六十話 学年末試験の結果
一月は行く、二月は逃げる、三月は去る、と言うそうだ。ついに学年末試験の結果が出る。俺は逃げも去りもしない。
そういう意気込みだったが、いざ成績通知を受け取る直前になると、動悸が激しくなってきた。
中村先生が出席番号順に学年末試験の成績表を配り出す。今日はまだ終業式の日でないから、通信簿はない。
「藤野さん!」中村先生の声がする。
「はい!」と答えておずおずと前へ出る。
中村先生から成績表を受け取ると、胸に抱えて自分の席へ戻った。
二学期の期末試験の席次は、クラスで十一位、学年で四十位だった。今回はいかに!?
しばらく成績表の表紙を見つめた後、覚悟して成績表を開いた。そして中を見ると・・・、クラスで十位、学年で三十八位だった。
二学期の中間試験と比べて、クラス順位で一つ上がり、学年順位は同じだった。そして期末試験と比べると、どちらも順位が上がっていた。
「やったー!」声には出さないが、心の中で快哉を叫んだ。
委員長がこちらをちらちら見てきたので、俺はVサインを返した。委員長は頬を染めて嬉しそうな顔をした。
そして休み時間には、麗子に廊下の端に呼び出された。
「どうだった?」
「二学期よりは上がったけど、麗子さんに勝てるかしら?」
「じゃあ、成績表を交換して、お互いの順位を確認しましょう」
競争しているから異存はない。俺は麗子と成績表を交換して中を見た。
・・・クラスで九位、学年で三十五位だった。僅差だが、負けた。
「勝ったわ、勝ったわ!」大喜びする麗子。
「負けた・・・」俺はさっきの嬉しさが少しずつしぼんでいくのを感じた。
「美知子さんも頑張ったじゃない」笑みがこぼれるのを抑えきれない勝者麗子。
「じゃあ、今度の土曜日の午後に、私の家でごほうびをいただくから」
「はい」力なく答える俺。
麗子はスキップしかねない状態で教室に戻って行った。
入れ替わりに近づいて来た委員長。
「白沢さんと何を話してたの?あんなに嬉しそうな顔をして・・・」
「今回、麗子さんと順位を競ってたの。・・・そして負けた」
「でも二学期よりは上がったんでしょ?」
「うん・・・」委員長に言われて、気落ちしていたのが少し回復した。
「じゃあ、気にしないでいいじゃない」
「ところで喜子さんは?」
「私は学年で一位だったわ」
俺は再び衝撃を受けた。学年で一位なら、クラス順位は言わずもがなである。
急激に気持ちがしぼんでいくのが感じられた。少しばかり順位が上がって喜んでいたのが恥ずかしい。
俺が気落ちしている間に、委員長は俺の成績表を取って順位を確認した。
「クラス順位も学年順位も上がったわね。おめでとう」
「ど、どうも」一位の委員長に祝われていま一つ嬉しくないのは、俺のひがみ根性のせいだろうか?
「これで堂々とお礼がもらえるわね!」そう言って委員長は自分の指を唇に当てた。
そして委員長の家に日曜日の午後に行くことになった。委員長は、最初は朝から来てほしかったようだが、そうなるとまた昼食をごちそうになる可能性が高い。俺は昼食をすませてから行くと主張して譲らなかった。
昼休みに一人でトイレに行き(いつも誰かと一緒に行くわけではない)、用をすませて個室を出たところで一色と出会った。
「やあ、藤野さん」
「何か事件はない?」今回は俺の方から聞いた。目を丸くする一色。
「君がそんなに事件に興味を持ち始めてるなんて、喜ばしいことだよ。だけど、今はめぼしい事件はないんだ」
「そうなの、残念ね」一色が謎を解くのにつきあえば、少しは気分転換になると思ったのに。
「ところで今回も山際さんが学年一位の成績だったようだね」
「え?わかるの?」
「うん、私が二位だったから、一位は山際さんに決まっているさ」
俺はくらっと来た。探偵のまねをいつもしていて、それで軽く二位を取られるのですか。
だんだんと自分が取るに足らない存在に思えてくる。
そうだ、確か石川啄木という詩人が、今の俺の心情を的確に表す詩を書いてたな。
え・・・と、『友がみな我より偉く見える日は、三歩あゆまずじっと手を見る』だったかな?
俺は自分の右手を見た。いつのまにか、中指にペンだこができていた。
努力の痕跡だと思うと、その指が愛おしく感じられた。そっと頬に右手を当ててみる。
「先に手を洗った方がいいんじゃないかな?」と一色が指摘した。
土曜日になった。
俺はいったん家に帰ると、昼食をとった後で麗子の家に向かった。
玄関から声をかけると、すぐに麗子が出迎えてくれた。
「美知子さん、ようこそ!お待ちしていたわっ!」前回よりもさらにハイテンションだった。
すぐに麗子の部屋に入ると、ベッドの端に腰を下ろすよう言われた。
「ふふ、美知子さん、今回は残念だったわね。でも、次は私が負けるかも」
次もやる気ですか。
「それで、ぎゅっとすればいいの?」
「それじゃあ雰囲気が出ないから、競争に負けた人、つまり美知子さんがまず私に『麗子、抱きしめてもいいかい?』って聞くの」
何か条件が追加されている気がするが、まあいいか。
明日は委員長の家で同じようにキスをしなければならないだろうから・・・。
「私は最初は『だめよ』と拒否するけど、美知子さんがあきらめずに何度も迫って、最後にぎゅっと抱きしめるのよ」
シチュエーションプレイですか?
「じゃあ、いくわよ。・・・麗子さん、抱きしめていい?」と俺が言う。
「だめよ、美知子さん。私たちはそう言う関係じゃないんだから」と麗子。
なりきってるな、と感心する。その言葉を真に受けて、「じゃあやめる」と言ったらきっと怒られるだろう。
「いいでしょ、麗子さん。あなたを抱きしめたくてたまらないの」
「だめよ、だめ・・・」そう言いながら体を俺に近づける麗子。
俺は観念すると麗子の肩に右手をかけ、自分の方に引き寄せた。
俺の胸の中にしなだれかかる麗子。その体をそっと両手で包み込んだ。
・・・明日香ほど体は細くないが、その分胸があるな、と俺は自分の胸への圧力を感じながら思った。
俺は麗子の体を抱きしめ、しばらくそのままでじっとしていた。麗子の体温が心地よい。
麗子を抱きしめる腕の力を少し弱めると、麗子が顔を上げて俺を見上げた。
頬は赤く染まり、目と唇が潤んでいた。明日香のときと一緒だ。
明日香にも、危ういところでキスしそうになった。このシチュエーションに不本意ながら慣れてきた自分が怖い。
明日は委員長にキスか。・・・キス。俺は麗子の唇から目が離せなかった。
明日はこの唇にキスか。
そう思いながら、自然に俺の唇が麗子の唇に触れた。
目を見開く麗子。俺は雰囲気に飲まれて、つい麗子にキスしてしまったことに気づいた。
すぐに唇を離す。「ご、ごめん。・・・つい」
麗子の顔はさらに赤くなっていたが、そのまま俺の胸に顔をうずめた。
「美知子さんにキスされた・・・」
「麗子さん・・・」
「美知子さんの気持ちがわかったわ。私も同じ気持ちよ・・・」
そう言うと麗子は顔を上げ、俺の唇に自分の唇を押しつけた。
「麗子さーん」そのとき階下から麗子を呼ぶ母親の声がした。「頼子さんからお電話よー」
「ああっ、こんなときに!」麗子はそう言って俺から離れた。
「今、行きまーす」
麗子は俺を名残惜しげに見つめると、立ち上がって部屋を出て行った。
とりあえず頼子には感謝だ。・・・手遅れだった気がするが。
頼子との電話から戻ってきた麗子は、落ち着いたのか、あるいは自分の行為が恥ずかしくなったのか、それ以上キスをしようとはしなかった。
「美知子さん、これ知ってる?」そう言って麗子は芸能雑誌を開いた。
そこはグループ・サウンズの特集ページだった。
グループ・サウンズについては以前、頼子が好きだというザ・スパイダースについて聞かされたことがあったが、麗子の見立てでは、二月にデビューしたザ・タイガースというのが注目株だそうだ。
「特にボーカルのジュリーがかっこいいのよね」
ジュリー?・・・沢田研二のことか。彼も森山良子もこの年にレコードデビューしたのか。感慨深いな。
夕方になると俺はそろそろ帰ると言って麗子の家を出た。麗子は玄関先でいつまでも手を振っていた。
翌日曜日は、家で昼食を取った後で委員長の家に向かう。
委員長の家でもすぐに迎え入れられた。頬を紅潮させ、俺の手を引いて自室に招き入れる委員長。まるで新妻だ。
いつものように隣り合わせで椅子に座ると、委員長は自分のメガネをはずして机の上に置いた。そして、微笑みながら俺の両手を握った。
「え・・・と、小説の方は進んでる?」とりあえず話題をそらす。
「それが三学期はあまり・・・やっぱり経験が少なくて」
「そう・・・なの」
委員長が俺の目をじっと見つめた。その目を見ると、もう逃げられないと観念せざるを得なかった。
「じゃあ、キスして・・・」目を閉じる委員長。
「わかったわ。約束だからね」
まだ緊張はするが、それでも初めてじゃないので、俺はひるまずに顔を近づけ、委員長の唇に自分の唇をそっと重ねた。
柔らかい感触。そして委員長の甘い香りが俺の鼻をくすぐる。
うん、麗子の唇とはまた違う感触だ。
ついそう思ってしまい、委員長に申し訳ないという想いがこみ上げてきた。
レコード情報
ザ・タイガース/僕のマリー(1967年2月5日発売)




