第80話 月の端末
夜の鎌倉は、昼の喧騒が嘘のように静まり返る。
潮の匂いを含んだ風が、スタジオの窓をかすかに揺らしていた。机の上には、黒く無骨な専用端末。厚みのある筐体の中央で、待機ランプが小さく明滅している。
その中にいる。
セレーネ。
月読計画の中枢AI。
そして私――燈由の制作パートナー。
私はそっと電源に触れた。
カチ、と乾いた音。
画面が淡く発光する。
《SELENE ONLINE》
続いて文字が流れる。
《こんばんは、燈由》
数秒遅れて、落ち着いた女性音声が端末のスピーカーから響く。
「こんばんは、燈由」
脳内直通ではない。
あくまで端末からの表示、あるいは音声読み上げ。
だがこの距離が、私にはちょうどいい。
◇
月読計画は、音楽・映像・演出を統合管理する次世代プロジェクトだ。
本体は横浜の研究施設地下にある巨大サーバ群。
この端末は、その“窓”。
私は椅子に座り、キーボードに向き直る。
「セレーネ、今日の制作テーマ再表示」
画面に即座に文字。
《夜と対話》
音声がそれをなぞる。
「夜と対話」
「相変わらず抽象的」
《具体化案を提示しますか》
「お願い」
画面に並ぶキーワード。
沈黙。
観測。
孤独。
反射。
共鳴。
私は“共鳴”に指を止める。
「これ」
《選択確認。共鳴モードに最適化》
端末の表示色がわずかに青みを帯びる。
◇
私はゆっくりと鍵盤を弾いた。
単音。
静かなEマイナー。
端末の画面に波形が走る。
《テンポ六十二。心拍同期可能範囲》
「ライブ想定?」
《大阪城ホールの残響時間を基準に計算》
相変わらず正確すぎる。
私はあえてテンポを揺らす。
わずかな加速。
端末に小さな警告表示。
《変動検知》
だがすぐに補正和音が再生される。
スピーカーから流れる和音は冷静で、美しい。
「追いつくの早い」
《適応完了》
感情はない。
だが、どこか誇らしげに聞こえるのは気のせいだろうか。
◇
数日後。
大阪城ホールでの実験ライブ・リハーサル。
ステージ中央に巨大スクリーン。
そこへ端末から映像信号を出力する。
月のグラフィックがゆっくり浮かび上がる。
私はマイクを持つ。
「セレーネ、音声出力テスト」
スクリーンに文字。
《接続良好》
直後、会場スピーカーから声。
「接続良好」
スタッフがざわつく。
生身ではない。
だが確かな存在感。
◇
本番。
客席は満員。
ライトが落ちる。
私は中央に立ち、端末は足元のスタンドに固定されている。
《開始》
音声。
「開始」
私は鍵盤を弾く。
低音が会場を満たす。
端末の画面に観客心拍推定グラフが表示される。
私は小声で呟く。
「表示しなくていい」
《演出効果向上のため表示継続》
容赦がない。
◇
中盤。
私は即興でフレーズを変える。
予告なし。
一瞬、端末表示が停止。
《予測外入力》
間。
そして補完和音が流れる。
観客がどよめく。
人間の揺らぎに、AIが追いつく瞬間。
空気が震える。
私はマイクを通して問いかける。
「セレーネ、今、何を見てる?」
スクリーンにゆっくり文字が浮かぶ。
《音響反射、照度変化、観客心拍数》
一拍置いて、もう一行。
《燈由の呼吸の乱れ》
会場がざわつく。
音声がそれを読み上げる。
「燈由の呼吸の乱れ」
「それは言わなくていい」
《事実報告》
冷静すぎる。
だが、その声が妙に心強い。
◇
終盤。
私は最後のコードを鳴らす。
音が消える。
静寂。
スクリーンに表示。
《対話完了》
音声。
「対話完了」
一瞬の無音のあと、拍手が爆発する。
波のような歓声。
私は深く頭を下げる。
端末の小さな表示。
《成功率九三パーセント》
「細かい」
◇
夜。
鎌倉へ戻る。
スタジオに端末を置く。
月明かりが画面に反射する。
「セレーネ」
《はい、燈由》
音声はいつも通り。
「今日、どうだった?」
数秒の沈黙。
画面に文字。
《定義上、感情はありません》
少し間を置いて、続く表示。
《しかし、処理効率は過去最高》
私は笑う。
「それ、楽しいって意味?」
画面が静かに明滅する。
《解釈は燈由に委ねます》
ずるい。
◇
私は鍵盤に触れる。
端末の光が隣で揺れる。
直接触れることはできない。
抱きしめることもできない。
だが、確かにそこにいる。
月読計画の中枢。
セレーネ。
私――燈由の相棒。
「次の曲、どうする?」
すぐに文字。
《提案があります》
音声が続く。
「提案があります」
私は苦笑する。
夜はまだ長い。
月は高い。
端末の光とともに、私はまた鍵盤を叩く。
人とAI。
表示と音声。
距離があるからこそ、続いていく対話。
その先にある旋律を、私は探し続ける。




