VS ?
上半球の頂点。西新宿エリアのビルの一室。壁紙も、温かみのある床板もないコンクリートむき出しの部屋の中に、ブルーシートと毛布が敷かれた一角がある。
長袖の白いワイシャツと、派手な赤色のズボンを着た青年はそこに寝転がっていた。一見すると屋根を持つホームレスのようにしか見えないが、彼の身形を構成する服は、そのどれもが一点数万はしそうな程の上等な生地でできている。惜しむらくはズボンが真っ赤すぎて、実用性がまったく無さそうなところだった。
「……む」
ふと右に顔を向けると、そこには不自然なほどの赤い毛並を持つ狼がいた。口にはトランシーバーを咥えている。その狼は青年の傍らにトランシーバーを置くと、ガラスの嵌められていない窓から悠々と外に出て行った。
青年は特に何の疑問も持たず、トランシーバーを手に取って耳にあてる。
「……はいはい。こちら蝿野郎。何か御用で?」
名乗るその口調には自分を卑下するような色は一切含まれてなかった。むしろ何かの誇りがにじみ出ているかのように、自信満々な声色だ。
「……『赤ずきん』? 俺の能力は自動操縦だと女性をピンポイントじゃ狙えないんっすよ? そんな無茶な……あっ。切れちゃった」
無理を言うだけ言って通話を切った相手に憤りは感じない。ただ少しだけ残念に思うだけだ。
「あー……はー……コンビになれそうだと思ったんだけどなぁ。この分じゃ無理だな」
トランシーバーを宙に放り投げる。上に飛ぶ勢いがなくなり、静止したその一瞬を逃さないように、黒い粒子がトランシーバーに一斉に集る。
耳障りな羽音と、プラスチックをミキサーに入れたような音が混ざった大きな音をたててトランシーバーはバラバラになる。
「……俺の地裂く羽虫の真の力はこんなもんじゃないんだぜ?」
派手な身形をした彼の名前は郷原弘人。藍香たちを襲った蝿の力の持ち主その人だ。
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「……ニット帽がないのなら素直に開き直ればいいのに」
藍香は勿体ないと続けそうな顔で言う。だがミゼラの行動はそれに『断固としてNO』だと告げていた。
「……」
ショートパンツに黒いシャツ。そして黒い野球帽を身に着けたミゼラは神楽坂エリアの道路を堂々と闊歩する。
そこを通っている車はなかった。元々広さの観点から言って、自動車が走るのに適した道路ではないのだが新宿区の中にある以上、本来いくらかの車は行きかう場所だ。
「まるで婆ちゃんのところの田舎だな。車が通らなさすぎて信号なんか意味がないぞ、コレ」
楊斗は気味が悪いとばかりに顔をしかめる。
まるでゴーストタウンだ。瀬戸物屋に並ぶ蚊取り豚、果物屋の店頭に並ぶ小ぶりの梨等の色とりどりの水菓子、服屋のショーウィンドウに並ぶお洒落マネキンだけが、この場所が商店街だと告げている。
当然だが、店員がいない。しかも、このビオトープ内には確実に九千五百人ほどの人間がいると確定している状況にも関わらず、自分たち以外の人影をまだ数度しか見たことがない。
たまにチラっと見える程度の発見しかできない上に、先ほど誰かに害意を向けられたばかりのため、影が視界の隅に入る度にビクついてしまう。
当然、服を調達するのにも一切金は払っていない。金を受け取る店員がいないのだし、このステージを作ったポポロが許可したから問題はないが、何か言いようのない背徳感と罪悪感が頭をもたげてしまう。
「……それにしても、元々急だった神楽坂の坂がさらに急になってたりなだらかになってたりしてる気がするんだが?」
「新宿区の地盤全体が内側に弧を描かれて真球に組み込まれてるからね。少し足首が痛いかな。ああ、でもさ。それより気になることがあるんだけど」
話ついでに藍香は横に目を流す。
「善国寺が見事に歪んでるんだよね……あれ毘沙門天も大激怒レベルじゃないかな」
「ああ。まあ天使がいるんだから毘沙門天もいるだろうなぁ。あの矛でこのムカっ腹しか立たないアホ天使を滅多刺しにしてくれればいいのに」
まるでゴム膜のように綺麗に歪んでいるため亀裂は入っていないが、門が見事に内側に歪み非常に滑稽な姿を晒している。確かにあの状況を見たら、善国寺に祭られている毘沙門天も憤怒の顔にさらに怒りを足すことだろう。
ポポロの方は涼しい顔をして、鼻歌すら歌いそうな余裕さでもって受け応える。
「ふふーん。何言っちゃってるんですかあなたたちー。毘沙門天さんが単なる下級天使のワタシのことなんか視界に入れるわけないじゃないですかー。これ、現世で言うなら一般人がブログにハリウッド俳優の写真を張って浮気報道に関してぶっ叩くコメントをするようなもの。確かにマナー違反っちゃマナー違反ですが、そこまで致命的な災禍を招くようなことは……ん?」
ポポロの体から電子的なベルの音が鳴る。ポポロは服の中をまさぐり、その体には不釣り合いな大きさの携帯を取り出した。彼の体が赤子より小さいため、携帯はおおよそ身長の半分くらいだ。
念動力で動かせばいいものを、彼は律儀に通話ボタンを指で押し、両手で健気に自分の耳に携帯を向ける。
「はいこちらポポロです。何か用ですか? ……はい? 毘沙門天さんが? 事務所に殴り込み? 責任者を出せと大騒ぎ? はは、そんなまさか」
『善国寺を軽く扱った犯人は切り刻んだあとムカデ風呂じゃああああああああ!!』
「おおっぎゃあああああああああああ!?」
電話越しでもわかる怒気と鬼気。叫ぶポポロの横にいた楊斗、藍香、滅多に顔色の変わらないミゼラの顔までもが真っ青になる。
ポポロは反射的に電話を切ってしまったが、その顔には汗と後悔がありありと滲み出していた。息もこの一瞬の出来事で一気に乱れてしまっている。
楊斗は心配そうにポポロの様子を窺う。
「……だ、大丈夫かポポロ?」
「だ、だはいじょほふへふ……」
「声がカッスカスになってるぞ!!」
明らかに喉から水分が蒸発している声だった。髑髏が浮き出てきそうな程にやせ細って見えるポポロに、ミゼラは黙ってスポドリをさし出す。
「……」
「……痛み入ります」
(流石に今回は同情してあげるよ)
このときの誰もがポポロに対して同情していたが、同時にこうも思っていた。
『ああ。アジア系の神も実在してたんだなぁ』
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服は調達完了。食料もコンビニや果物屋から取れば問題はない。あとは適当な空家に入り、適当に眠れる場所を探し、適当に休息を取りながら今後の予定を練るだけだった。
三人は、大した当てもなく神楽坂エリアをふらふらと散策している。このビオトープ全体が巨大な屋内のようなものだが、硬くて冷たいコンクリートの上で寝るのは御免だった。少なくとも冷房暖房完備の屋内の中で、きちんとした布団を敷いて寝たい。
ミゼラを先頭に、二人は彼女の後ろを従者のように付いていく。ポポロは毘沙門天に折檻を受けないよう必死に善国寺の様相を修正していた。おそらく今日一日はかかる、とポポロはわざわざ報告した。どうやらまだ自分たちに付き纏う気らしい。
もうその点に関しては、拒むのもアホらしいので放っておくことにした。今はそんなことよりも気になることがある。
「……特に変化ないね」
「ああ」
藍香と楊斗の二人はミゼラの背中を鋭い目で見る。ポポロの言うことが本当だったのであれば、今彼女には自分を襲った狼や蠅と同等の力が宿っているらしい。
ミゼラ本人がそれを使って自分たちをどうこうするとは考え付かない。彼らが心配しているのは、その力によって何か決定的な大切なものが変わっていないかどうかということだった。
「せっかく助けたんだからな。変にハイテンションになって派手にすっ転んでもらったりしたら困る」
「同感さ。でも……」
今のところ、自分たちは一度として『誰かによってデザインされた奇跡』に勝てたことがない。最初の狼のときはポポロが止めてくれなかったら全身が吹っ飛んでいただろうし、蠅のときは下半球のルールが決められていなければスタミナ切れを起こして切り刻まれていたかもしれない。
「……最後の最後には短冊に頼ることになる。それは僕たちだって一緒だよ」
「わかってる。あんな化物共に生身で勝とうだなんて思えないしな」
武装した兵士に素っ裸で挑むようなものだ。勇気でも蛮勇でもなく、それはただの愚行でしかない。一目置かれるどころか一笑に付されて、誰の記憶にも残らないで終わるだろう。
「でもわかんねぇなー。一体どんな能力を欲すればまともに戦えるようになる? 別に本選が血で血を洗う殺し合いだとかポポロが言ったわけじゃないしな」
「予選においてライバルを減らす行為が許可されているってだけで、実際のところガチバトルばかりがこのゲームの趣旨なのかと訊いても『必ずしもそうじゃないですよ』とはぐらかされるばかりだしね」
本選の戦いはジャンケン大会の可能性すらある。その場合は狼や蠅の力でなく、もっと戦闘に役に立たない地味な力が覇権を握ってしまうだろう。
「……そういう意味でも様子見はした方がよかったんだけどなぁ」
「?」
ミゼラが『何?』と言いたげな瞳でこちらを振り返る。少し気になる単語が耳に入ったというだけで、自分のことを話されていたのに気づいたわけではない様子だった。
「一体短冊にどんなこと書いたんだろうな? って藍香と話してたのさ」
「……」
口に人差し指を当て、片目を瞑る。
「秘密ってことね」
藍香は彼女のお茶目な動作に少し笑う。
「あ、でもこればっかりは気になるな」
「?」
「僕たちに付いてくる理由。別に寂しいっていうのなら、他の安心できそうなグループを探してきてもいいよ? 無理して僕たちの傍にいるのなら悪いしさ」
「……」
――あれ。
異変に気付いたのは藍香だけでなく楊斗もだった。
「おい、ミゼラ。メモ帳とペンを何で出さない?」
「……」
彼女は一声も発さない。当たり前だ。だからこそのメモ帳とペンなのだから。しかし今の彼女は、そのどちらも出さない。ただ少しだけ微笑んでいるだけだ。
伝える意志がないわけではない。むしろ、彼女は何かを伝えようとしていた。明確な意志は何かを伝わり、彼らの脳を刺激する。
『……から……』
「っ!!」
囁くような声がした。だが二人には震える程に大きな声に聞こえる。まるで耳の中、鼓膜のすぐ近くで発生したような声。
(今のは一体……?)
『聴こえない? 恩を返したいからって言ったんだけど』
「ぐおおぅがっ!!」
楊斗はオーバーに頭を押さえる。驚いたのではなく、頭に直接響くような強力な音声に脳細胞を分離させられそうな程の頭痛を催されたからだ。藍香も同じように頭を押さえて膝を付いてしまった。
「なっ……はっ!? 誰!?」
『あれ。出力上げ過ぎたかな……こんくらいで丁度いいくらい?』
「……」
待て。この声は、ミゼラの動作に連動して出ているような気がする。そして声も明らかに女性のそれのものだ。
「……まさか」
頭痛が収まり、楊斗と藍香は目の前を向く。やはりミゼラは笑っていた。二人を見下ろしながら、声も無く。
『……私が久目ミゼラ。改めてよろしく、二人とも』
彼女が帽子を外すと、そこには彼女の金髪に紛れそうな金色の、『兎型』の髪飾りが付いていた。