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十年前、俺以外の英雄は全員死んだ。〜無能な生存者が、嘘をついてまで「英雄」を継がなければならなかった理由〜  作者: 蒼野湊


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第1話「英雄の、普通の夜」

英雄様は今夜も、酒場の隅で一人、安酒を飲んでいた。

英雄らしくない。でも本人は気にしていない。


これは、才能も力もない男が「英雄」という嘘をつき続けながら、

それでも守り続けた——そんな話です。

 アルデア大陸の隅にある、なんてことのない夜だった。


 英雄は今夜も、一人で酒を飲んでいた。


 席は隅の方だった。背中を壁に向けて、卓に肘をついて、安酒の杯を傾ける。注文した料理はもう片づけた後で、残っているのは酒と、少し垂れてきた蝋燭の火だけだった。


 賑やかな居酒屋だった。傭兵の怒鳴り声、商人のせわしない笑い声、酔った若者が卓を叩く音。英雄アルトが歩んできた、嘘の平和がそこにはあった。そういうものが全部混ざって、ぼんやりとした夜の音になっている。アルトはそのなかで、静かに酒を飲んでいた。


 英雄にしては、少し地味な夜だと自分でも思う。


 しかし英雄というのは、年中英雄らしくしていなければならない決まりはないはずだ。少なくとも、今夜依頼はない。明日の予定もない。ならば飲んでいていい。


 そういう理屈を、アルトは十年かけて磨いてきた。



 「──英雄様、ですか?」


 声がした。


 アルトは杯を持ったまま顔を上げた。


 少年がいた。十二、三歳くらいだろう。旅装のまま、埃を落とすのも忘れたような慌てた格好で、人込みをかき分けてこちらを見ている。目に力があった。疲れてはいるが、折れていない目だ。


「そうですよ」


 アルトは答えた。嘘だ。しかし今さら躊躇するような嘘でもない。


「本当に、英雄様が? こんなところで?」


「こんなところとは失礼な」


「あ、すみません。でも、もっと王都のとか、立派な場所にいると思っていて」


「英雄も酒くらい飲みます」


 少年は少しの間アルトを見ていた。どうやら期待していた英雄像と、目の前の人間が少し違ったらしい。残念だな、とアルトは思う。英雄というのはたいてい、皆が思っているより地味なものだ。


 本物がそうだったかどうかは知らないが。


「お願いがあります」


「どうぞ」


「──近くの村で、魔物が出ているんです」


 アルトは杯を置いた。


 魔物。この十年間、何度も聞いてきた言葉だ。魔王が倒されたはずのこの世界で、なぜまだ魔物が出るのか。神の祝福ブレシングを持つ者たちが魔族を駆逐したはずのこのアルデアで、なぜ小さな悲劇が繰り返されるのか。

 その正確な答えを、誰も持っていない。英雄が魔王を倒した。しかし世界は完全に平和にはなっていない。まあそういうものだと、みんなが思っている。アルトも、思うことにしていた。


「どの村ですか」


「ここから半日ほど東の、リンデル村です。三日前から夜になると魔物が出て、家畜を何頭も──」


「小型ですか、大型ですか」


「小型の群れ、と父から聞きました。でも数が多くて、村の人たちだけでは手が足りなくて」


「お父さんがいるんですか?」


「村の自警団にいます。でも怪我をしてしまって……だから俺が、英雄様を探しに」


 アルトは少年を、改めて見た。


 疲れた顔だが、目が真剣だった。父親のために、知らない街まで来て、見知らぬ英雄を探した。それだけのことができる子どもだ。


「カイ、といいます」と少年が言った。「俺の名前。一応」


「アルトです」


「知ってます。英雄様ですよね」


「まあ、そんなとこ」


 アルトは立ち上がって、代金を卓の上に置いた。銅貨四枚。いつもと同じ金額だ。亭主が「また来てください、英雄様」と声をかけてきた。アルトは手を軽く振って、戸口へ向かった。


「……行ってくださるんですか?」


 カイが後ろからついてきながら言った。驚いた声だった。おそらくもっと長い交渉か、金額の話か、あるいは断られることを覚悟していたのだろう。


「行かなかったら英雄じゃないでしょう」


「あの、報酬は──」


「後でいいです。急ぎますよ」


 これも十年で磨いた台詞だ。格好いいと思う。実際には、行かなければ英雄の名が廃れ、英雄の名が廃れれば守りたいものが守れなくなるという計算が半分と、困っている人間を目の前にして座っていられない性分が半分だった。


 外は夜だった。


 アルトは左手で剣の柄を握った。右手はそのまま上着のポケットに入れた。ぼんやりと、指で輪郭をなぞる。指輪の形をした、固くて冷たいもの。十年間、ずっとそこにある。


「英雄様は、ひとりなんですか?」


 カイが並んで歩きながら聞いてきた。


「今は」


「……仲間は?」


「いつもいるわけじゃないです」


 本当のことだった。仲間がいると、嘘の管理が複雑になる。人が増えるほど、ほころびが出やすくなる。それでも最近は、少し事情が変わってきていた。面倒なことになりそうだと、アルトはぼんやりと思う。


 リンデル村への夜道は、静かだった。月が薄く出ていた。虫の声がしていた。これが平和というものだと、アルトは思う。十年前に終わった戦争の後で、世界はこういう夜を取り戻した。本物の英雄が、命と引き換えに。


「ひとつ聞いていいですか」


 カイが言った。


「どうぞ」


「本物の英雄って……どんな人だったんですか?」


 アルトは少しの間、答えを探した。


「さあ」


「英雄様なのに、知らないんですか?」


「あなたが思っているような人間じゃなかったと思います」


 カイは少し黙った。


「……強かったですか?」


「強かったですよ」とアルトは静かに言った。「俺より、ずっと」


 夜風が吹いた。星が出ていた。十年前の夜も、たぶんこんな空だったと思う。魔王と英雄が消えた場所の上に、同じように星が出ていた。


 そこにひとりだけ残された人間のことを、世界の誰も知らない。


「さ、急ぎましょう」


 アルトは歩き出した。左手で剣を持って、右手はポケットの中に入れたまま。


 世界は彼を英雄と呼ぶ。


 彼は英雄ではなかった。


 それでも今夜も、歩く。

第一話、お読みいただきありがとうございます。


英雄というのは、やっぱり何か大変そうなものですね。

でも「大変そう」というより「地道にやってる」感じを書きたかった。


アルトがどんな嘘をついているのか、なぜそうなったのか、

少しずつ明かしていきますので、よろしければ次話もお付き合いください。

右手のポケットに何かを握っているのが少し気になった方──

そのままもう少しだけお待ちください。

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