第三十二夜 火焔 -8-
アモルダートと廃砦の間を急使が行き交い、まるで前々から決まっていたかのように、一騎打ちはラーシュが受諾した翌日と定められました。時刻は払暁。場所はアモルダートの郊外。ほかの勢力を刺激してはいけませんので、立ちあう人間はごく少数となることが予想されました。
そして夜が去り、朝が訪れます。
タルナールがまだ暗いうちから起き出し、酒場へおりていきますと、ネイネイとエトゥも既に起きていて、心配そうな表情を浮かべたまま、壁際に座っておりました。
「ラーシュはまだ寝てるのか?」と、タルナールはふたりに尋ねました。
「私たちより早く起きて外に行ったみたい。準備運動じゃないかな」と、ネイネイが答えました。彼女は気丈を装っていましたが、その声は深い憂いの響きを帯び、エメラルド色の美しい瞳は、悲しげに潤んでおりました。「剣とか鎧にまじないをかけてあげようかって言ったら、必要ないって。一騎打ちってそういうもの? 魔術師同士が決闘するときは、なんでもありなんだけど」
多少の差はあれど、一騎打ちや決闘はどんな国でもしばしばおこなわれています。
それは戦場で偶発的に発生するものであったり、身分の高い者同士の私的な紛争であったり、今回のような政治的な交渉の一手段であったり、ときには残虐な主人が奴隷を使って楽しむ、悪趣味至極な賭博であったりします。
最後のひとつはともかくとして、一般的には対等の条件で戦うことこそが、名誉ある一騎打ちとされています。ラーシュはネイネイの助力を断ったのは、彼の名誉がそれを許さなかったからでしょう。
ラーシュは兄を憎んでいるのではない、とタルナールは推量しておりました。少なくとも、なんとしてもぶち殺してやる、とは思っていないでしょう。
見返してやりたい。認めてもらいたい。この一件を巡る彼の言葉や行動からは、そういった動機が見え隠れしています。
見守る立場のタルナールからすると、もっと穏当な手段で尊敬を追求してもらえるとありがたいのですが、そこは戦士として育ったゆえの不器用さということで、諦めるしかないのでしょう。
「おれにとって、ラーシュは弟みたいなものだ」と、エトゥは静かに呟きました。「死んでほしくないな」
「それは僕も同じだ」と、タルナールは応じました。「でも、いま僕たちにできるのは……ラーシュを信じることだけだよ」
そう言いつつも、タルナールはつい悪い想像を巡らせてしまいます。もしラーシュが死んでしまったら? 双方が納得したうえでの一騎打ちですから、復讐の大義名分はありません。〈魔宮〉の探索もほとんど不可能になるでしょう。あるいはすっかり打ちひしがれて、自暴自棄になってしまうかもしれません。
負けてもいい。せめて無事で帰ってきてほしい。それがタルナールの偽らざる思いでした。
朝食も摂らずにもどかしい時間を過ごすうち、夜明けが近づいてまいりました。三人はしばらくラーシュの戻りを待っていましたが、どうやら直接一騎打ちの場所に向かったようだと判断して、自分たちも宿を出立することにしました。
静かなアモルダート市街を抜け、小さな田園やナツメヤシの林を通り過ぎ、郊外のさらに辺縁、赤茶けた荒れ地が広がる一帯までやってきた三人。そこには既に数十人の人々が集まり、一騎打ちの開始を待っておりました。
徐々に明るくなる場景の中、群衆からやや離れた場所には、騎馬にまたがったシーカ兵数人、そして指揮官のキンク・ギルザルトの姿が見えます。
彼が放つ威容は、遠目から見てもすぐ本人と分かるほどに顕らかでした。ラーシュよりも拳ひとつ分は高そうな背丈。彫りこまれたような筋肉。佇まいだけをとっても、優れた戦士であることが容易に推察できます。
にもかかわらず、その顔貌が纏うのは指揮官としての冷静さと賢明さ。話によれば年齢は二十五、六歳ということですが。キンクは既に先軍の将たる風格を、充分以上身につけておりました。豊かな黒い頭髪は、ラーシュと違う母親から受け継いだものでしょうか。
視線を転じてアモルダート側を見渡してみると、バーラムの姿はありません。さすがにこの情勢下で、街を離れるわけにはいかないのでしょう。その代理らしく振舞っているのは、タルナールにとって意外な人物でありました。
マヌーカです。彼女は例の白子の若者をはじめとする、十人程度のアモルダート兵につき添われておりました。どうやら彼女はタルナールが考えているよりも、責任ある立場にいるようです。あるいは成りあがり者であるバーラムの配下に、信用できる人間があまりいないのかもしれません。
それから、鉱夫や物好きな市民が二十人ばかり。彼らは野次馬に違いありませんが、勝負の結果で生活が変わるかもしれませんから、見物ぐらいは許してやるのが人情というものでしょう。
もちろん、ラーシュの姿もありました。シーカ兵たちや野次馬とはまた離れた場所で、静かに精神を研ぎ澄ましているようです。その身が纏うゆらゆらとした闘気を、タルナールは遠くからでもはっきりと感じました。
彼の集中を邪魔したくないという思いから、三人は敢えてラーシュに声をかけることはせず、じっと見守ることに決めました。
曙光はやがて中天までを淡くして、地平線にのぼる太陽の来訪を告げます。それはすなわち一騎打ちのはじまりをも意味しておりました。
集まった人々は誰に指示されるでもなく、ふたりの戦士を囲むようにして、大きな輪を形づくります。ラーシュはその中央に進み出る途中で、ふとタルナールたちの姿を目にとめて、小さく、しかしはっきりと頷いてみせました。
所々接ぎのある皮鎧のみを身につけ、ザーランディルを手にしているラーシュに対して、キンクは汚れもへこみもない胸甲と鋼の長靴で身を固め、彼のかかとから肩までの長さを持つ大剣を握っておりました。
互いに十歩の距離まで歩み寄ったふたりは、いくつか言葉を交わしました。周囲の人間には聞こえず、儀礼的な動作も伴わない、ごくごく私的な会話のようでした。
しかし、それも長くは続きませんでした。大仰な宣言も、正式な立会人の紹介も、互いの名乗りさえもない一騎打ちがはじまります。ですがタルナールには、その静謐と素朴こそが、これから戦うふたりの間で共有されている、誇りと真摯さの顕れなのだと強く感じました。
ふたりはまったく同時に、同じ型で構えます。左足を前に出して半身になり、両手で握った柄を目の高さまで掲げ、背後に向けた切先をわずかに垂らす、素人目に見ても非常に攻撃的な構えでした。
キンクの持つ大剣の刃が星のようにきらめき、タルナールの目を射貫きます。アモル鋼でこそありませんが、一級の業物に間違いはないでしょう。
ザーランディルもまた、使い手の闘志を示すように、ぎらりぎらりと月光のような色で輝きます。いにしえの眠りから覚め、ラーシュとともに幾多の夜を屠ってきた剣です。
タルナールの横で、ネイネイがごくりと喉を鳴らします。
直後、刃同士の激しくぶつかる音が、払暁の荒野に響き渡りました。