3.お礼
六月の終わりだった。
福祉政策論の講義が終わった直後。
教授が教壇から言った。
「朝倉さん、加奈さん。少し残ってください」
紬の心臓が跳ねた。
嫌な予感がした。
隣を見ると加奈も顔色を変えている。
学生たちが次々と教室を出ていく。
やがて教室には三人だけになった。
教授は二人のレポートを机の上に並べた。
「これ、どう説明しますか」
紬は息を飲む。
レポートだった。
文章構成。
参考文献。
考察。
ほとんど同じだった。
加奈が参考にすると言っていたレポートだ。
教授は静かに続ける。
「偶然でここまで一致することはありません」
「大学ではレポートの共有や写しは不正行為と判断される場合があります」
紬の頭が真っ白になった。
加奈も俯いている。
誰も何も言えない。
しばらくして教授が尋ねた。
「朝倉さん」
「はい……」
「あなたが書いたものを見せたのですか」
紬は答えられなかった。
言い訳をしようと思えばできる。
でも事実だった。
断れなかった。
ただそれだけだ。
しかしそれは理由にならない。
「私が……」
そう言いかけた時だった。
教室の後ろから声がした。
「あの、失礼します」
教授も紬も振り返る。
そこにいたのは高瀬だった。
図書館スタッフの腕章をつけている。
教授に頼まれた資料を届けに来たらしい。
ところが高瀬は教室の空気を察したのか、少しだけ眉をひそめた。
教授は状況を簡単に説明する。
高瀬は机の上のレポートを見る。
そして言った。
「朝倉さんが書いた方ですよね」
「そうですが」
教授が答える。
高瀬は少し考えたあと言った。
「朝倉さん、図書館でずっと資料探してましたよ」
「え?」
紬は驚く。
「毎日のように来てましたし」
「レポートについて相談も受けました」
「少なくとも本人が真面目に取り組んでいたのは知っています」
教授は腕を組んだ。
「それは不正ではないという話ですか」
「いえ」
高瀬は首を振る。
「共有したのは良くなかったと思います」
「ただ、悪意があったというより、断れなかったんじゃないですか」
紬は目を見開いた。
まただ。
この人は時々、嫌なくらい見抜く。
しばらく話し合いが続いた。
最終的に教授はため息をつく。
「今回は厳重注意にします」
「ですが次はありません」
「レポートは二人とも再提出です」
二人は深く頭を下げた。
教室を出たあと。
加奈は何度も謝った。
「本当にごめん」
「私が頼んだから……」
「ううん」
紬は首を振った。
断れなかった自分にも責任がある。
それは分かっていた。
加奈と別れたあと。
紬は図書館へ向かった。
高瀬にお礼を言わなければならない。
図書館カウンター。
高瀬は返却作業をしていた。
紬を見ると軽く手を振る。
「どうだった?」
「再提出で済みました」
「それなら良かった」
本当に安心したような顔だった。
紬は頭を下げる。
「ありがとうございました」
「助かりました」
高瀬は少し笑う。
「俺は何もしてないよ」
「そんなことないです」
「ありがとうございました」
帰ろうとした時だった。
高瀬が呼び止める。
「でも本当に」
「じゃあさ」
「え?」
「お礼したいなら一個だけお願い聞いて」
紬は身構える。
何だろう。
本を運ぶ手伝いだろうか。
高瀬はあっさり言った。
「夏祭り、一緒に行こう」
「……え?」
思考が止まる。
夏祭り。
一緒に。
誰と?
自分が?
高瀬は笑う。
「そんなに驚く?」
「いや……」
「今年、一緒に行く人いないんだよね」
「だから付き合って」
まるで昼ご飯に誘うくらいの軽さだった。
紬は混乱していた。
友達と遊ぶことはある。
でも異性と二人で祭りなんて経験がない。
しかも高瀬だ。
まだ知り合って数か月。
断る理由はいくらでもある。
なのに。
不思議と嫌ではなかった。
むしろ。
少しだけ。
ほんの少しだけ楽しみだと思ってしまった。
高瀬が首をかしげる。
「嫌だった?」
「いえ!」
思わず大きな声が出る。
二人とも少し驚く。
紬の顔が熱くなった。
高瀬は吹き出した。
「じゃあ決まり」
「えっ」
「八月最初の土曜日」
「まだ返事……」
「今したじゃん」
「してません」
「してた」
久しぶりに。
本当に久しぶりに。
紬は声を出して笑った。
その帰り道。
夕暮れの空を見上げながら歩く。
教授に呼び出された朝は最悪だった。
なのに今は。
胸の奥が少しだけ軽い。
スマホの予定表を開く。
八月最初の土曜日。
そこに小さく書き込む。
『夏祭り』
そして気づく。
その文字を見ただけで少し嬉しくなっている自分に。




