底辺の人
小さい頃、父と母は離婚したらしい
なので、母は一人で僕を育てていた
はっきり言って、生活はひどいものだった
母も定職がなく、時々ふらっと何処かに行ってしまうこともあった
食事が学校の給食だけ、などということはザラだった
(給食費はだいぶ溜め込んでいたらしいが、
とりあえず出してはもらえていたようだ)
他の子が塾や習い事に行っている中、
僕は一人でいることが多かった
勉強なんて全然わからなかった
中学生になっても、状況はさして変わらなかった
その頃には自分の食事は自分で準備するようになっていた
殆どがインスタント食品ばかりで、
栄養の知識なんてないので、きっと体にはひどく悪かったのだろう
中学を卒業したが、
お金がないということで高校には入ることができなかった
誰からも働き方を教えてもらえていなかったが
働かないと生きていけないことだけはわかった
工場、事務所、ファストフード、清掃、中にはホストクラブや
いかがわしい動画の販売なんてのもあった
だけど、どれも長続きしなかった
みんな要求はするけれども
何かを教えてはくれなかった
そんな生活が10年以上続いて
僕は
疲れた
どんなふうに働いても、
どんなことをしても
僕は僕で
僕以外にはなれなくて
それはこの世の一番底辺だった
今、底辺にいることが恐ろしいというより
今後も、ずっとここにいなければいけないことの方が
ものすごく怖かった
何を恨めばいいのだろう?
僕を置いて出ていった父か?
僕の世話を出来なかった母か?
僕に何も教えなかった先生か?
いつだったか、僕を捕まえた警察官か?
幸せそうに笑っている、僕じゃない人か?
僕は、包丁を握る
これで自分を刺せば
全て終わりになるのだろうか
でも
それじゃあ、
僕の 僕の 生きていたことはどうなる
だれも、僕を知らない
誰も僕を覚えない
誰も僕のことを考えることもしない
こんなにも頑張ったのに、
こんなにも懸命だったのに
何者でもない僕の心は
誰にも聞かれることはない
絶望という言葉がこれほどピッタリな現実があるだろうか
巨大な『社会』というナニカに、踏み潰されていく
そんなことを思うと、いてもたってもいられなかった
僕は、包丁を持ち出した
コンビニに入る
棚には澄ました商品
買い物を自由にできる人たち
震える手を押さえて
僕はそこをあとにした
ファストフード店に入る
注文があるふりをして
席に着く
談笑するグループ
高そうな携帯端末を操作する人
何かの勉強をしている人
見ながら、僕はココロの中で祈る
『ダレカ…』
僕はそこをあとにした
街を歩く
高そうな服を身にまとう人
急ぎ足で歩くサラリーマン
手を繋いで歩く夫婦
子供の手を引く主婦
『ダレカ…』
僕はバックの中の包丁を確かめる
それをそっと引き抜こうとしたとき
誰かが僕の手を掴んだ
瞬間、冷水を浴びせられたように驚いた
見ると、僕の手を掴んだ男は
まるで喪服のような黒のスーツに
かろうじて黒ではない濃紺のネクタイをしていた
まだ、青年、というくらいの年齢の
ひどく間の抜けた顔をした人物だった
ただ、その男は、僕の手を掴んだまま
ゆっくり首を振った
「ダレカ…」
僕は、つぶやいていた
「ずっと、ずっと思っていた
誰かが来てくれたらやめようって
誰かが気づいてくれたらやめようって」
抵抗を予測していたのだろうか
男は拍子抜けしたように手の力を緩めた
僕は、バックの中で、包丁からそっと手を離した
その後、男と僕は近くの公園に行き、
一緒にベンチに座った
男は僕に話すように言う
『何か力になれるかもしれないから』と
僕は、自分の生い立ちを話した
自分が感じていることを話した
そして、
自分の絶望を話した
何かをすれば
誰かが僕の話を聞いてくれるのではないか
何かをすれば
少なくとも、誰かが僕を見てくれるのではないか
僕が 存在したことを知ってくれるのではないかと
男は僕の話を聞いた
僕は、なんだか久しぶりに人と話をしたように思った
こんな事があって、男は僕としばらく行動をともにした
男は金をたくさん持っているわけでもないし、
何か特別な縁故があったりするわけでもない
素晴らしい知識や技術を教えてくれたりもしない
ただ、一緒にいて
どうにかして生活をうまくいかせるようにしましょうよ、とか、
人に聞いてみましょうよとか、
なんだか、そんな平凡なアドバイスをするだけだった
結構、時間はかかったけど、
僕は市の制度を使って、職業訓練を受けることができることになった
☆☆☆
今、僕は正社員として、小さい会社の事務の仕事を得ていた
そして、今、僕の目の前に、
これから僕の妻になる人がいる
仕事帰り、いつもの喫茶店、
何度目かの昔の話をした時に、
彼女は僕に無邪気に尋ねた
「そんなに大変だったのに、よくがんばれたねーって、いつも思う
私だったら、きっとへこたれちゃう」
僕は返答に困った
なぜなら、僕は僕がどうやって頑張ったのか
よく覚えていないからだ
でも、一番ひどい状態のときのことは、今でも覚えている
「きっと、頑張る力が違うんだよね、君」
彼女は笑う
僕もつられて笑った
どういうわけか、隣の席でコーヒーを飲んでいる
喪服のような黒いスーツに
かろうじて黒ではない、濃紺のネクタイの男が
くすりと笑った気がした




