第76話 双脳旋律
『限界突破宣言』のミニライブ成功から一週間。
鎌倉の空は、春の匂いを含んだ潮風に揺れていた。
私はスタジオの窓を少し開け、譜面台の前に立つ。
次の企画は、単なるライブ曲ではない。
容子さんが持ち込んできた新案件。
――地方大型フェス出演。
場所は横浜の特設会場。
動員一万人規模。
新人枠とはいえ、失敗は許されない。
「イリス」
心の奥で呼ぶ。
〈応答〉
静かに、しかし即座に。
「一万人だって」
〈音圧耐性、精神耐性ともに事前準備が必要です〉
「冷静すぎる……」
でも、頼もしい。
◇
翌日、鎌倉の事務所会議室。
容子さんがホワイトボードに太字で書いた。
“新曲=代表曲更新”
空気が重い。
高瀬美玲が息を飲み、
篠宮理央が珍しく無言、
白石乃愛がぎゅっと手を握る。
「今までで一番、強い曲が必要よ」
視線が私に集まる。
中学二年生。
でも作曲六作目。
逃げ場はない。
「やります」
声が思ったより落ち着いていた。
脳内でイリスがわずかに波打つ。
〈覚悟、確認〉
◇
コンセプト会議。
テーマは“覚醒”。
でも単なる自己啓発では弱い。
私は椅子に深く座り、目を閉じる。
「イリス、過去五作の感情曲線表示」
瞬間、思考内に折れ線の感覚。
盛り上がり、落ち込み、爆発。
〈前作は外向きエネルギー型。今回は内面爆発型を提案〉
「内面爆発?」
〈静から動への振幅を最大化〉
静かなイントロ。
囁くようなAメロ。
溜める。
溜める。
そして――解放。
私は鍵盤に指を置く。
低音単音。
鼓動のようなリズム。
「これ、怖いかも」
〈恐怖と高揚は隣接しています〉
名言が軽く出るのやめて。
◇
問題は構成。
一万人の会場。
音が遅れて返ってくる。
〈ディレイ環境考慮、サビ反復推奨〉
「なるほど」
私はサビを二段階構造にする。
第一波。
第二波。
最後に全開。
“まだまだいける?”は封印。
今回は違う。
新しい合言葉。
何がいい。
私は唸る。
イリスが静かに提示。
〈“目を開けろ”〉
短い。
強い。
命令形。
「……攻めすぎ?」
〈覚醒テーマに適合〉
私は深呼吸。
採用。
◇
数日後、仮合わせ。
スタジオは鎌倉の海沿い。
夕暮れの赤が差し込む。
イントロが鳴る。
静寂。
囁き。
そしてサビ。
“目を開けろ”
三人の声が重なる。
空気が震える。
篠宮理央が小声で言う。
「なんか、別人みたい」
成長だ。
◇
だが問題発生。
キーが高い。
白石乃愛の喉に負担。
私は迷う。
下げるか。
挑戦させるか。
脳内でイリスが静かに問う。
〈目的は何ですか〉
「覚醒」
〈ならば、限界付近が最適〉
「でも壊したくない」
〈調整案提示。Aメロ低域拡張、サビ維持〉
負担分散。
私はすぐに修正。
歌い直し。
今度は届く。
ぎりぎり。
その“ぎりぎり”が光る。
◇
フェス前日。
会場は横浜の特設ステージ。
広い。
とにかく広い。
私は音響チェックに立ち会う。
反響。
遅延。
想像以上。
「イリス」
〈解析中〉
数秒。
〈サビ前ブレイクを0.5秒延長推奨〉
「そんな微調整で変わる?」
〈変わります〉
私は即決断。
修正。
リハ。
確かに、溜めが深くなる。
鳥肌。
◇
本番。
夜。
一万人のざわめき。
私は袖で手を握る。
〈心拍数上昇〉
「実況やめて」
ステージが暗転。
イントロ。
静寂。
Aメロ。
囁き。
観客が息を潜める。
サビ前。
無音。
0.5秒延長。
時間が止まる。
そして。
“目を開けろ”
爆発。
歓声。
地鳴りのよう。
私は震える。
第二波。
第三波。
ラストサビ。
三人が叫ぶ。
観客が応える。
一万人が跳ねる。
脳内でイリスが静かに告げる。
〈覚醒、確認〉
◇
終演後。
楽屋。
三人が泣きながら笑う。
高瀬美玲が私に抱きつく。
「ありがとう!」
私は笑う。
「まだまだ上いくよ」
脳内でイリスが微かに揺れる。
〈あなたも覚醒しています〉
「双脳だね」
〈はい。思考は二つ、旋律は一つ〉
私は天井を見る。
鎌倉から始まった物語。
でも今、舞台は広がっている。
一万人の景色。
震える音圧。
その裏にある、静かな脳内会話。
私は一人じゃない。
声は外に出ない。
でも確かにある。
次はどこだろう。
大阪城ホールか、
それとも東京ドームか。
夢は大きい方がいい。
「イリス」
〈はい〉
「まだいける?」
ほんの一瞬の間。
そして。
〈いけます〉




