六十七話 武との喧嘩
その日、家に帰ると武が怒っていた。
「姉ちゃんだろ、俺の作文に『うそです』って書いたの。先生に怒られたじゃないか!」
「だって嘘ばかり書くからよ。鼻笛とか、おならとか」
「嘘じゃないやい!」
武が怒って俺につかみかかろうとした。武も小学六年生になって、だいぶ力がついてきたけれど、まだ負けはしない。そう思って迎え撃とうとしたら、卑怯にも、俺のふところに飛び込んで脇をくすぐり始めた。
「や・・・め・・・」
俺は脇が弱い。くすぐられてげらげら笑ってしまったが、だんだんと呼吸ができなくなり、ひきつってきた。
「や・・・め・・・」
俺は悶絶した。しまいには泣いて「ゆる・・・し・・・て」と懇願した。
武がようやくくすぐるのをやめたとき、俺はぐったりして、畳の上に横たわったまま身動きできなかった。
顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、少しお漏らししていた。美知子になって一年、まじで泣いたのは初めてだった。
ようやく身動きできるようになると、俺は母親に泣きついた。俺のひどい有様に母親も驚いて、武を強く叱ってくれた。
「お姉ちゃんとはいえ、女の子を泣かしてはいけません!」
武もやりすぎたと思ったのか、素直に「ごめん」と謝った。
父親が帰ったときも、俺の泣き言を聞いて武を強めに叱ってくれた。しゅんとなった武を見て、少しはせいせいした。
夕飯になっても俺の目と鼻は赤いままだったろう。
「おわびにこれやるよ。食べて」と武が言って、煮物のニンジンを俺の皿に載せた。
「あんた、嫌いなものをくれただけじゃない!」
そう文句を言うと、代わりにメザシをくれた。夕飯のおかずは煮物とメザシだったので、それ以上のものは要求できず、しかたなくメザシを頭からポリポリとかじった。
夕飯が終わると、俺は泣いてしまったショックで、早めに布団に入った。
せっかく水上先輩の漏らしてしまったという弱みを握ったのに、自分も漏らしてしまった。この弱みはもう使えない。使ったら、同時に自分もショックを受ける。
俺がうとうとしかけたころ、武が隣の布団に入った。
「姉ちゃん、今日はごめんね」ぼそっと言った武の声を聞いて、俺は眠りに落ちていった。
翌朝、家を出るときに母親から、帰りに大根を買ってくるよう頼まれた。
俺は「わかった」と答えて、手提げカバンを折り畳んで、通学カバンの中にしまった。この時代、店で物を買っても、レジ袋なんかもらえないからだ。
家を出るといつものように恵子と待ち合わせ、一緒に登校した。俺が昨日の余韻でぼーっとしていると、恵子が心配した。
「どうしたの、みーちゃん?今日は元気ないね」
「そう?・・・別になんでもないけど」
「委員長の仕事は大変?」
「慣れたらそれほどでもないかな。一色さんにも手伝ってもらっているし。・・・ケイちゃんはどう、新しいクラス?」
「う~ん、まだそんなに親しく話せる友達はいないかな」
そのとき、登校中の麗子を見つけた。
「麗子さーん!」
俺が呼ぶと、麗子は顔を輝かせて近寄ってきた。
「おはよう、美知子さん、恵子さん」
「おはよう、麗子さん」「おはよう」
「麗子さんは新しいクラスはどう?」
「そうね、普通かな。・・・去年は頼子さんと良子さんと芸能人の話題ですぐに意気投合できたのに、今度のクラスではまだそれほど親密な友だちはできないわ」
「そう。・・・じゃあ、ケイちゃんと麗子さんとで休み時間に芸能人の話をしてみたら?麗子さんは博識で、お話がおもしろいから、興味のある生徒が寄って来るかもしれないわ」
麗子は俺と恵子の顔を見て考え込んだ。
「そうね。・・・恵子さん、つき合ってもらえるかしら?」
「いいわよ」と恵子が答えた。俺だけにこだわらず、友だちを増やしてほしいと思った。
「五月の飛び石連休までに、気の合う友だちを増やして、美知子さんに報告できるよう頑張るわ」
「頑張ってね」
俺の方はと言うと、一色と淑子とはよく話をするが、ほかのクラスメイトとは委員長として接することが多い。そう言えば、去年の今ごろの喜子もそんな感じだった。
学校に着いて三人で二階に上がると、廊下で部活の朝練を終えたらしい河野さんと出会った。
「やー、美知子、おはよう!」
「おはよう、河野さん。久しぶりだね。今日も部活?」
「うん、新入部員が入って、張り切っているところさ」相変わらずの河野さんだった。
「ところで、六月にまた青海高校と練習試合をするんだけど、それまでにミチンガを作ってくれないかい?」
「いいけど、今度もご利益があるとは限らないわよ」
「もちろん、ミチンガ頼みじゃなく、精一杯練習するよ」
俺自作の編み紐ブレスレットで願いが叶ったという成功例は、俺が知る限り河野さんの試合だけだ。刺繍糸だってそうそう切れるもんじゃない。そろそろ願いが叶うという噂が立ち消えないかな、と思ったら、
「お守りみたいなものさ」と河野さんが言った。
そうか、お守りか・・・。じゃあ、願いがすぐに叶わなくてもいいのか。
みんなと別れて二年二組の教室に入ると、既に来ていた淑子が、自分の胸あたりをしきりに触っていた。
「おはよう、トシちゃん」
「おはよー、美知子」
「体を触っているけど、どうかしたの?」
「うん、・・・最近太ったみたいで、服がきつくなってきたんだ」
「ええっ?」
俺が淑子の体を観察すると、確かに胸周りがきつそうな感じだった。胸周りだけが・・・。
「ちょっと触ってみてもいい?」俺はカバンを置きながら淑子に聞いた。
「いいよ」
承諾を得たので、俺は両手で淑子の胸をわしづかみにした。そしてショックを受けた。
「トシちゃん。・・・太ったというよりは胸が大きくなったみたい」
去年は俺と同じ貧乳だったのに・・・。
「ええっ?」淑子は困惑した声を上げた。
「ブラジャーを買い替えなくちゃいけないかな?高くつくな」
くそっ、ぜいたくな悩みを言いおって。・・・巨乳の中村先生と暮らしているからか?
「普段、どんなものを食べているの?」
「夕飯は家で作ることが多いけどね、中村先生の分と一緒に作るから、肉や魚、卵をけっこう使うかな。・・・ときどきはラーメン屋でラーメンも食べてる」
脂の摂取量が違うのかっ!?
「美知子、連休にまた遊びに来ない?」
恒例のお誘いだな。本来なら断りたいところだが・・・。
「また、ごちそうしてくれる?」脂分がほしい。
「うん、いいよ。まかせてっ」
こうして俺は淑子と中村先生の家に、掃除に、じゃなく、遊びに行くことになった。
「藤野さん、おはよう」一色が登校してきてあいさつをした。
「おはよう、一色さん」
そのとき俺は違和感を感じた。
一色の家はラーメン屋だ。ラーメンや餃子やチャーハンを食べる機会が多いだろう。しかし一色は小柄で、胸もない。
「一色さんは家でどんな食事を食べているの?」
「食事?・・・普通だと思うよ。煮物とか、豆腐とか、かな?」
「ラーメンとかは食べないの?」
「たまにしか食べない」
「ラーメン屋さんなのになぜ?」
「父さんと母さんが一日中店で油にまみれて料理してるだろ?だから夕飯はあっさりしたものを食べたがるんだ」
まあ、毎日ラーメンを食べていたら、胸だけでなく全身太るかもね。
今日の放課後は掃除当番だった。教室の机を後ろに寄せ、ほうきで床をはいていると、教室の前の廊下を恵子と麗子が歩いてきた。
二人の女子生徒を引き連れ、四人で楽しそうに話しながら歩いている。
恵子が掃除をしている俺に気づき、手を振ってきたので、俺も手を振り返した。
芸能人の話題作戦で気の合う友だちが見つかったのかな?
恵子たちが廊下を通ってしばらくして、頼子と良子が手をつないで歩いてきた。
いつものように楽しそうに話している。親密すぎて不安になるほどだった。
掃除が終わると俺は一人で下校した。
下校途中で、帰りに大根を買ってくるよう頼まれていたことを思い出す。
商店街の八百屋に寄ると、俺の足よりも太い大根を一本買い、持ってきた手提げカバンに入れた。
ずっしりと重いが、こうして足の横に並べると、俺の足が細く見える。
家に近づいたところで、珍しく下校途中の武と出会った。
「あ、武、今日は遅いわね」
「今日、放課後に修学旅行の説明会があったんだよ」
修学旅行か、懐かしいなと思った。確か武の通っている小学校では、六年生の春に修学旅行に行くんだった。
「どこへ行くの?」
「日光だって」
そこまで言うと、武は俺が持っている大根に気づいた。
「姉ちゃん、持ってやるよ」武が俺の手から手提げカバンを奪った。
「あ、ありがと・・・。優しいね」
武もだいぶ背が伸びた。じきに俺より背が高くなるだろう。・・・昨日はくすぐりという卑怯な手で負けたが、腕力でもかなわなくなるな。
ちょっと寂しいと思ってしまった。
「姉ちゃん、・・・お嫁に行くまで俺が守ってやるよ」武がぼそっとつぶやいた。
「武、・・・ありがと」
武の優しい言葉にじーんときた。武はきっと女の子に優しい、頼れる男に成長するだろう。
「・・・お嫁に行かないから、一生面倒見てね」と武に囁くと、
「え~!?」と武は嫌そうな声を出した。




