三輪山の巫女 1
三輪山の神降ろしは夜深くから始められた。
巫女がいうには三輪山の神は夜にひとの形になるのだと。
では昼間はと問うと、それを訊くと命が取られます。と。
気味の悪いことを言う。
磐王は、しかし、この巫女を一目で信じ、巫女のために宮の一番奥、神宝が祀られている場所に結界を張り、祈りの場所をつくった。
掃き清められた板の間に縄が張られ四方に紙垂が垂らされた。
結界の内には巫女がひとり。
しろい小さな顔、童女のように禿に切りそろえた髪は艶やかに揺れる。
薄い唇には血の気がなく、頬の色とさほど変わらない。
瞳は黒目勝ちで大きく、ほかの色彩の無さがさらにそれを際立たせていた。
美しい童女だが、どこか恐ろしい。
この世の者ではないような。
三輪山の巫女というのもうなづける。
祭壇は一本のろうそくだけが唯一の光、それが巫女の小さな影を床に刻んでいる。
磐王も、宰相も、結界の内には入れない。
ただ、いまは外の世界で待つのみ。
巫女は動かない。息をしていないかのようだ。
巫女は目を閉じてすぐ跳んでいた。
実の躰は宮廷のなか、祭壇の前に座っている。跳んでいるのは実体のない魂だ。
巫女はまず大きく息を吸った。
ずいぶん上に跳んだ。高い。
さぁ、今宵は忙しい。まずは石上だ。
巫女は上空で身をひるがえした。
巫女の手には大きな太刀が握られている。こちらも実体ではないのだろう。
小柄な童女の手には余る大きさだが、軽々と振る。
神宝『布都御魂剣』だ。
「布都主よ、長きの間寂しかったであろうよ。そろそろ今生での相棒に合わせてあげる」
石上には巴矢彦がいる。
いまは宰相の息子とはいえ齢《よわい」》十七の少年。まだ、一兵卒にすぎない。
兵舎の片隅で他の兵士たちとともに眠っている。
巫女は兵舎の窓にふわりと降り、手に持っている剣で巴矢彦を指した。
剣はふるると震え、切っ先から光とも煙ともいえぬ何かが立ち上った。
光は眠る巴矢彦の上まで迷わず動いた。
そのまま巴矢彦の口からなかに入り、呑み込んだ巴矢彦の躰が一瞬大きく輝く。
しかし、光は瞬いたのち、すぐに兵士たちの寝息のなかに散った。
いま起こったことに誰も気がつかず、昼間の訓練の疲れからか、深い眠りに沈んでいる。
巴矢彦もまた、剣の気が自分のなかに入ったことに気づきもしないで寝入っている。
「ユフラ、玄銀の竜よ」巫女は愛おしそうに巴矢彦の寝顔を眺めた。
「おまえは憶えておらぬだろうな、古き帝国で鉄を生み出す大河であったことなど」
三輪山の巫女は遥か時と距離を超えて転生した竜を追いかけて来た、滅んだ帝国の巫女であった。
かつて親友でもあり、分身でもあった竜を遠い時空のなかに探し当て、自らを最もちかい聖域に降ろした。
竜をまたその腕に抱くために、巫女はヤマト政権を自在に動かすところにいかなければならぬと思った。そして今まさにその時がやってきた。
今宵、巫女は踊る心を抑えきれてはいなかった。
巫女の魂は石上の兵舎を出て、しばし上空で名残を惜しむように見下ろした。
「玄銀の竜、巴矢彦、剣の魂を呑んだお前は無敵の将軍となる。わたしと現身で出逢う日も遠くなかろう。愉しみだ」
「今宵は忙しい。さぁ、珠水彦の、青眼の竜の寝屋に急ごう」
巫女は今度は宰相の邸の上に跳んだ。寝屋の壁を通り抜け、眠り入る少年の枕元に立つ。
「珠水彦。皆が見定めえぬお前の性分を舵とる宝はこれぞ」
巫女は三枚の薄絹の布を風に泳がせた。
一枚を指にかけ、ひらりと。
「蜂比礼、空飛ぶものの声をきく」
一枚をまた指にかけひらりと。
「蛇比礼《蛇のひれ》、地に這うものを自在に遣う」
また一枚、これは静かに両手に掲げる。
「品々物之比礼、これこそお前のもつべき宝。目に見えぬ霊を呼ぶ物」




