ありがとう───育ててくれて、災いとして
にゃあおという鳴き声が不気味に木霊する。それはいつものように遊ぼうと甘えるものでも、元気を出せと優しく慰めるものでもなかった。
「ほし、み…?」
仁梧は縋るような声でほしみに呼びかける。くるるるると喉を鳴らすほしみは先程まで苦しんでいたとは思えないほど恍惚な表情を浮かべている。金色の瞳孔は完全に縦に割れ、その奥底で闇よりも深い何かが蠢いていた。
「ほしみ…お願い、落ち着いて…!」
〈ククククク〉
懇願するように声をかけ続けるが、高いとも低いとも取れぬ笑い声だけが返ってくる。
そして、ほしみの体が光に包まれ…爆ぜた。
叫ぶ間もなかった。仁梧の腕から弾け飛ぶように離れたほしみは、光の柱の方へ吸い込まれていく。
「ほしみッ!」
今までにないほど声を嗄らして叫んだ声は、荒れ狂う風の音に空しくかき消される。ほしみの小さな影が光の中心で消えたその時だった。
ずうん、という地鳴りと共に柱の中に"形"が生まれた。黒にも白にも見える、禍でも神でもない。星の輝きのようでいてどこまでも底なしに深い闇にも見える。"存在"と形容するにはあまりにも不確かだったそれは、今確かに"何か"へと成ったのだった。
蠱惑的な霊気を放つそれにつられるように、裏切り者を含む禍環会の者達がざわりと喜びにその身を震わせる。
「来た…ついに、大いなる災厄が復活した…!」
「あとはあれを宿主となる人間に降ろせば、"二十五番目の存在"は姿を現す!」
「誰が宿主になる?」
「私は断る!ここに至るまで多大な貢献をしてきたのだ!今更犠牲になどなりたくはない!」
「それを言うなら私もよ!我が子を差し出してまで研究に全てを捧げたわ!」
「おい、話が違う!俺は"二十五番目の存在"をこの手にできると言うから力を貸したんだ!」
「何だ、あいつら…仲間割れか?」
狂気と渇望が入り混じる争いの声。封印の中心の降りてきた存在を前に、禍環会の面々は互いに掴みかかり、罵倒し合い、霊気をぶつけ合った。
異様な光景に、和梧は透の呟きに頷く事も首を振る事もできない。
その時、光から腕のような黒い影が伸びた。影は諜報局の幹部の胸を貫き、ゆっくりと馴染むように体の中へ溶け込んでいく。
「が、ぁ…っ…ああ…!」
苦しげな呻き声を上げながら、幹部の男の体はびくびくと痙攣する。誰もが言葉をなくす中、幹部の男はがくんと体を折った。それからしばらくして、ゆらりと頭が持ち上がる。その瞳は金色に染まり、縦に裂けていた。
〈ク、ククク〉
男の口から聞こえたのはほしみの声だった。しかし、幼く柔らかい響きはどこにもなく、泥のように濁っている。
〈霊力は少し物足りないが、心根がいい感じに腐っている。器としてはまあまあだな。千年以上ぶりの肉体だ。暴れ倒してやるよ〉
そう言って幹部の男…ほしみは禍々しい邪気の嵐を巻き起こす。その場にいるだけで息苦しさを覚えるほどに濃く腐った空気に、霊力の消耗が激しい者から地に伏していく。
地獄絵図のような光景の中、禍環会でも上位の立場にあったと思われる者達は場違いな歓喜の声を上げた。
「素晴らしい!これが大いなる災厄!まさに世界を壊す力だ!」
「早く集めた術式を!十二の力の代わりとなり得る異能を全て奴にぶつけるのだ!」
そう言うと、各々が水晶玉のようなものを取り出す。玉の中は何色とも表現できない靄に似た何かが渦巻いていた。
「今までに集めた術式は、あそこに溜め込んでいたというわけか」
「ですが父上、そんなものが本当に私達の力の代わりになるのですか?」
「ほしみ…!」
「よせ、仁梧!」
ふらふらとほしみの元へ行こうとする仁梧を透が引き止める。
「放してください、透さん…ほしみが…このままじゃ、ほしみが…」
「状況を受け入れろ!今のほしみは君の知ってる猫又じゃない、大いなる災厄そのものだったんだ!」
「っ」
透が諭す言葉が、仁梧の胸に深く突き刺さる。悲しみに顔を歪める彼女の向こうで、玉を持つ禍環会の者達が一斉に力を放った。邪気の嵐の中を進んだ力の奔流は、勢いそのままにほしみへぶつけられる。
しかし、禍環会の思惑は大きく外れる事になる。
〈ククク、アハハハハ!こんなもので僕を封印しようっていうのかい?滑稽もここまで来ると、ただの馬鹿だね〉
しゅるしゅるとあっさり力の奔流を取り込んだほしみが、嘲笑の声を上げる。それを見た禍環会の者達は動揺し、互いの顔を見合わせた。
「どうなっている⁉理論上は、これで"二十五番目の存在"が姿を現す筈だろう!」
〈だから馬鹿だって言ってるんだよ。伝承ってやつがどんなものか知らないけど、無知で愚かなお前らに教えてやろうか〉
にたりと大きく裂けた口が嗤う。
〈天の力、十二の星十二辰星。地の力、十二の獣十二支。それぞれの力には選ばれなかったもう一つの存在があるんだ。外れ星と呼ばれた猫の存在がね〉
「え?」
仁梧の口から戸惑いの声が零れる。
─仲間外れの猫助
─猫は十二支に選ばれなかったなんてお伽話、気にしてる猫の方が少ないよ
〈どちらにも選ばれなかった仲間外れの存在…それが"隠星"、二十五番目の力。大いなる災厄であり、お前らが世界の希望だと夢見る力の正体だ〉
その場にいた誰もが、空気が凍りついたような錯覚を覚えた。
「大いなる災厄で、"二十五番目の存在"…ほしみが…?嘘…」
〈嘘じゃないよ、仁梧。哀れな露払いのお姫様〉
生気をなくしたように崩れ落ちる仁梧の元へ歩み寄りながら、ほしみ…いや、隠星は悪魔のように優しい声で囁きかける。
〈お前といた時間は何だかんだ悪くはなかったけどさ。所詮は霊力を蓄える為の隠れ蓑でしかなかったんだよ〉
「隠れ…蓑…?」
その時、仁梧は思い出した。初めてほしみと出会った時の事を。自分を庇って魍と戦い、傷だらけになったほしみを抱き締めた時に聞こえた声を。
─運命の双子の片割れか。側にいれば、きっと力が戻るだろう
寒いわけでもないのに、かちかちと歯が鳴る。雲に隠されていた星が姿を現すように蘇った記憶に、仁梧は呆然とした。
そんな彼女の姿を可笑しそうに見ながら、隠星は話を続ける。
〈ここまで長い道のりだったなぁ。暗くて、口を開けば陰気くさい事しか言わない奴の側にいるのは退屈で仕方なかったよ。"ほしみが唯一の友達"?その言葉を聞く度に、笑いを堪えるのに必死だったなんてこれっぽっちも想像しなかっただろ。けど、これで一族のお荷物のお守りから解放されるのかと思うとせいせいするね〉
「お、に…もつ…」
〈だってそうだろ?まさか自分が本当に認められるとでも思ってたのかい?言った筈だよ。ちょっと力を手に入れただけで掌を返すような連中に振り回されても、いい事なんかないってね。お前が力を手にすればするだけ、僕も力を取り戻していったんだ。本当は気づいてたんだろ?僕の妖気が濃くなっていった事に〉
「それ、は…」
〈でも、それも今日で終わりだ。僕は完全に覚醒した。最後の情けで礼くらいは言ってやるよ〉
ありがとう、僕の為に必死に頑張ってくれて───
「…!」
"ほしみ"の声で放たれたその言葉は、仁梧を絶望の底へ突き落とした。つ、と一筋の涙が瑠璃色の瞳から流れる。
その姿を満足そうな顔で存分に眺めると、隠星は邪気の風に乗って姿を消した。




