは上から下へと流れていく雪花石膏(アラバスタ)の天井をぼんやりと眺めます。


 シャイタンを助けるためとはいえ、もっとうまくやることもできたはず。軽挙の結果、仲間の足を引っ張ってしまいました。思うように動かない身体も相まって、非常にもどかしい気持ちです。


 これまではどうにかなっていたけれど、〈魔宮〉のさらに奥へと踏み込んだとき、果たして自分は落伍せずにいられるだろうか? 剣の腕も、魔術の知識も、狩人の嗅覚も持たない自分を、仲間たちは頼りにしてくれるだろうか? 


 いま焦ったところでどうもならないと分かりつつ、タルナールはついぐずぐずと考えてしまいます。


 とはいえ、まずは身体を回復させなければ話になりません。しっかりと元気になったあとで、またひとつずつ困難に向きあい、自信をつけていくほかないのです。

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