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怪異?っぽい?

『断罪された令嬢は、微笑ったまま口を裂いた』

作者: 月白ふゆ

断罪の場に立たされた令嬢は、

最後まで微笑みを崩しませんでした。

弁明も、反論もない。

ただ静かに、その場に立っているだけ。

それを強さと呼ぶべきか、

あるいは、諦めと呼ぶべきか。

この物語は、すぐに答えを出しません。


前半では、彼女について多くは語られません。

違和感として、沈黙として、

周囲の反応の中に滲んでいくだけです。

けれど――

その微笑から目を逸らさなかった人がいました。

恐れず、裁かず、

「そういうものだ」と受け止めた人が。

断罪の瞬間、

裁く側と、見ている側が、

同時に気づくことになります。

それでも彼女を選ぶ、ということの意味に。


これは、

誰かを打ち負かすための物語ではありません。

ただ、

居場所を失った令嬢が、

ひとつだけ「選ばれた先」の話です。

扉が開いた。


それだけのことだった。夜会という場所では、扉は何度も開く。貴族たちが入れ替わり、使者が往来し、音楽に合わせて人々が流れを変える。いちいち注目するような出来事ではない――本来は。


けれど、その瞬間、会場のざわめきが一拍、止まった。


誰かが言葉を途中で切り、隣の者が息を呑み、それが波紋のように広がる。弦楽器の音だけが浮き、笑い声が遅れて追いつこうとして、追いつけない。


ヴェルナー公爵令嬢クラリッサは、特別な仕草をしたわけではない。背筋を伸ばし、歩幅を乱さず、決められた位置へ向かう。ただそれだけ。視線を奪うために首を傾けることもなく、扇子を開いて煽ることもなく、周囲へ媚びる微笑を振りまくこともない。


それでも――視線が、自然と集まってしまう。


美しい、という言葉は容易だった。だがそれを声にしてしまうと、どこか不躾になる気がした。褒め言葉で包めば包むほど、目の前の存在が俗っぽくなってしまう。だから人々は黙る。黙って、見てしまう。見ていることが露見しないように、慌てて目を逸らし、それでもまた戻ってしまう。


クラリッサの微笑は柔らかく、完璧に整っていた。まるで崩れることを想定していないかのように。


壇上では王太子が社交の中心に立っていた。近くには白を基調とした装束の聖女がいる。祈りの印象をそのまま形にしたような清潔さが漂い、言葉と振る舞いが人々の意識を一点に集める。聖女が目を上げ、穏やかに会釈すれば、それだけで空気が引き締まった。


それが今夜は、妙に揺れている。


クラリッサが現れたことで、空気の主導権が一瞬、二つに割れた。王太子の微笑は崩れない。だが、薄い苛立ちが眉間の奥でわずかに擦れるのが見えた。貴族たちはその兆しに敏感だ。目線が一斉に王太子へ寄り、次いでクラリッサへ戻る。その往復の速度が、今夜の緊張を物語っていた。


エリオット・グレイフォードは、壁際に近い場所でその光景を見ていた。伯爵家の次男として招かれた彼に、中心に立つ理由はない。兄がいる。兄は人当たりがよく、声がよく通り、たいていの場で正しい位置に収まる。父は兄を誇り、彼を育てた自分を誇る。次男であるエリオットは、うまく隙間に収まり、足りない部分を埋め、問題が起きないように場を整える役割を覚えていった。


「お前は控えでいい」


幼い頃から繰り返された言葉だ。厳しいというより、当然の前提として渡される。期待されない痛みは、怒りよりも先に静けさを覚えさせる。彼はその静けさの中で、人を見る癖を身につけた。発言する者より、沈黙する者の方が多くを抱えると知ったからだ。


だからこそ、クラリッサを見てしまった。


――きれいだ、とは違う。


形容してしまえば終わる。終わらせたくない、という感覚が先に来る。彼女は今、何もしていない。それなのに、人々の心拍を変えている。美しさというより、場の法則を書き換えるような存在感だった。


クラリッサは王太子の方へ視線を向け、礼を取った。動作は淀みなく、社交の教本のように正確だ。だが、どこか「演じている」気配が薄い。演じているのは周囲で、彼女はただ、手順に従っているだけのように見えた。


王太子が一歩前に出る。


「公爵令嬢、今夜はよく来てくれた」


声は柔らかい。温度もある。そこに敵意を混ぜれば周囲がざわつくことを彼は知っている。だから甘い言葉の中に、刃を隠す。


クラリッサは微笑を崩さずに答えた。「お招きいただき光栄です。殿下」


ただそれだけ。音のない応酬だった。周囲の貴族が会話の間に入ろうとするが、声が出ない。入っていい場所かどうか、判断がつかないのだ。


聖女が静かに前へ進んだ。白い装束が灯りを反射して、柔らかな輪郭を作る。人々は聖女の方へ視線を集め、安堵したように呼吸を整える。正しさの中心がそこにあると知っているからだ。


「公爵令嬢、お久しゅうございます」


聖女の声音は穏やかだった。柔らかい水のように流れ、誰もがそれを良いものと受け取る。だが、穏やかさの中に、わずかな硬さが混じっている。クラリッサの微笑がそれに応える。


「お変わりなく」


短い。社交辞令に必要な最小限だけを置いて、感情の余白を与えない。聖女の眉がほんのわずかに動いた。見落とす程度の揺れだが、エリオットには見えた。


それは嫉妬、という単語では足りない。もっと複雑で、もっと整えられていない感情の芽だった。


会場の端で、兄が誰かと談笑している。軽い冗談に笑い、相手の肩を叩き、自然に輪の中心に入っていく。あの身軽さが、いつも正しい方へ滑り込む方法なのだとエリオットは理解していた。危ういものには触れず、面倒な影は避ける。そうして世界は、正しさと安全の側で成り立つ。


――では、今夜の「正しさ」はどちらにある。


聖女の隣に立つのが正しい。王太子に笑いかけるのが安全。けれど、今夜の空気はそれを許さない。クラリッサがそこに立っているだけで、正しさと安全が重くなる。簡単に乗れなくなる。


踊りが始まった。音楽が上がり、誰かが手を取って舞踏へ向かう。だが、いつもより立ち上がりが遅い。皆が様子を見ている。今夜の中心がどこに収束するかを測っている。


クラリッサは踊らない。誘いの視線が飛んでも、微笑を返すだけで断る。断り方に棘はない。けれど、受け入れる余地もない。近づけば近づくほど、彼女の周囲には透明な壁があるように感じる。誰もそれを破る勇気を持たない。


エリオットは自分の杯に視線を落とした。淡い色の酒が揺れ、照明がそこに歪んで映る。歪みが、彼女の存在と重なった。


幼い頃、父は兄を褒め、弟の彼には「お前は悪くない」と言った。褒め言葉ではない。期待していないことを優しく言い換えた言葉だ。悪くない、は、良い、ではない。良い、は、選ばれる。悪くない、は、残される。


クラリッサも、残されているのだろうか。


彼女は微笑んでいる。完璧に。崩れないように。崩れれば、何かが起きると知っているように。


その考えに到った時、背筋に薄い寒さが走った。根拠はない。ただ、そう思ってしまうだけの空気があった。


聖女の周囲には人が集まり、賞賛の言葉が飛び交う。「聖女様のおかげで今年の収穫は」「癒しの奇跡を拝見できて」――誰もが正しさに触れたがる。触れれば免罪されるような気がするからだ。


一方、クラリッサの周囲は空白だった。誰もが遠巻きにし、見て、口を噤む。触れたら何かを失う気がするのだ。


王太子が踊りの輪から離れ、会場の中央へ向かった。音楽が緩やかに収束し、拍手が起こる。誰かが「殿下のお言葉を」と囁いた。空気が、儀式の形を取り始める。


聖女が王太子の隣へ立つ。二人並べば、今夜の中心が定まる。人々は安堵して姿勢を正し、耳を傾ける。正しさが宣言され、秩序が再確認される――その予感に身を委ねる。


クラリッサもまた、動かない。予定された位置に立ち、微笑んだまま、壇上を見ている。扇子は閉じられたまま。手袋に包まれた指は、わずかに力を入れているように見えた。


王太子が口を開いた。


「今宵、皆に伝えるべきことがある」


会場が静まり返る。エリオットは気づいた。これは予定された祝辞ではない。声の調子が違う。甘さが減り、冷たさが増えている。刃の方が前に出ている。


王太子は続けた。「ヴェルナー公爵令嬢クラリッサ――君に問う」


一瞬、誰かが息を呑んだ。次いで、波のようにざわめきが広がる。問う、という言葉は裁く前の手順だ。王太子が個人に問う時、それは公的な意味を持つ。


クラリッサは微笑を保ったまま、わずかに顎を引いた。「はい、殿下」


その声音は、驚くほど静かだった。彼女はこの場面を予期していたのかもしれない、とエリオットは思った。いや、予期していなければ、この静けさは出ない。


聖女が一歩前へ出た。白い装束が照明の中で浮かぶ。彼女は、祈りの前に立つ者の顔をしていた。正義の側に立つ者の顔ではなく、正義そのものになろうとする顔だ。


エリオットは、聖女の横顔を見た。穏やかに整えられている。口元も目元も、清らかさを演出するために過不足がない。その完璧さが、今夜はどこか窮屈に見える。言葉を語らなければ注目されない者の、緊張がある。


クラリッサは、ただ立っているだけで注目を集めているのに。


聖女が目を伏せた。祈りの前の所作。だが、その瞼の裏にある感情は、祈りとは別の色をしているように見えた。エリオットの胸の奥で、嫌な予感が膨らむ。


王太子の声が続く。「君は聖女への侮辱を重ね、善意を踏みにじり、王家の威信を傷つけた。さらに――」


さらに、という言葉に、群衆が食いつく。物語は決定打を求める。断罪は、最後の一撃で完成する。


クラリッサは微笑んだまま、聞いている。まるで自分に関係のない話を聞くように。だが、その微笑の奥に、何かが固く閉じ込められている気配があった。閉じ込めることに慣れすぎた者の、危うい静けさ。


聖女が顔を上げ、口を開こうとした。


その瞬間、彼女の胸中が一瞬だけ透けたように見えた。エリオットの目には、言葉にならない焦りが映った。どうして――自分が語っているのに、人の視線があの令嬢から離れないのか。どうして――正しさを語るはずの自分が、場を支配できないのか。


聖女の唇が動く。声が出る直前の、ほんのわずかな間。


そして彼女は、自分の正しさを守るために、最も短い刃を選ぶ。


「……その笑顔が、気持ち悪いのよ」


言葉が落ちた。


落ちたはずなのに、音が消えた。会場の空気が一瞬、凍りついたように静まり返る。誰もが、その一言の性質を理解したからだ。正義ではない。必要な告発でもない。感情だ。剥き出しの、醜いほどに正直な感情。


クラリッサの微笑は、まだ崩れない。


崩れないまま――何かが、限界に触れた。


彼女の目が、ほんのわずかに細くなる。まばたきは一度だけ。息が、静かに吸われる。誰にも気づかれない程度の動きなのに、会場全体がそれを感じ取ったかのように身を固くする。


エリオットは杯を持つ手を止めた。


今、何かが起こる。根拠はない。だが確信があった。彼女の微笑が崩れないことが、逆に恐ろしかった。崩れないのは強さではない。崩れないように固定されているのだ。壊れないのではない。壊れたときに何が起こるかを、彼女が知っている。


クラリッサは聖女を見た。王太子を見た。群衆を見た。ゆっくりと、順番に。


そして微笑んだまま、静かに言う。


「……そう」


それだけの返事が、なぜか決定的な終わりの予感を帯びていた。


会場は、まだ静まり返っている。

誰も気づいていない。

気づいていないまま、次の瞬間を待っている。



---


灯りの下で、クラリッサの口元だけが、妙に影を濃くした。


それは照明の角度では説明できない。会場の誰もが同じ灯りの中にいるのに、彼女の唇の輪郭だけが、現実から一歩ずれたように見えた。誰かが喉を鳴らし、誰かが椅子の脚を引き、乾いた音が空間に落ちる。


クラリッサは微笑んでいる。


その微笑が、変わらない。


変わらないまま――口角の端が、わずかに引かれた。笑みが深くなるのではない。皮膚が、内側から引っ張られていく。目に見えない糸が、左右の端を耳の方へと連れていくように。


まず、赤い線が浮かんだ。


細い、細い線だった。口紅の色ではない。頬を撫でるように走る、その赤の生々しさが、見る者の理性を一瞬で奪った。次に、音がした。布が裂ける音ではない。骨が軋む音でもない。もっと湿った、もっと嫌な、皮膚の下の何かがほどけるような音だ。


誰かの悲鳴が上がった。


悲鳴は遅れていた。声帯が反応するより先に、身体が硬直していた。恐怖は、理解より速い。


「……口、が……」


誰かの掠れた声が、その場の全員の視界を固定した。


クラリッサの口元は、もう一つの形になりかけていた。唇の端が裂け、頬の中ほどへ、さらにその先へと伸びる。けれど顔全体の表情は崩れない。目元は穏やかなまま、眉は動かず、微笑という形式だけが保たれている。


美しい顔の上に、あり得ない口がある。


その矛盾が、会場を凍らせた。


王太子の顔から血の気が引いた。立っているのに、足元が揺れているように見えた。彼は何かを言おうとして、言葉を失う。喉が動き、唇が開くのに、音が出ない。命令も、非難も、撤回も、どれも意味を持たないと本能が理解してしまった者の顔だった。


聖女は一歩下がった。下がったことに気づいていない。白い装束が、灯りの中で浮かび、手が震える。祈りの姿勢を取ろうと指先が動くが、思い出したように止まる。祈りが通じる相手ではない、と身体が先に理解してしまったのだ。


クラリッサは、ゆっくりと首を傾けた。


それは夜会での、よくある仕草のはずだった。問いかけるように、相手の言葉を待つように。けれど、その仕草が今夜は――裁きの合図に見えた。


そして彼女は、微笑んだまま、問いを落とした。


「……私、きれい?」


その声は、驚くほど静かだった。甲高くもない。嘲るようでもない。むしろ社交の場で、礼儀として差し出す問いのように、丁寧に整っていた。


だからこそ、誰も答えられなかった。


きれいだ、と言えば何が起きるのか。きれいではない、と言えば何が起きるのか。答えが分からないのではない。答えの先が分からない。理解の外にあるものに、言葉を渡すのが恐ろしい。


恐怖が、遅れて現実を飲み込む。


悲鳴が連鎖し、人々が後退し、椅子が倒れる。誰かが転び、誰かが助けようとして一緒に転ぶ。音楽隊は演奏を止めることすらできず、弓が弦の上で無様に擦れ、金属のような音が響いた。次の瞬間、誰かが譜面台にぶつかり、紙が舞った。


王太子がようやく声を絞り出した。


「護衛……!」


その一言が限界だった。続けて命令が出ない。護衛たちも動けない。剣に手をかける者がいる。しかし抜けない。抜いた瞬間、彼女が振り返ったら――それが最後になる、という確信が、動作を止める。


聖女は口を開いた。喉が震え、声が裏返りそうになる。けれど彼女は、必死に整えた。


「……神よ。ここに、邪なるものが――」


言葉が途中で途切れた。


奇跡を呼ぶ時の、あの“確かさ”がない。空気が応えない。いつもなら言葉に合わせて胸の奥に熱が灯り、手のひらに柔らかな光が集まるはずだった。だが今夜は、何も起きない。何も起きないことが、さらに彼女を追い詰める。


聖女の視線が揺れた。


――どうして。


心の奥で、その問いが渦を巻く。自分は正しいはずだ。自分は選ばれたはずだ。正しくないものを裁けるはずだ。なのに、目の前のものは正しさの道具が届く範囲にいない。祈りが届かない。言葉が届かない。


正しさが、ここでは無力だ。


聖女の口元が歪んだ。美しく整えてきた表情が、初めて崩れた。


「……やめて……!」


その言葉は命令でも祈りでもなかった。単なる懇願だった。彼女自身が、そのことに気づいている。気づいているから、さらに恥ずかしい。恥ずかしいから、さらに恐ろしい。


クラリッサは笑っている。


裂けた口で、穏やかに笑っている。


そして、もう一度だけ繰り返した。


「私、きれい?」


その二度目の問いは、答えを迫るというより、確認に近かった。答えがなくても構わない、という静けさがあった。答えがなくても、結果は変わらない、と告げる静けさが。


王太子の膝が折れた。


倒れたのではない。身体が、立つという選択を放棄した。膝が床につき、掌が絨毯を掴む。彼は顔を上げようとして、上げられない。目が合ったら終わる、という恐怖が、筋肉を縛っている。


「……クラ、リッサ……」


絞り出した呼び名は、懇願に近かった。愛の名残ではない。責任の名残でもない。恐怖に対する、最後の言語的抵抗だった。


クラリッサは彼を見た。ゆっくりと。丁寧に。


そして微笑んだ。


微笑んだまま、彼女は一歩だけ前に出た。足音が小さく響く。貴族たちが雪崩のように後退した。空白が生まれ、中央だけが広くなる。舞踏の輪が、今は裁きの円に変わっていた。


誰もが、逃げ道を探している。だが逃げても無駄だ、と身体が言っている。走れば追われる恐怖。止まれば見られる恐怖。どう動いても恐怖が増える。恐怖は、戦略を奪う。


その中央で、クラリッサだけが落ち着いていた。


落ち着きすぎている。


エリオットは息を呑んだ。怖い。もちろん怖い。身体が逃げろと言っている。だが、足が動かなかった。いや、動かないのではない。動く理由を、見つけられなかった。


彼女がそこに立っているのは、今夜の理不尽の結果だ。ならば、ここで逃げるのは――彼女をもう一度切り捨てることになる。


そう思った瞬間、自分の心の底にある癖を思い出した。期待されない側の人間は、勝つ側に乗れない。勝つ側に乗れないかわりに、残る側を選ぶ。残る側の景色を知っている。


気づけば、エリオットは一歩だけ前へ出ていた。


周囲の視線が刺さる。愚か者を見る目。巻き込まれるな、と言いたい目。だが彼は止まらない。止まったままでも、同じだと思った。


「公爵令嬢」


声が出たことに自分でも驚いた。震えはある。けれど言葉は折れなかった。


クラリッサの視線が、彼へ向いた。


裂けた口元のまま、目だけが静かに細まる。まるで相手を測るように。あるいは、試すように。


エリオットは唾を飲み込み、続けた。


「……ここは、冷えます。お身体に障ります」


場違いな言葉だった。怪異の只中で、体調を案ずる。だがその場違いさが、逆に効果を持った。クラリッサの微笑が、ほんのわずかに揺れたように見えた。裂けた口が、さらに広がるのではなく、微細に“戻ろう”とする気配が生まれる。


クラリッサは、ゆっくりと息を吐いた。


「……そう」


第1部で彼女が落とした言葉と同じだった。だが今度は、その言葉の温度が違った。冷たさではない。疲労の温度だった。長く抱えてきたものが、ようやく外へ出た後の、空虚に似た温度。


彼女は扇子を取った。閉じたままの扇子を、口元へ添える。隠すためではない。整えるための所作のようだった。扇子の影が口元を覆うと、裂け目の赤が見えにくくなる。見えにくくなるだけで、恐怖が薄れる。人間の目は、見えないものを恐れるが、見えすぎるものも恐れる。


彼女はその恐怖の性質を、よく知っているようだった。


「殿下」


クラリッサが王太子へ声を向けた。王太子は顔を上げられない。答えられない。貴族たちも息を止める。彼女が何を言うかで、世界が決まる気がした。


「今夜のことは――お忘れください」


その言葉は意外だった。


忘れられるわけがない。忘れろと言えば、なおさら刻まれる。それでも彼女は、丁寧に言った。“忘れろ”ではなく、“忘れてほしい”。命令ではない。お願いでもない。宣言でもない。


ただ、距離を取るための言葉だった。


王太子の喉が動いた。返事が出ない。出せない。彼ができたのは、ただ頷くことだけだった。頷くという行為が、彼の敗北を確定させる。だがそれ以外に、生き残る手段がない。


聖女が震える声で言った。


「……あなたは……何者……」


問いは正しい。だが答えを求めていない。理解したいのではない。理解できないことを確認して、安心したいのだ。理解できなければ、自分の正しさが壊れた理由を外へ押し出せる。


クラリッサは聖女を見た。扇子の陰で、裂けた口元の形は見えない。だが“ある”ことは、空気が知っている。


「私は……」


言いかけて、クラリッサは止めた。


名乗る必要がない。説明する必要がない。説明した瞬間、彼女は“理解される対象”になる。理解される対象は、やがて分類され、処理され、排除される。今夜、彼女が壊したのはその処理の回路だ。自分から回路に戻る必要はない。


だから彼女は、微笑んだまま、最も残酷な答えを置いた。


「あなたが言った通りよ。気持ち悪いでしょう」


聖女の顔が引き攣った。


その瞬間、彼女の中で何かが折れたのが見えた。怒りではない。悲しみでもない。自分が積み上げてきた「正しさの足場」が、目の前で崩れた音だ。祈りは通じない。奇跡は起きない。言葉は届かない。世界は自分の外側でも動く。聖女が初めて知った現実だった。


彼女は声を失い、ただ唇を震わせる。聖女の周囲で賞賛していた者たちが、一歩、また一歩と離れていく。正しさの中心が揺れた瞬間、人は最も早く距離を取る。


王太子の護衛隊長がようやく動いた。剣を抜くのではなく、王太子の肩へ手を置く。起こすためではない。支えるためだ。護衛の使命は、敵を斬ることではなく、主を生かすことだと彼は知っている。そして今夜、敵を斬るという発想そのものが無意味だと悟っている。


「殿下、退避を」


隊長の声は硬い。王太子は何度も瞬きし、ようやく頷く。立ち上がろうとするが足がもつれる。護衛たちが肩を貸し、王太子を支えながら下がる。群衆が道を開ける。誰も、王太子を見ない。見たら、自分の中の秩序が崩れるからだ。


聖女は残された。


残されたというより、取り残された。


彼女は自分が中心であるはずの場で、誰より孤独になった。祈ろうと手を組む。しかし組んだ手が震える。震えを止められない。止められないことに焦り、焦りがさらに震えを増やす。


クラリッサはもう見ていない。視線を逸らし、静かに踵を返した。


逃げるのではない。去るのだ。場を捨てるのではなく、場を終わらせるのだ。


その背に、誰かが声をかけようとして、できない。誰も引き止められない。引き止める権利がない。引き止める力もない。


エリオットが彼女の後ろへついた。距離を取り、しかし離れすぎない。護衛のように近づけば不躾だ。貴族のように離れれば、彼女を一人にする。彼はその絶妙な距離を、ずっと学んできた。


会場の扉が開かれる。冷たい外気が流れ込む。その風に触れた瞬間、クラリッサが小さく肩を揺らした。ほんの一瞬の弱さだった。


エリオットは自分の外套を脱ぎかけて、止めた。差し出せばいい。だが今の彼女は、施しを受け取る状態ではない。受け取った瞬間、彼女は「助けられる側」になる。今夜、彼女は助けられる側ではない。彼女は――場を裁いた側だ。


だから彼は、ただ言った。


「馬車を、こちらへ」


クラリッサの付き人がはっとし、動き出す。公爵家の者は今夜の出来事を、驚きながらも、すぐに“動ける形”へ戻っていく。恐怖を飲み込む訓練をした者たちの動きだった。公爵家は、王家に依存してきたが、それでも名門であり続けた。危機が来れば、まず機能する。


馬車が寄せられる。クラリッサが乗り込む直前、扇子の陰で、彼女の唇が動いた。


「……グレイフォード卿」


エリオットは息を詰めた。名を呼ばれたことに驚いた。彼女は彼の名を知らないはずだ。夜会で次男の名など、中心には届かない。なのに、呼んだ。


「はい」


「あなたは……逃げないのね」


問いではない。確認でもない。感想に近い。だがその一言に、今夜のすべてが詰まっていた。彼女がこれまで、何度も何度も“逃げられてきた”ことが滲んでいた。


エリオットは正直に答えた。


「怖いです」


クラリッサの目がわずかに細まる。怒りではない。驚きでもない。たぶん、安心に近い何かだ。怖いと認めることが、逃げないことよりも誠実だからだ。


エリオットは続けた。


「でも……怖いことと、離れたいことは別です」


言った瞬間、彼自身の胸が熱くなった。これが自分の言葉なのか、と遅れて実感が来る。兄のように軽やかではない。父のように威厳もない。だが彼には、自分の人生がある。今夜、初めてそれを口にした気がした。


クラリッサは扇子を口元から少しだけずらした。


裂けた口は――見えない。


見えないというより、戻りかけている。赤い線が薄れ、形が元に近づいていく。完全に元通りではない。だが、今夜の“それ”は、彼女の意思で引き戻されている。


「……そう」


またその言葉だった。彼女の中で、終わりと始まりを繋ぐ言葉なのかもしれない。


馬車の扉が閉まる。車輪が軋み、闇へ滑るように去っていく。残されたのは、崩壊した夜会の空気だけだった。


エリオットはしばらく立ち尽くした。


背後で、ざわめきが再開する。だがそれはもう社交のざわめきではない。恐怖の共有だ。噂の芽だ。明日には街へ、明後日には国境の向こうへ届く類の話だ。


――今夜、王太子と聖女は終わった。


終わったというのは、失脚ではない。制度として消えるわけではない。けれど、人々の心の中で「正しさの中心」に穴が開いた。穴が開いた中心は、修復できるまで信用を失う。その修復に必要なのは時間だ。そして時間は、恐怖の噂が増幅するだけの燃料になる。


会場の中央で、聖女が座り込んでいた。


誰も手を差し伸べない。差し伸べれば、自分が“巻き込まれた側”になる。人は正しい側に立ちたい。だが正しい側が揺れた時、人は正しさを見捨てる。聖女はその現実の冷たさに、今夜初めて触れた。


彼女は震える唇で祈りの言葉を繰り返す。けれど、灯りは灯らない。奇跡は起きない。周囲の視線は冷め、どこか責めるように変わっていく。正義は無力だった、という事実を、誰かのせいにしたい視線だ。


王太子は護衛に支えられながら、廊下の向こうへ消えた。戻ってくることはないだろう。今夜の場へ戻れるだけの心臓を、彼は持っていない。


エリオットは息を吐いた。


自分の手が震えていることに気づく。怖かった。怖かったのに、立っていた。立っていたことが、今さら遅れて身体に返ってくる。膝が笑い、喉が渇く。生き延びた者の反動だった。


「エリオット」


兄の声が背後からした。軽い声ではない。珍しく、硬い。


振り返ると、兄は眉をひそめていた。父も近くにいる。二人とも、恐怖よりも先に“損得”で世界を見る人間だ。だから今夜の出来事をどう扱うべきか計算している。危険なものから距離を取れ。王家側に寄れ。公爵家と関わるな。そういう判断が目に透ける。


兄が低い声で言った。


「何をしていた。あれは……」


言葉が続かない。兄は恐怖を言語化できない。恐怖を言語化した瞬間、自分が安全ではなくなるからだ。


父が言った。


「余計なことはするな。巻き込まれるぞ」


エリオットは静かに頷いた。反論はしない。今ここで争う必要はない。争えば、彼らの中で“次男は問題を起こす”という認識が強まるだけだ。


ただ、ひとつだけ言った。


「……公爵家は、今夜、捨てられません」


兄が目を見開いた。父が眉を寄せた。


「何を言っている」


エリオットは言葉を選んだ。選ばなければならない。彼らは言葉の形でしか理解しない。


「王家は……今夜の件を、忘れたことにするでしょう。表向きは」


父が息を止める。兄が顔を歪める。


「だが、心は違う。恐怖は残る。残る恐怖は、距離を生みます。距離が生まれたら、王家は公爵家を“使えない”」


父の目が細くなる。計算の目だ。


「つまり――」


「公爵家は、王家から独立せざるを得ない。その時、見捨てる家と、残る家が出ます」


兄が言い返そうとする。「残るだと?」という侮蔑が混じった声だった。だが父がそれを手で制した。父は、次男の言葉を久しぶりに“情報”として聞いている。


エリオットは続けた。


「公爵家は名門です。壊れません。壊れないものに、早く手を伸ばした方が――家は助かります」


父の喉が動いた。兄は唇を噛んだ。見下してきた次男が、今夜だけは“正しい判断”を口にしている。その事実が、兄の誇りを削っている。


父は短く言った。


「……帰るぞ」


エリオットは頷いた。今夜はこれでいい。争いは今ではない。今夜、彼はただ、ひとつの道を見つけた。それだけで十分だった。



---


公爵邸では、灯りが消えないまま朝を迎えようとしていた。


クラリッサは自室の鏡の前に立っていた。扇子を置き、手袋を外し、口元へ指先を当てる。裂けた感覚は、もうない。肌は滑らかに戻っている。だが、戻ったからといって無かったことにはならない。鏡の中の自分は、いつも通り美しい。だからこそ、怖い。


彼女は息を吐き、椅子に腰を下ろした。


付き人がそっと水を差し出す。クラリッサは受け取り、口をつけた。手がわずかに震えている。それを隠すように杯を置いた。


「……今夜のことは、どこまで……」


付き人が恐る恐る言う。答えを求めているのではない。確認だ。主人が無事であることを、言葉で確かめたいのだ。


クラリッサは微笑んだ。


微笑めている。今夜も微笑めている。それだけで、彼女は自分を保てる。


「噂になるわ」


「……殿下は……」


「忘れたことにするでしょう。表向きは」


付き人が目を伏せる。クラリッサはそれ以上言わない。王家の名を語れば、また何かが動く。今夜、動かしたのは十分だ。


そこへ、執事が静かに入ってきた。彼は深く礼をし、控えめに言った。


「伯爵家次男、エリオット・グレイフォード卿より、書状が届いております」


クラリッサの目がわずかに動いた。


彼女は書状を受け取り、封を切る。文字は端正で、内容は短い。


――今夜の無礼をお詫びします。

――公爵令嬢のお身体のご無事を祈ります。

――必要があれば、いつでもお呼びください。


それだけ。


大仰な賛美はない。恐怖を隠す言い訳もない。距離を詰める下心もない。ただ「必要なら呼べ」と書いてある。必要を決めるのは、受け取る側だと理解している文章だった。


クラリッサは紙を握りしめた。


胸の奥が、少しだけ痛んだ。痛みは嫌なものではない。長く凍っていたものが、ようやく動き始めた痛みだ。


彼女は小さく呟く。


「……逃げない人」


そして、気づかないうちに微笑んでいた。


今夜の微笑は、社交のためではない。誰かを遠ざけるためでもない。自分がまだ人間でいられることを、確認するための微笑だった。



---


翌朝、王城の窓はすべて閉じられていた。


夜会の騒ぎが「何事もなかった」ことになる速度は、恐ろしいほど早い。王家は、噂よりも先に沈黙を配る術を持っている。近衛は関係者の動線を押さえ、出入りする者の口を塞ぐ。使者は「不確かな話を流す者は不敬」と暗に示し、貴族たちはそれを理解して頷く。


その日、王城から出た公式の文言は短かった。


――昨夜の夜会は、体調不良による早退があったのみ。

――王太子殿下は静養。聖女は祈りの務めに戻る。


文章としては完璧だった。余白がない。疑念を挟む隙がない。何も語らないことで、何も起きていないと宣言する。


だが、沈黙は噂を消さない。


沈黙は、噂の形を変える。


言葉にならないものほど、人は語りたがる。特に、恐怖は共有されることで安心に変わるからだ。夜会の会場にいた者たちは、互いの顔色を見ながら確かめ合う。自分だけが見た幻ではない。自分だけが怖かったのではない。恐怖は「一緒だった」と確認されることで、日常へ押し戻される。


だから、噂は細部から始まった。


「口元が……」 「赤い線が……」 「笑っていた。あのまま……」


誰も名称をつけない。つけた瞬間、それは処理対象になる。処理対象は、王家が動く口実になる。だから皆、曖昧に語る。曖昧なまま恐れ、曖昧なまま確信する。


そして最後に、誰もが同じ結論へ辿り着く。


――触れてはいけない。


王家が忘れたことにした理由は、それだった。あれを「事件」と認定すれば、裁かなければならない。裁こうとすれば、再び相対しなければならない。相対してしまえば、あの夜の崩壊が繰り返される。


だから王家は、距離を取る。


距離を取ることを、政治では「整理」と呼ぶ。


整理の対象になったのが、ヴェルナー公爵家だった。



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聖女は神殿へ戻された。


戻された、という言い方が正しい。自ら戻ったのではない。王家にとって聖女は象徴であり、象徴が揺らいだまま外に出しておけない。人目から隠す。清める。整える。それが象徴のメンテナンスだ。


神殿の回廊は冷たく、白い石が光を反射していた。聖女はその中を歩きながら、自分の足音だけが響くことに耐えられなかった。昨夜、どれほど多くの視線が自分を見捨てたかを思い出してしまうからだ。


祈りの間で、彼女は膝をついた。


「神よ」


声は震える。だが彼女は震えを祈りの熱に変えられるはずだった。いつもそうしてきた。恐怖も焦りも、奇跡という形で浄化してきた。


けれど、今は違う。


言葉を重ねても、胸の奥に火が灯らない。手のひらに集まるはずの温度が来ない。祈りは空気へ溶けるだけで、何も返ってこない。まるで神殿そのものが、彼女の祈りを拒んでいるようだった。


聖女は唇を噛み、必死に思い出す。


昨夜、何が起きたのか。自分は何を言ったのか。あの言葉のどこが間違いだったのか。


――間違いではない。正義だった。


そう思おうとするたび、あの光景が脳裏に浮かぶ。崩れない微笑と、あり得ない口元。あれが目の前に立った瞬間、正義は意味を失った。意味を失ったという事実こそが、聖女の信仰を壊していく。


祈りは届かない。奇跡は出ない。


その噂は、王家が沈黙しても漏れていった。奇跡は隠せない。出ないものは、出ないからだ。信徒が囁く。侍女が目を逸らす。神官が「今は静養」と言い換える。


象徴は、揺らぐ。


象徴が揺らげば、王太子も揺らぐ。


王太子は静養という名目で、外に出られなくなった。体調不良が原因ではない。外へ出た瞬間、誰かの目に「昨夜の怯え」が映る。映った怯えが伝播し、殿下自身の恐怖を呼び起こす。王太子が最も恐れているのは、政治的失脚ではない。


あの夜が、再現されることだ。


だから王太子は、部屋の中で人を裁くようになった。裁く相手は、手の届く範囲にいる者だけ。臣下、使者、護衛。怒鳴れる相手にだけ怒鳴る。弱い相手にだけ強く出る。そうして自分がまだ「上にいる」と錯覚する。


王太子は疲れていた。恐怖で、疲弊していた。


そして王家は理解した。


この二つの象徴を、当面「前線」に立たせるのは危険だ、と。


危険は排除する。排除の前に、距離を取る。距離を取るために、切れる糸を切る。


その糸の先にあるのが、公爵家だった。



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ヴェルナー公爵邸では、昼前に家内会議が開かれていた。


公爵は黙っていた。老獪な男だった。怒鳴らない。嘆かない。必要な時だけ動く。王家に近づきすぎたのは彼の判断であり、娘の婚約はその象徴だった。失敗を認めることは、政治では死に直結する。


だが、公爵は「修正」を選ぶ。


修正は、失敗を失敗と言わずに済む方法だ。


「王家からの連絡は」


執事が静かに答える。「静養の件のみで、昨夜の夜会については……」


「ない、ということだな」


「はい」


公爵は頷き、視線を娘へ向けた。クラリッサはいつも通り、微笑を薄く乗せて座っている。顔色は悪くない。乱れもない。だがその整いすぎが、家人の胸を重くする。


公爵夫人は言葉を探し、結局、問いを捨てた。


「……お前は、昨夜、何を」


公爵が手で止めた。問いは危険だ。答えはもっと危険だ。家の中の会議であっても、危険は口にしない。危険は、処理方法だけ決める。


公爵は淡々と言った。


「王家は忘れたことにする。そのために距離を置く。距離を置くために、我が家は『切り離される』」


言い方に毒がない。だからこそ冷酷だった。公爵家は政治のカードであり、王家にとって都合が悪くなれば切られる。それだけの話だ。


「切り離される、とは」


「婚約破棄だ。形式は整えるだろう。だが王家は、こちらの反応を待っている」


反応とは、泣きつくか、反抗するか、沈黙するか。泣きつけば取り込める。反抗すれば叩ける。沈黙すれば距離が固定される。


公爵は沈黙を選ぶ。


「泣きつくな。反抗するな。淡々と受け入れろ」


クラリッサが微笑んだまま頷く。その頷きが、昨夜の出来事を「処理」しているようにも見えた。処理しないと、生きられないのだと、家人は本能的に理解してしまう。


公爵は続けた。


「そして、切り離された瞬間、我が家は独立する。独立は危険だ。だが、危険だからこそ、準備すれば強くなる」


ここで初めて、公爵の眼が冷たく光った。


「我が家は、娘を前面に出さない。表には立たせない。だが、家の中枢に置く」


クラリッサは表情を変えない。だが、その言葉には救いがあった。排除ではない。幽閉ではない。役割の再定義だ。恐れられた存在を、機能へ変える。公爵はそれができる男だった。


「当主を支える者が必要だ」


執事が小さく息を呑んだ。公爵夫人は目を伏せた。誰もが同じ結論に辿り着く。次期当主が必要。だが、公爵家の内部事情は複雑だった。


公爵は子が少ない。男児は病弱で、継承に不安がある。だからこそ王太子との縁に賭けた。その賭けが終わるなら、別の継承の手が要る。


「入婿を取る」


公爵の言葉は躊躇がなかった。


公爵夫人が小さく言う。「……誰を」


公爵はすぐに答えない。候補は多い。だが条件は厳しい。


権力欲が強い男は危険だ。王家と繋がろうとする男も危険だ。恐れを武器にする男はもっと危険。必要なのは、恐れを知り、恐れから逃げず、それでも無理に触れようとしない男。距離を測れる男。家を継ぐことが目的ではなく、家を機能させることが目的の男。


「……グレイフォード伯爵家次男」


執事が目を見開いた。公爵夫人が一瞬、驚きの表情を見せる。クラリッサだけが、微笑を少しだけ深くした。


公爵は続ける。


「昨夜、最後まで目を逸らさなかった」


その一言で、すべてが決まった。公爵は人の価値を「結果」で見る。昨夜の結果は、誰よりも鮮明だった。


「入婿の条件を整える。王家が動くより先に、こちらが動く」


執事が頷き、すぐに手配を始める。政治は早い方が勝つ。遅れれば、噂と恐怖が決めてしまう。


クラリッサは黙って聞いていた。


彼女は当主ではない。だが当主の隣に座る。表に立たず、裏で家を支える。その形が、今の自分に最も合うと、彼女は知っていた。


微笑んだまま、胸の奥で一つだけ呟く。


――逃げない人。



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グレイフォード伯爵家の屋敷では、昼過ぎ、父と兄が不機嫌だった。


不機嫌の理由は明快だ。昨夜の夜会で、家の人間が「余計な動き」をした。そしてその余計な動きが、政治的に“価値”を持ち始めている。


伯爵は書状を机に置き、指先で叩いた。


「ヴェルナー公爵家から使者が来る」


兄が顔を歪めた。「関わるなと言ったはずだ」


伯爵が低い声で言う。「関わるな、と言うのは弱者の判断だ。関わらないことで失うものがあるなら、関わる」


兄が言い返そうとして、止めた。父の声が、計算の声になっている。兄は自分が最も得意とする「安全な側に乗る」方法を探すが、今夜は安全な側が定まっていない。


伯爵が続ける。


「次男を呼べ」


兄が睨む。「なぜ、あいつを」


伯爵の返事は短い。「昨夜、あいつが残った」


兄の唇が固くなる。残った、という言葉が刺さる。兄は逃げたわけではない。安全な位置に退いたのだ。正しい判断だ。そう思っている。だが父は、その正しさを評価していない。そこに、兄の誇りが傷つく。


エリオットは、呼ばれる前から気配で察していた。


廊下を歩きながら、胸の奥が落ち着かない。昨夜の恐怖は、まだ身体の奥に残っている。目を閉じれば、あの口元が浮かぶ。浮かぶのに、それが彼の中で「嫌悪」にならない。


恐怖はある。だが嫌悪ではない。


嫌悪になるとしたら、それは「自分が切り捨てる側」に回るときだけだと、彼は知っている。


伯爵の前に立つと、父は彼を見上げた。見上げる、というのが正しい。座ったままの視線は、今までの「次男を見る目」と違っていた。試す目だった。


「ヴェルナー公爵家から話が来る。入婿の打診だ」


兄が横で息を呑む。予想していなかったわけではない。だが実際に言葉になると、現実になる。


エリオットは一拍置いた。


「……はい」


伯爵が言う。「どう思う」


兄が苛立ちを隠さず言う。「断れ。関われば家が危ない」


伯爵が兄を黙らせるように指を上げ、エリオットへ視線を戻す。「お前の意見だ」


エリオットは息を吸った。言葉は慎重に選ぶ必要がある。これは人生を決める話だ。断っても地獄、受けても地獄。しかし、地獄の質が違う。


「公爵家は……切り離されます。王家から」


伯爵が頷く。兄が唇を噛む。兄はまだ「王家の側に立てば勝てる」と思っている。父はもう違う読みをしている。


エリオットは続けた。


「切り離された公爵家は、独立します。独立は危険ですが、同時に……強くなります。王家に依存しない家は、長期で生き残る」


伯爵の目が細くなる。計算の目だ。


「お前は、行くのか」


エリオットは言った。


「怖いです」


兄が鼻で笑った。「怖いならやめろ」


エリオットは兄を見ずに、父へ向けて言葉を続ける。


「怖いから、行きます。怖いものから目を逸らすと……いつか、もっと怖い形で戻ってくる」


昨夜の恐怖が、そのまま言葉になっていた。伯爵はそれを聞き、何かを納得したように頷く。


「条件を聞け。損得だけで決めるな。だが、恐怖だけでも決めるな」


伯爵の判断は、父としての情ではない。家としての判断だ。だがその判断は、今まで「次男は控えでいい」と言ってきた父の言葉より、ずっと重かった。


兄が声を荒げかけた。「父上、本気なのか」


伯爵は兄を見た。「お前は伯爵家を継ぐ。だからこそ、目先の安全だけを見るな」


兄は黙った。父に叱られるのは久しぶりだった。叱られる理由が、自分の行動ではなく“価値観”であることが、さらに屈辱だった。


エリオットは静かに頭を下げた。


その動作は従順ではない。決意の形だった。



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数日後、ヴェルナー公爵邸の応接室で、初めて正式な顔合わせが行われた。


形式は「挨拶」。だが空気は「交渉」だった。


公爵は硬すぎない笑みを浮かべ、伯爵は計算の目を隠して微笑んだ。互いに、互いを値踏みしている。家格は公爵が上。だが伯爵家は王家との距離を保てる位置にいる。公爵家は今、その距離を失いつつある。どちらが上かは、今後で変わる。


エリオットは席に座り、背筋を伸ばした。いつもなら兄がこの席にいる。だが今日は自分だ。その事実が、微かな重さとして肩に乗る。


クラリッサは、少し離れた位置に座っていた。


彼女は会話の中心にいない。だが中心を支える場所にいる。傾国と呼ばれるような容姿は、今日も飾り立てられていない。露出もない。ただ、姿勢と沈黙だけで場の温度を変えている。目を向ければ引き寄せられ、逸らせば落ち着かない。


伯爵夫人が一瞬だけ目を奪われ、すぐに視線を伏せた。礼儀として、見てはいけないものを見たような反応だった。


エリオットは、その反応を見て胸の奥がざらつく。彼女が日々、こういう視線の中で呼吸してきたことを想像してしまうからだ。


公爵が切り出した。


「入婿をお願いしたい。形式は整える。次期当主として迎える」


伯爵が頷く。「こちらも、家としての判断をする。条件を確認したい」


条件の話は淡々と進んだ。持参金、称号、土地の扱い、将来の居住。互いが互いの「弱み」を見せずに、互いの利益を確保する。交渉は冷たいほど滑らかだった。


その中で、クラリッサは一度も口を挟まない。


公爵がその沈黙を守り、伯爵もそれを尊重した。娘を前面に出さない。恐怖を刺激しない。政治は、恐怖の扱いに最も慎重になる。


交渉が一段落し、短い休憩が挟まれた。


その間、エリオットは廊下へ案内された。執事が「お嬢様がお話を」と、丁寧に告げる。


小さな控室。窓から光が落ち、静かで、外の音が遠い。


クラリッサが立っていた。扇子は持っていない。手袋もない。口元を隠すものがないのに、彼女は落ち着いている。落ち着いているというより、落ち着ける場所を確保した、という空気だった。


エリオットは礼をした。


「昨夜の件で……改めて謝罪を。あの場で、助けになることは」


クラリッサが首を振る。「謝らないで。あなたは、余計なことをしなかった」


その言い方が、妙に胸に残った。余計なこと、とは何だろう。施しをすることか。英雄になることか。彼女を救うと宣言することか。たぶん、その全部だ。


クラリッサは続けた。


「あなたは、逃げなかった。それだけで……十分」


エリオットは言葉を選びながら、正直に問うた。


「怖く、ありませんか」


クラリッサの微笑が薄くなる。崩れるのではない。静かに、硬さが増す。


「怖いわ」


一言で認めた。否定しない。強がらない。だからこそ、その怖さが本物だと分かる。


クラリッサは窓の外へ視線を向けた。


「私は、前に出ると……皆が怯える。怯えること自体は仕方がない。けれど怯えは、人を乱暴にするの。嫌悪になり、排除になり、正義の仮面になる」


昨夜の聖女の言葉が、そこに重なる。


エリオットは小さく頷いた。「……はい」


クラリッサは彼を見た。


「あなたは、私を見た。見て、怖いと言った。それでも離れたいとは言わなかった」


その言葉は、確認のようでいて、契約のようでもあった。


エリオットは答える。


「僕は……あなたが怒った理由が分かった気がしたんです」


クラリッサの目が一瞬だけ揺れる。微細な揺れが、彼女が“理解される”ことに慣れていない証拠だった。


「怒りは……いけない?」


「怒りは、いけないものじゃない。怒りを、誰かが利用するのがいけない」


クラリッサは微笑んだ。社交の微笑ではない。どこか、少しだけ楽になった人の微笑だった。


「……なら、いいわ」


そして彼女は、まっすぐ言った。


「入婿になって。私は……あなたを支える。表には出ない。家を整える。あなたが前に立てるようにする」


それは溺愛の言葉ではない。恋の言葉でもない。だが、重い誓約だった。自分の生き方を預ける言葉だった。


エリオットは胸の奥が熱くなるのを感じた。自分がこれまで、誰かにここまで“役割”を求められたことがなかったからだ。控えでいい、と言われ続けた人生で、初めて前を渡された。


「……はい」


短い返事しか出なかった。だが、短い返事には逃げ道がない。クラリッサはそれを理解して、微笑んだ。


「ありがとう。グレイフォード卿」


「エリオットで」


言ってから、彼は少しだけ後悔した。馴れ馴れしいかもしれない。だがクラリッサは驚かず、ただ一拍置いた。


「……エリオット」


名を呼ぶ。呼んだだけで、室内の空気が少し柔らかくなる。


エリオットは確かめるように言った。


「僕が当主になっても……あなたを、前に引きずり出しません」


クラリッサの微笑が、ほんの少しだけ深くなる。


「それが一番、嬉しい」


その言葉は、褒め言葉よりも刺さった。彼女がどれだけ「引きずり出されてきた」のかを想像してしまうからだ。


ふと、クラリッサが目を伏せた。


「……昨夜のこと、あなたは」


「忘れられません」


即答だった。忘れるふりはできる。だが忘れたことにはできない。


クラリッサは小さく頷く。「そう。忘れなくていい。ただ……必要な時だけ、思い出して」


必要な時。それは恐怖が再び正義の仮面を被ろうとした時だろう。彼女は恐怖を武器にするつもりはない。だが恐怖を「抑止力」に変えることはできる。政治は、それを嫌う。だが家を守るには、それも必要だ。


控室の扉が控えめにノックされた。交渉再開の合図だ。


エリオットは姿勢を正し、クラリッサへ礼をした。


クラリッサは彼を見送りながら、微笑んだ。いつもの完璧な微笑とは違う。そこには、わずかな人間の熱があった。



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応接室へ戻ると、最終確認が進んだ。


伯爵は一度だけ言った。


「……公爵家は、王家と距離を置く」


公爵は淡々と答える。「置かれる。だが、それを置く側に変える」


伯爵はその言葉の強さを測り、頷いた。王家から切られても折れない家は、厄介だが価値がある。厄介な価値は、手元に置いた方がいい。伯爵はそう判断した。


交渉は成立した。


形式上の婚約は、王家の動きに合わせる。婚約破棄と同時に、入婿の内示を出す。世間の視線が「かわいそうな令嬢」へ向く瞬間に、「家を継ぐ新当主」という新しい物語をぶつける。


物語を上書きする。政治の常套手段だ。


応接室を出る際、伯爵夫人がクラリッサへ小さく会釈した。恐怖ではない。敬意でもない。慎重な距離の取り方だった。クラリッサは同じ角度で礼を返す。互いが互いの「扱い方」を探っている。


その夜、公爵はクラリッサを呼び、短く言った。


「お前は、夫を支えろ」


クラリッサは微笑んだまま頷いた。


「はい」


それだけで十分だった。父娘の間に、余計な感情はない。あるのは役割だけ。役割は、家を生かす。


そして、数日後。


王城から正式な文書が届いた。婚約は解消される。理由は「国益のための再編」。責任は曖昧にされ、誰も悪者にならない形が取られた。王家は、事件を事件にしない。政治は、それで成立する。


その文書が読み上げられた日、公爵邸の正門に新しい紋章旗が上がった。


ヴェルナー公爵家と、グレイフォード伯爵家の紋が並ぶ。


入婿の内示。次期当主の指名。


世間は驚き、噂はさらに増幅する。だが噂の方向が変わる。


恐怖の噂から、力の噂へ。


「公爵家は折れなかった」 「王家から離れた」 「新当主が入った」 「裏で動いたのは……」


最後の言葉だけは、皆が濁す。濁すしかない。触れてはいけないものが、家の奥にいる。そう理解した者たちが、勝手に距離を取り、勝手に敬意を覚える。


恐怖は、時に秩序になる。


その秩序の中心に、エリオットが立つことになる。


彼はまだ、王城へ正式に頭を下げていない。諸手続きはこれからだ。だがすでに、彼の人生は戻れない場所へ進んでいた。


夜、執務室で一人になった彼は、ふと自分の手を見た。


震えてはいない。


怖さはある。だが震えはない。怖さと一緒に立てる、と知ったからだ。


扉が控えめに叩かれた。入室を許すと、クラリッサが入ってくる。書類を一つ抱え、静かに机へ置いた。


「これ、明日の予定。あなたが迷わないように整理しておいた」


彼女は前に出ない。だが、前に出る者が迷わないように、道を整える。その動きが、すでに次期当主夫人のそれだった。


エリオットは言った。


「ありがとう」


クラリッサは微笑んだ。


「当然よ。私は……あなたの味方だから」


恋の告白ではない。だが、家の誓約としては最上だった。


エリオットは胸の奥で、静かに確信する。


この人は、自分を“当主”にしてくれる。

そして自分は、この人を“表に引きずり出さない”ことで守る。


互いが互いの弱さを知り、その弱さを役割へ変える。


それは甘さではない。

だが、甘さより強い結びつきだった。



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王城の回廊は、相変わらず磨き上げられていた。


磨き上げられているのに、空気だけが重い。石の白さが清潔さを誇示するほど、そこに漂う沈黙が目立つ。沈黙は王家が得意とする武器だが、今は武器というより傷を覆う包帯に近かった。


「昨夜の夜会は体調不良による早退があったのみ」


公式の文言は繰り返される。繰り返されるほど、誰もが「触れてはいけない何かがあった」と確信する。


人は、王家の沈黙に従う。けれど沈黙は、心までは縛れない。王城に出入りする者の視線が、どこかで必ず揺れる。扉の前で足が止まり、祈りの言葉が一拍遅れ、笑い声が喉に引っかかる。


正しさの中心に、穴が開いたままだった。


その穴を埋めるために、王家は「秩序の再編」を急いだ。秩序の再編とは、個人の運命を「国益」という言葉で片づける作業だ。婚約破棄も、その一つに過ぎない。


王太子とクラリッサの婚約は、儀礼的に解消された。


理由は、国の安定。名目は、未来のため。責任の所在は曖昧にされ、誰も悪者にならない。王家はいつもその形にする。悪者が明確になると、物語ができる。物語ができると、人々は語りたがる。語りが増えれば、恐怖の細部が戻ってきてしまう。


だから、語らせない。


しかし語らせないことは、別の語りを呼ぶ。


「ヴェルナー公爵家は切り捨てられた」 「いや、切り捨てられたのではない。距離を置かれただけだ」 「距離を置ける家は強い」 「強い家には、強い理由がある」


噂は形を変え、最後には必ず同じ場所へ流れ着く。


――公爵邸の奥には、触れてはいけないものがいる。


その噂の質が変わった時、恐怖は侮辱ではなく、抑止へ変わる。人は勝手に距離を取り、勝手に礼を守り、勝手に逆らわない。それは王家にとって都合が悪い秩序だった。秩序は本来、王家が握るべきものだからだ。


だから王家は、もう一つの手を打つ。


「新しい物語」を上書きする。


――ヴェルナー公爵家に、新たな当主が立つ。

――グレイフォード伯爵家次男、エリオットが入婿として迎えられる。


噂が恐怖に寄り過ぎる前に、政治の物語で塗り替える。人々は物語が好きだ。理解できない恐怖より、理解できる出世譚の方が語りやすい。語りやすい物語が広がれば、恐怖は影に追いやられる。


影は消えないが、表が整えば、国は動く。


その役目を担わされるのが、エリオットだった。



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王城の謁見の間で、エリオットは一人、立っていた。


立っているだけで足が重い。空間の広さが人を押し潰す。王家は、こういう空間で人を小さくし、王を大きく見せる。若い頃は兄がここに立つはずだった。いや、立てるように育てられていた。彼は控えでいいと言われ続け、ここから遠い位置で生きてきた。


その自分が今、ここにいる。


胸の奥で、昨夜の恐怖がうごめく。あの夜会の光景は、いまだにまぶたの裏に残っている。だが恐怖は彼を後退させない。恐怖の中で立つ方法を、彼は知ったからだ。


王太子は姿を見せない。


代わりに王の名代として宰相が座し、形式を進める。王家が「正常です」と見せるための演出だ。正常に見せるほど、不正常が透ける。それでも演出は必要だった。国は演出で回る。


宰相が淡々と読み上げる。


「ヴェルナー公爵家は王家との婚約関係を解消し、今後は国政への協力を継続しつつ、家の自立運営を推進する。ついては、新たな家政体制を整えるため、グレイフォード伯爵家次男エリオット・グレイフォードを入婿として迎えることを許可する」


許可、という言葉が刺さる。


許可されなければならない立場。それは王家の支配の形だ。しかし今の王家に、支配の確信はない。宰相の声も、どこか慎重に過ぎる。エリオットはそれを感じ取った。王家は今、強い言葉を避けている。強い言葉が、恐怖を呼び起こすからだ。


形式は滞りなく終わる。


エリオットが頭を下げると、宰相が短く言った。


「よく務めよ。公爵家の再編は、国の安定に資する」


国の安定。便利な言葉だ。個人の感情はその中に押し込められる。けれどエリオットは、感情を捨てるつもりはなかった。捨てた瞬間、彼はまた「控え」に戻る。控えに戻ったら、彼は二度と、あの人を守れない。


謁見が終わり、回廊へ出る。


壁際に控えていた貴族たちの視線が、彼へ向けられる。驚きと、計算と、探るような好奇心。その中に、微かな恐れが混じる。恐れの対象は彼ではない。彼が「どこの家に属したか」だ。


彼は息を吐いた。


背後から、聞き慣れた声がした。


「……エリオット」


兄だった。父もいる。二人の顔は、王城の格式に合わせて整えられている。だが整えきれない苛立ちが滲んでいた。兄はこれまで、王城の空気を味方につけてきた男だ。場に合わせて笑い、場に合わせて頷き、場に合わせて中心へ滑り込む。けれど今、場が揺れている。揺れた場では、軽さが裏目に出る。


父が先に口を開いた。


「……公爵家次期当主、おめでとう、と言うべきか」


言葉は祝いの形を取っている。だが声音は硬い。祝っていない。祝えるはずがない。次男が格上の家に入る。家格が逆転する。父としての誇りが削られる。兄としての優位が崩れる。


エリオットは礼を取った。深く、丁寧に。


礼は勝者の余裕ではない。礼儀としての礼だ。だが今の礼は、二人にとって屈辱になる。礼を受ける側が、本来の上下を信じているほど、礼は刃になる。


兄が堪えきれずに言った。


「……何故だ。何故、お前が」


何故、という問いは、実は答えを持っている。兄の中の答えは「お前は控えでいい」だ。だから現実が理解できない。理解できない現実は怒りになる。


父が兄を制し、エリオットへ視線を戻した。


「伯爵家としての立場を忘れるな」


伯爵家としての立場。つまり、まだ自分の家の支配下にいるつもりの言葉だった。


エリオットはゆっくり言った。


「忘れません」


そして一拍置き、続けた。


「ただ、これからは――ヴェルナー公爵家の名で動きます」


父の頬が微かに引きつった。兄が目を見開く。


「……公爵家の名で?」


「はい。次期当主として」


それだけで十分だった。


父と兄は理解した。今この瞬間、彼らは「格上の次期当主」に話しかけている。今まで見下してきた次男に、頭を下げなければならない立場になりつつある。しかも王城の回廊だ。人の目がある。逃げ道がない。


兄は反射的に周囲を見た。誰かが見ている。誰かが聞いている。その「誰か」の中に、今まで兄が味方につけてきた者もいる。だから兄は言葉を飲み込み、笑みを作ろうとした。作りきれない。喉が詰まる。


父は、ようやく現実を計算し直した。計算し直した結果、取るべき行動は一つしかない。


伯爵は頭を下げた。


深く、丁寧に。


「……今後とも、グレイフォード伯爵家を――いや、我が家を、よろしく頼む」


言葉の端で躓いたのが全てだった。家名で支配したい癖が出てしまい、それを慌てて修正する。その修正が、逆に「立場の逆転」を証明する。


兄は、頭を下げられない。


下げれば自分の価値が崩れる。だが下げなければ父の判断を否定することになる。兄はその板挟みで、顔を硬直させたまま、遅れて頭を下げた。角度が浅い。浅いから余計に惨めだった。


エリオットは礼を返した。


「こちらこそ。……ご配慮に感謝します」


配慮、という言葉が刺さる。父と兄は、自分たちが「配慮される側」に落ちたことを理解した。見下す側から、扱われる側へ。彼らはそれを最も嫌う。


それでも彼らは今、何もできない。王城で暴れれば王家に睨まれる。王家は今、不安定だ。不安定な王家は、見せしめに飢えている。不安定な王家に目をつけられるのは致命的だ。


だから父は、さらに一段、屈辱を飲み込んだ。


「……今夜、屋敷へ戻られるのか」


戻る、と言うのは支配の言葉だ。帰ってこい、という含みがある。


エリオットは穏やかに否定する。


「公爵邸へ戻ります。手続きがありますので」


公爵邸。そこが彼の帰る場所になった。その事実が、父と兄の胸をえぐる。兄の目が揺れた。父の口元が硬くなった。


最後に兄が、絞り出すように言った。


「……あの家は、危ない」


危ない、は忠告の形を取った呪いだ。関わるな、という最終抵抗だ。兄は自分が正しい側にいると証明したい。正しい側にいる者は、危ないものから離れる。離れた者は賢い。そういう物語にすがりたい。


エリオットは静かに返した。


「危ないから、整えるんです」


兄は黙った。父も黙った。


整える、という言葉は、兄が一度も使わなかった言葉だ。兄は場に乗り、場に合わせる。場を整えるのは、控えの役割だ。控えに押し込めてきた次男が、今や国の前で「整える」と言っている。その現実が、兄の物語を壊していく。


それが、兄と親へのざまぁだった。


叫びも罵倒もない。ただ立場が変わった。立場が変わり、言葉の重みが変わった。それだけで十分だ。


エリオットは一礼し、その場を去った。


背中に視線が刺さる。刺さる視線の中に、悔しさと羨望が混じっている。それを感じながら、彼は歩を止めない。


もう戻らない。



---


公爵邸では、淡々と儀礼が進んでいた。


婚礼の形は簡素に整えられた。派手さは避ける。王家が沈黙を好む時、周囲は沈黙に合わせる方が安全だ。祝宴を盛大にすれば噂が集まる。噂が集まれば細部が戻る。細部が戻れば恐怖が蘇る。


だから、静かに。


静かに、しかし確実に。


入婿の儀礼が済み、名の扱いが決まる。エリオットはヴェルナーの家名を継ぐ。外への名乗りは当主として。内では、彼はまだ慣れない袖丈を気にしながら、立ち振る舞いを整える。


その背中を、クラリッサが支える。


彼女は表に立たない。だが全ての書類に目を通し、動線を整え、家人の配置を最適化する。恐怖の噂が残る今、家の中に乱れがあれば、すぐに外へ漏れる。漏れた乱れは「やはりあの家は危ない」という物語を生む。物語が生まれれば、利用される。


だからクラリッサは、乱れを許さない。


微笑を保ったまま、淡々と整える。


彼女は感情を抑えているのではない。感情が溢れた時に起きることを、知っている。それだけだ。


それでも、家が落ち着いていくのが分かる。


家人はクラリッサを恐れ、同時に頼る。恐怖と信頼は、相反するようでいて両立する。恐怖は境界線を守らせ、信頼は機能を生む。今の公爵家に必要なのは、境界線と機能だった。


王家は距離を置いたままだ。使者は必要最低限。協力要請は形式的。政治の中心から公爵家が外れたことを、誰もが理解する。理解するほど、皮肉なことに公爵家は自由になる。自由は危険だが、自由は強い。


その強さを担保するのが、エリオットという「理解できる表の顔」だった。


そして、その裏にいるのが、クラリッサという「理解の外の影」だった。


影は表を守る。表は影を隠す。


二人の関係は、いつの間にかその形を取っていた。



---


季節が少しだけ進み、王都の噂も落ち着き始めた頃。


聖女は、神殿の奥で静かに座っていた。


祈りは戻らない。


戻らないという事実が、彼女の中で腐食していく。腐食は怒りになる。怒りは責任探しになる。責任探しは、世界の誰かを悪者にしようとする。


だが彼女は悪者を名指しできない。


名指しすれば、あの夜の記憶が細部ごと戻ってくる。細部が戻れば、恐怖が蘇る。恐怖が蘇れば、彼女の祈りは二度と戻らないと確信してしまう。


だから彼女は、沈黙の中で自壊する。


信徒は減り、賞賛は遠のき、神官は「静養」を繰り返す。聖女は象徴としての価値を失い始める。象徴が価値を失えば、王家も価値を失う。


王太子は、依然として表に出ない。


誰もその理由を口にしない。だが誰もが知っている。王太子が表に出られないのは体調ではない。心が、あの夜の場所から戻れないのだ。


正義は、怪異を裁けない。


その事実が、王都の水面下で広がっていた。


そして、広がった分だけ――公爵邸には余計な者が近づかなくなる。


近づかないことは安全だ。安全は、家を整える時間を与える。クラリッサにとって、それは救いだった。


人が来ない夜は、静かだ。


静かな夜は、微笑を少しだけほどけさせる。



---


その夜、エリオットは執務室で一人、書類を閉じた。


次期当主としての仕事は増える一方だ。土地の再配分、家臣の配置替え、王家との距離の取り方。彼が今まで「控え」で学んできた整え方が、今は全て当主の仕事として返ってくる。


疲労はある。だが不思議と、心は折れない。


扉が控えめに叩かれた。入室を許すと、クラリッサが入ってきた。灯りに照らされた彼女は、いつも通り整っている。だが今夜は、扇子を持っていなかった。手袋もない。髪も少しだけ緩い。社交の装いではなく、家の中の装いだった。


「これ、明日の確認」


彼女は書類を机に置く。置き方が丁寧だ。丁寧さは、彼女が自分を保つ方法だ。


エリオットは言った。


「ありがとう。……今日も助かった」


クラリッサは微笑んだ。薄い微笑だ。崩れない微笑だ。けれど、彼女がこの部屋に入ってきた瞬間から、空気が少し柔らかい。彼女はここを「安全な場所」と認識している。それが伝わってくる。


エリオットは、ふと思い切って言った。


「……今日、父が頭を下げました」


クラリッサの目がわずかに動く。驚きではない。理解だ。彼女は状況を読むのが早い。


「兄も?」


「遅れて。……浅く」


クラリッサが小さく息を吐いた。笑いでも嘲りでもない。ひとつの区切りがついた時の吐息だった。


「よかった」


その一言が、妙に重い。


よかった、とは、誰にとってのよかったなのか。エリオットは分かっていた。クラリッサは彼の家庭事情を知り過ぎてはいない。けれど、期待の偏りが人をどう壊すかを知っている。見下され続ける痛みも、見上げられ続ける息苦しさも。


彼女は言った。


「あなたは、ずっと控えだった。だから今、前に立てる」


それは慰めではない。評価だ。彼女は彼の過去を否定しない。過去を材料に変える。その変換が、彼女の強さだった。


エリオットは小さく笑った。


「当主になった実感が、まだありません」


「実感は、後から来るわ」


クラリッサはそう言い、視線を落とした。落とした視線が、机の上ではなく、彼の手元へ向かっている。書類に触れ、指先が紙を整える。その動作が、どこか落ち着かない。


エリオットは気づいた。


彼女は疲れている。


疲れを見せないように整えているだけだ。整え続けるのは、体力が要る。彼女はここ数日、外の対応と内の再編を同時にこなしてきた。表に出ない分、裏で全てを背負っている。


エリオットは椅子から立ち上がり、彼女の前に回った。


「……休みましょう」


クラリッサが小さく眉を動かす。「まだ、終わってない」


「終わってなくても、休まないと崩れます」


その言い方が、少し強かった。クラリッサの微笑が、一瞬だけ揺れた。


揺れた微笑の奥で、彼女は何かを飲み込もうとしている。飲み込む癖が、身体に染みついている。


エリオットは言葉を足した。


「僕は、あなたを前に引きずり出さない。約束しました。……だから、あなたも、無理に飲み込まないでください」


クラリッサの視線が上がる。


目が合う。


彼女は目を逸らさない。今は逸らさない。逸らさないことで、彼女自身が自分を証明しているようだった。


「……怖いの」


唐突に、彼女が言った。


声は小さい。けれど、今までで一番、人間の声だった。社交の声ではない。次期当主夫人の声でもない。自分の奥から出た声だ。


「何が」


問いは優しくするつもりだった。だが、喉が少し硬くなった。彼は答えが怖い。


クラリッサは、微笑をやめなかった。やめられない。微笑が、彼女の鎧だからだ。


それでも言った。


「……私が、ほどけたら。あなたが、怖くなるんじゃないかって」


エリオットは一瞬、息を止めた。


彼女が言っている「ほどける」は、単なる感情のことではない。あの夜の口元のことだ。あの瞬間を、彼女は自分の中でずっと固定してきた。固定して、封じて、必要な時だけ引き出す。そうやって生きてきた。


エリオットはゆっくり首を振った。


「怖いです」


クラリッサの目が揺れる。拒絶される予感が走ったのが見えた。


だからエリオットは続けた。


「でも、怖いから離れるんじゃない。……あなたが怖い時に、離れないために、僕は怖いって言います」


言葉が静かに落ちる。


クラリッサはしばらく黙っていた。微笑は残っている。残っているのに、微笑の力が少し抜けていく。硬さがほどけていく。


彼女は、扇子を持っていない。口元を隠すものがない。隠すものがないのに、彼女は逃げない。


その事実が、エリオットの胸を熱くした。


クラリッサが一歩近づいた。


近づき方が慎重だ。触れたいのに、怖い。怖いのに、触れたい。その矛盾が身体に出ている。


彼女は、彼の袖をつまんだ。


指先が震えている。震えているのに、離さない。


「……あなたは、あの時から、何も変わらないのね」


エリオットは答える。


「変わる理由がありませんでしたから」


クラリッサの唇が動いた。微笑が、微笑の形ではなく、感情として揺れた。


彼女はようやく、鎧の内側から言葉を出す。


「……あなたは、私が口を裂かなくても、そばにいてくれた人」


それは告白だった。救済を求める言葉ではない。依存の言葉でもない。選び取った言葉だ。


クラリッサは、もう一歩近づく。


そして、彼の胸に額を預けた。


預ける、という行為は、彼女にとって最大の無防備だった。傾国と囁かれる容姿は、世界の視線を呼び、世界の妬みを呼び、世界の乱暴を呼ぶ。それを知っている彼女が、今、世界で一番近い距離に自分を置いている。


エリオットは腕を回した。


強くは抱かない。逃げ道を消さない。彼女が自分で戻れる余地を残す。受容とは、支配ではないからだ。


クラリッサは小さく息を吐き、囁くように言った。


「だから――もう離しません」


言葉は静かだ。だが決定的だった。


エリオットは笑った。


「それは、次期当主夫人としての命令ですか」


クラリッサの肩が小さく揺れた。笑ったのだ。微笑ではなく、笑い。


「いいえ」


顔を上げ、彼を見上げる。灯りの中で、彼女の目が少し潤んでいる。潤みを隠すための微笑は、もう薄い。


「妻としての、お願い」


お願いと言いながら、彼女の指先は彼の袖を掴んだまま離さない。お願いの形を取った独占だった。だがその独占は、恐怖から生まれたものではない。選び取った安心から生まれたものだ。


エリオットは頷いた。


「……はい」


短い返事には逃げ道がない。クラリッサはそれを理解し、ようやく微笑の力を抜いた。


その瞬間、彼女の口元は裂けない。


裂けないまま、ただ穏やかに、柔らかく笑う。


微笑の仮面ではない笑い。


エリオットは胸の奥で、静かに確信した。


この人は、もう「壊すため」に笑わない。

壊す必要がない場所を、ここに作れた。


クラリッサが低く呟く。


「……私、きれい?」


あの夜の問いが、同じ言葉で戻ってきた。だが今夜の問いは、恐怖の刃ではない。確認の祈りだった。拒絶されないことを確かめるための言葉だ。


エリオットは目を逸らさずに言った。


「きれいです」


言い切る。逃げない。濁さない。


クラリッサの喉が小さく震え、息が詰まったように止まり、それからゆっくり吐き出される。彼女は笑った。今度は、涙の気配を含んだ笑いだった。


「……そう。よかった」


それだけで十分だった。


恐れられた怪異は、世界でただ一人、自分を恐れても逃げなかった男を選んだ。

傾国と呼ばれたその体は、誰かを滅ぼすためではなく、ただ一人の帰る場所を抱くためにあった。


そして彼女は今日も、口を裂かずに笑う理由を、腕の中に見つけている。



---


断罪の舞台は、整った。


王太子は沈黙し、聖女は祈りを失い、正義は無力を露呈した。

その代わりに、公爵家は再編され、当主は立ち、家は機能を取り戻した。


世間はやがて別の噂に飽きる。政治は別の事件で上書きされる。人は忘れる。


だが、彼女が忘れないものがある。


逃げない人の重さ。

自分を分類しない視線。

恐怖を認めた上で、なお手を離さない温度。



それがある限り、彼女はもう、微笑ったまま口を裂く必要がなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


途中まで、

「どこかおかしい気はするけれど、

 まだ決定的ではない」

そんな感覚で読んでいただけていたなら、

この物語は想定どおり進んでいます。


断罪の場で起きたことは、

誰かが突然変わったからではありません。

最初から、そこにあったものが

見える位置に出てきただけです。


なお、

彼女は最後まで嘘をついていません。

微笑みも、沈黙も、選択も。


違いが生まれたのは、

それを「理解してしまったかどうか」

ただ、それだけです。


もしこの先、

彼女がまた微笑んでいたとして――

それを安心だと思えるかどうかは、

読んだあなた次第かもしれません。



どうか、

気づかなかった頃と同じ顔で、

日常に戻ってください。


月白ふゆ

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連投、失礼します。 一箇所、文字の訂正と…悪く伝わっていないか不安で…。 末文の「❌自作」「⭕次作」…です。 当方、作者様のお話好きです。楽しんでます。 言葉選びができておらず不快な思いをさせてい…
不思議で曖昧で…良い意味で「よく分からない世界観」でした。 作者様の作品は創作物でありながら、そこに現実世界の「よくある、普通に転がっている、一般的に“常識”とされる感情やモノ」が上手く混ざり合って…
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