1.知り合い
この春。朝倉紬は大学2年生になった。
履修登録も、講義の受け方も、レポートの書き方もある程度慣れたと自負している。
しかし、バッグの中には提出期限が迫ったレポートの資料がぎっしり詰まっている。
福祉制度についての課題。
ボランティア活動の報告書。
来週の小テストの勉強。
やることはいくらでもあった。
立ち止まっている暇なんてない。
集中するために大学の図書館へ向かう。
図書館に入ると、静かな空気に少しだけ肩の力が抜ける。
紬は慣れた足取りで専門書の棚へ向かった。
目的の本はすぐ見つかった。
しかし、本を引き抜こうとした瞬間。
反対側からも誰かの手が伸びてきた。
「あ」
「すみません」
声が重なった。
紬は反射的に手を引っ込める。
そこにいたのは見覚えのない男子学生だった。
少し長めの黒髪に、穏やかな雰囲気。
首から図書館スタッフの名札を下げている。
「あ、どうぞ」
紬はすぐに譲ろうとした。
すると彼は少し困ったように笑った。
「いや、朝倉さんですよね?」
「え?」
なぜ名前を知っているのだろう。
思わず身構える。
「図書館の利用カード見たことあるから」
「あ……」
紬は少し恥ずかしくなった。
利用回数が多すぎて顔を覚えられているのかもしれない。
「俺、高瀬です。図書館でバイトしてます」
「そうなんですね」
会話終了。
紬はそう判断した。
だが高瀬は本の背表紙を見て言った。
「福祉政策論?」
「はい」
「大変そうですね」
「まあ……」
「俺も去年やりました」
その一言で少しだけ警戒が緩んだ。
同じ学部なのだろうか。
「結構レポート多くないですか?」
「多いです」
「ですよね」
高瀬は笑った。
自然な笑顔だった。
押しつけがましくない。
それでも紬は長く話す気になれなかった。
人との距離感が分からない。
近づきすぎるのも怖い。
期待するのも怖い。
だから適当なところで会話を切り上げる。
「じゃあ、失礼します」
「あ、はい」
本を抱えて立ち去ろうとした時だった。
高瀬が言う。
「朝倉さん」
「はい?」
「その本、結構難しいですよ」
「そうなんですか」
「もし詰まったら参考になる本教えます」
紬は一瞬だけ返事に迷った。
親切だ。
たぶん本当に。
でも。
『人に頼る』
その選択肢は、なぜか最初から頭になかった。
「大丈夫です」
そう答えてしまう。
高瀬は少しだけ黙った。
それから、
「そっか」
とだけ言った。
嫌な顔はしなかった。
引き止めもしなかった。
紬は会釈してその場を離れる。
窓際の席に座り、本を開く。
文字が並んでいる。
読まなければ。
進めなければ。
そう思うのに、なぜか集中できない。
さっきの会話が頭に残っていた。
――もし詰まったら参考になる本教えます。
ただそれだけの言葉。
なのに不思議だった。
何かを頼ろうとするとき、いつも胸の奥がざわつく。
迷惑かもしれない。
期待したら傷つくかもしれない。
だったら最初から一人でやった方がいい。
そう思ってきた。
窓の外では雨が降っていた。
紬はシャーペンを握り直した。
「頑張らなきゃ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その時だった。
机の上に一枚の付箋が置かれた。
顔を上げると、高瀬が少し離れた場所に立っていた。
『福祉政策論ならこっちもおすすめ』
本の請求記号が書かれている。
高瀬は何も言わず、軽く手を振ってカウンターへ戻っていった。
紬は付箋を見つめる。
数秒後。
そっと筆箱の中にしまった。
捨てるつもりだった。
でもなぜか、捨てられなかった。
――その日、紬はまだ知らない。
この小さな付箋が、自分の大学生活を少しずつ変えていくことになることを。




