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自殺紳士  作者: かがりいずみ


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15/15

空白の部屋

35歳で、妻と別れることになった。

原因は、彼女の不倫だった。


妻の不倫相手は、彼女の仕事先の上司だった。

彼女の仕事は医療事務

つまりは、医者だった。


確かに、あいつの変化に気づかなかった。

  医院の受付時間が伸びたから、という言葉を鵜呑みにした。

確かに、収入は圧倒的に負けている。

  俺はしがない中小企業の営業職で、伸びしろだってたかが知れている。


上司である医師から、海外の学会発表に同行するように言われた、

と彼女が言った時、おかしいと思うべきだった。


ある日、スマホにその医師からメールが来たのを偶然見つけた。

その着信ポップアップがたまたま目に入らなければ、

  俺は多分、未だに二人の関係に気づくことはなかっただろう。


彼女が娘を連れて家を出たのは、

 俺が二人の関係を問い詰めてから、たったの1週間後のことだった。


あとに残ったのは、がらんとしたマンションの部屋。

クローゼットには俺のスーツが数着、下着と、普段着が少し。

邪魔だからと置いていった冷蔵庫には、ビールが3本、入ってるだけだった。


苦い酒を呷る。

握る手に力が入って、缶は俺の手の形に歪んだ。


机の上には真新しいロープ


それを見つめて、俺は、

最後と決めたビールを一気に呷る。

苦い味が胃の腑を満たした。


ぴんぽーん…


玄関のチャイムが鳴る。

一瞬顔をぱっと上げたが、ありえないことだと首を振る。


ぴんぽーん…


もう一度。

不思議なものだ。

死のうというのだから、こんなの無視すればいいのに、

なんとなく、対応しなきゃと思ってしまう。


これもまた馬鹿らしくて、苦笑が漏れる。


ドアスコープを覗くと、そこには見知らぬ青年がいた。


黒いスーツに黒いネクタイ

まるで葬儀屋だと思ってもう一度見たら、ネクタイは、かろうじて黒ってわけではなかった。


一体なんだ?セールスか?


ぴんぽーん…

ドアに寄った時、物音がしたのがいけなかったかもしれない。

向こうに、こっちがいるのがバレたみたいだ。


ぴんぽーん…


しつっこいな!

ガチャ、とドアを開ける。


「セールスならお断りだ!」


言い放って扉を閉めようとすると、男は身体を半身押し込んできた。


「ちょ…あんた!何を!」

「あ⋯す、すいません。怪しいものじゃないんです!」


十分怪しい男は、見た目に反した弁明をしてきた。


俺とこの男は扉を挟んで5分以上に渡って、


出てけ!

 いや、そういうわけには…

警察呼ぶぞ!

 ちょ…少しだけお話を…

宗教もお断りだ!

 そうではなくてですね…


などと押し問答することになった。


俺は、なんとかこの奇妙な青年を押し返そうとしたが、

彼が最後に放ったセリフが事態を一変させた。


「だ…だってあなた、死ぬつもりでしょ!?」


扉を閉めようと押す力が、一気に抜けた。


なんで?…どうして?


「誰に…聞いたんだ?」


最初に思ったのは、

俺の噂を聞いて、死ぬんじゃないかと思ってやってきた警察官か何かか?

ということだった。


しかし、彼は自分は警察官でもなければ、

 ましてや宗教の勧誘でもない、と。

そして、まっすぐに俺の顔を見て


「あなたが、死ぬのを…止めに来たんです」


そう、言った。


なぜ、この青年は俺が死のうとしているのを知っていたのか

 なぜ、止めようとしているのか


何一つわからないまま、

 結局、俺は、この奇妙な男を部屋に招き入れてしまっていた。


☆☆☆

「妻が…出ていったんだ」


いつしか、俺は、自分のことを話し始めていた。

それは、この奇妙な青年が、あまりにも静かにそこにいた、からかもしれない。


妻が高給取りの医師と不倫をしていたこと

自分はそれに無邪気にも全く気づいていなかったこと

そして、それを責めたら、

あっさりと、娘を連れて出ていったこと


がらんとした部屋、

それは俺そのものだ、そう思った。


一生懸命やってきたつもりだったけど、

今、俺の手には、何一つ、残っちゃいない。


空っぽだったんだ。最初から。


はは…

 ははは…


笑えてきた。


あまりにも馬鹿らしくて、

 笑えて…涙がにじんだ。


こんな馬鹿な話あるか…あるかよ…


「俺が…俺が悪いってよぉ…」


言葉が、堰を切って溢れ出す。


皆が、友人が、同僚が、上司が、親が、社会が、

出ていかれたお前に非があるんじゃないかと

不倫せざるを得ないほどの何かをしたんだろうと、

愛情が足りなかったんじゃないかと、

男としての甲斐性がなかったんじゃないかと、

頼りがいがなかったんじゃないかと、

稼ぎが足りなかったんじゃないかと、

奥さんも苦しかったんだよと、

あなたも前を向かなきゃいけないと、

男なんだから、しっかりしなさいと、


空っぽの部屋にいる、空っぽの俺に、

これでもかと詰め込まれ続ける汚泥のような言葉に

俺は、もう、耐えられなかったんだ。


とうとう、ぼろりと、涙が出た。


こぼれた涙が、手の甲に落ちて、

 俺は初めて、自分が、

泣くことすら許されていなかったと気づいた


そして、

それに気づいたら、

ボロボロと、ボロボロと、

泣くのが止まらなかった。


泣きながら、弱い自分に、また、涙が出た。


「情けねえ、俺にはほんとに、何もねえ…」


弱くて、情けなくて…だからか?

だから、出ていった?

だから、不倫した?

だから…?


「情け…なくなんてないです

 辛いことあったのに、泣いたらダメなんですか?」


青年は、言った。


「上手くいかなくて

 信じていた人に裏切られて

 …辛くて、泣いて、何がいけないんですか…?」


不思議な青年は、不思議なことを言った。


「辛いときに、辛いって言えないのなんて、

 絶対、絶対におかしいです

 裏切られた方が悪いなんて、

 そんなの、絶対に、おかしいです」


被害者ぶらないで、相手を許して

前を向いて、強く生きて

悲しんじゃいけない、泣いちゃいけない


そんな、言葉が

当たり前だと思っていた言葉が


どれだけ辛く響いていたのか。


青年の言葉は、不思議ではなかった。


奇妙なのは、おかしいのは、

痛いことを、痛いと言えない

言ってはいけないという

この世界なのだということに

俺は、ようやく、思い至った。


大切なものを失って、

裏切られて、奪われて、

悲しくて、悲しくて、悲しくて、悲しくて、


俺は、泣き続けた

空っぽの部屋が、俺の涙でいっぱいになるまで


そして、呆れるほど長いこと、

その青年は、俺のそばに居続けてくれたのだった。

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