第32話 データ信者
荒い呼吸音と足音だけが、暗い通路に絶え間なく響いていた。
悠人は足をもつれさせながらも、ダンジョンの奥へ向かってひたすらに走り続ける。
背後からは、少なくとも自分のものではない複数の金属音や硬い靴音が聞こえていた。
刺客たちはあの土煙を突破し、現在、必死になって自分を追いかけているに違いない。
彼らを茜たちから引き離すことには成功した。
その事実に安堵する一方で、心臓を握りつぶされるような恐怖がこみ上げてくる。
退こうが進もうが、もはや死しか待っていない状況に変わりはないのだ。
振り返る余裕など微塵もなかった。
一度でも足を止めれば、すぐに追いつかれて捕まるだろう。
捕まれば、そこで終わりだ。
しかし、このまま進み続けても、やがてC級ダンジョンの凶悪なモンスターに遭遇する。
そうなっても、やはり終わりだった。
死ぬ。
死ぬんだ。
スキルが無力化され、頼みの道具も持たない今、モンスターと渡り合う術などどこにもない。
F級ダンジョンのスライム相手ならまだ抗えたかもしれないが、C級相手では不可能と言わざるを得なかった。
どう足掻いても、結局は死に行き着く。
まさしく絶体絶命だ。
よく耳にする言葉だが、実際にその状況に陥ってみると、乾いた笑いしか湧いてこない。
曲がり角を抜けた先、ボスのフロアに近い壁際で、ようやく悠人は足を止めた。
背中を冷たい石壁に預け、そのままずるずると力なく崩れ落ちる。
「……はっ……
はぁ……。
く……
ははっ──
かははっ──」
必死に酸素を求めて肺を動かす。
しかし、胸の奥を通り過ぎるのは湿った空気と、鉛のように重い感情だけだ。
歪な笑い声が静寂を侵食する中、額を伝う汗が地面に滴り、指先は止めようもなく震えていた。
「まぁ、よくやったよ……」
形にならない掠れた声が、独り言として漏れ出す。
「俺如きが……
こんなゴミのような人間が、茜たちを救えたんだ……」
拳を握りしめ、剥き出しの壁へと力任せに叩きつけた。
(それでもう十分のはずだろう──?)
鈍い衝撃とともに、骨が軋む感触が伝わる。
だが、その痛みさえ、胸の内に広がる焦燥感に比べればあまりに矮小なものだった。
「──何やってんだよッ!」
張り上げた叫びが、無機質な迷宮に木霊する。
(俺は……
何をしているんだっ……!)
自問自答が、頭の中で幾度も反響した。
何度も、
何度も、
何度も、
何度も。
(助けるために逃げた?
違う……
違うッ。
そんな綺麗な理由なんかじゃない!)
自分自身をこれ以上誤魔化すことはできなかった。
嘘をつくのはもう御免だ。
本当は、ただ怖かった。
あの場に留まり続けることが。
自分の無力さを、これ以上突きつけられることが。
それは決して、次の一手を見据えた「助走」などではない。ただの無様な逃亡だった。
悠人は虚ろな瞳で虚空を見つめる。
スキルが覚醒して以来、自分の持つ力は特別なものだと信じて疑わなかった。
”データ”さえあれば、十分な経験さえ集まれば、どんな敵に対しても最適解を出せる。
自分こそが正しい道を進んでいるのだと、そう確信していたのだ。
だが、その自負は、たった二人の刺客によって容易く粉砕された。
生成物を無効化し、スキルそのものを否定する異常な力。
あれらは、自分の存在意義を根底から否定する能力であった。
物語の主人公であるはずの、自分という存在を。
しかし、それは決して不条理な天罰などではない。
あれは、生成物によってもたらされた”人工の呪い”だ。
自分と同じようなスキルを持つ者が送り込んだ刺客に、悠人は完膚なきまでに敗北した。
そう、ただの敗北。
天罰でも、偶然でもなんでもない。
圧倒的な実力不足。
「……っ」
奥歯を噛み締め、震える膝を叱咤して立ち上がる。
(生きたい……
まだ死にたくないぃっ……!)
格好をつけるのはもうやめた。
自分は主人公になどなれない。
そんな器ではないのだ。
今はただ、生に縋りたかった。
モブでも、端役でも構わない。
むしろ、いっそモブに戻してほしかった。
早くこの悪夢から、元の世界へ帰してくれと、心が悲鳴を上げる。
(なんで俺に、こんなスキルを与えたんだッ──!)
悠人は、半ば無意識にスキルを起動させた。
「生成……
高圧縮、起爆式グレネード……」
《エラー:生成でき──》
「ウルセェなぁッ!
分かってんだよッ!」
結果など、試す前から理解している。
生成が完了する直前、その概念自体が空間から消失する。
後に残るのは、無駄に消費された精神コストによるひどい虚脱感だけだ。
「……ぷ、ははっ。
あははははっ──」
笑いにもならない声が口をつく。
必死にその声を振り払いながら、ダンジョンの奥へ、がむしゃらに足を進めた。
これまでの戦いが、唐突に脳裏へ浮かんできた。
これが走馬灯というものだろうか。
零華の剣技をラーニングし、短期間で身体に叩き込んだ時の全能感。
複雑な化学式を統合し、超硬度の武器を生成できた瞬間の高揚感。
ゴーレムの弱点を解析し、完璧な連携で勝利を収めた時の達成感。
あの時は、確かに自分は強くなったのだと思い込んでいた。
だが、それはすべて条件付きの強さに過ぎない。
スキルがあるから、データが揃っているから、生成できるから。
それらの前提条件を否定された瞬間、自分には何も残らなかった。
リアル生成AIは確かに強力だが、本質的には後追いの能力に過ぎない。
知識が欠ければ精度は落ち、コストが尽きれば指一本動かせなくなる。
まさに、豚に真珠だ。
馬の耳に念仏とも言う。
豚であり、馬である。
それこそが、天野悠人という人間の正体だった。
「俺は………」
言葉が喉の奥でつっかえる。
零華の剣技。
あれは、彼女が何年も、命を懸けて研鑽を積み重ねてきた結晶だ。
悠人はそれをデータとして抽出、再現したに過ぎない。
だから、そこには魂が宿っていなかった。
覚悟も、執念も、剣に込められた生き様さえも。
ゴーレム戦の勝利も同様だ。
解析による最適解は、確かに一つの正解ではあった。
けれど、それは真っ向から相手を凌駕した力ではなかった。
悠人はその場に崩れ落ちる。
情けなくも、額を冷たい地面へと押し当てた。
「……俺はぁっ……」
掠れた声で、独り言をつぶやく。
「ただの……
データの奴隷だったんだ……」
誰に届くこともない告白は、暗闇に吸い込まれて消えていった。
(茜は……)
まぶたの裏に、あの時の茜の姿が蘇る。
恐怖に震えながらも、零華を救おうと必死に前を向いていた横顔。
命を救いたいという一純な感情が引き起こした奇跡。
彼女の力は、計算されたデータなどではなかった。
同時に、それは自分が見落としていた”理屈”そのものでもある。
(あれは……
本物だった)
「集めれば集めるほど……
俺は……」
震える声で、独り言を続ける。
「自分の中にある、大事なものを……
削っていたのかもしれないな……」
膝を抱え、その場に座り込んだ。
周囲には何もない。
生成した武器も、自分を守る防壁も。
ただ、底知れない暗闇だけが広がっている。
◇
ダンジョンの奥深く。
人の気配も魔物の唸り声も届かない、冷淡な通路の片隅。
石壁から伝わる冷気が、衣服を透過して肌を刺す。
だが、物理的な寒さ以上に彼を蝕んでいるのは、全身を覆う虚脱感と、底の見えない精神的疲労だった。
コストは枯渇し、わずかに体を動かすだけで意識が遠のきそうになる。
(……終わったな)
不意に浮かんだその思考を、悠人は否定できなかった。
刺客の能力によって生成は完全に封じられている。
自分の最大の武器であり、心の拠り所であったあの能力は、先の戦闘において何の役にも立たなかった。
静かな絶望の底で、悠人の脳裏にある映像が再生され始める。
「……零華式・応用剣術」
誰に聞かせるでもなく、悠人は小さく呟いた。
それは、零華の戦いを間近で観測し、動きを記録し、徹底的に解析した末に完成させた自信作のはずだった。
体軸のズレ、踏み込みの速度、剣の軌道、魔力の流れ──。
すべてを数値化し、自分の身体能力に最適化した剣技。短期間で彼女の数年分の修練を追体験したと、本気で自惚れていた。
だが──。
(違う……)
悠人は、ゆっくりと首を振る。
(あれは……
紛い物だ)
血に染まった床。
力なく倒れる神崎零華。
彼女が最後に自分へ向けてきた視線。
「……解析は、完璧じゃない」
その声は、責めるような響きを含んでいなかった。
怒りも失望もなく、ただ、哀れむような静かな眼差しで発せられた言葉。
(あの目は……)
悠人は、拳を強く握り締める。
零華の剣には、データ化できない領域があった。
それは数え切れない死線をくぐり抜けてきた経験であり、敗北を飲み込みながらも立ち上がってきた執念だ。
茜と同じ、「意志」という名の力。
それらすべてが、一本の剣に宿っていた。
悠人が再現できたのは、単に剣を振るという物理的な動作だけだったのだ。
形だけをなぞった、空っぽの剣。
悠人は、零華との最後の訓練の日を思い出す。
彼女の、あの諦めたような瞳。
彼女は、自分を正すチャンスをくれていた。ずっと前から、教えてくれていたのだ。
素直に神崎零華と共に、”意志”の大切さを学ぶべきだった。
同じ土俵に立ち、泥臭い鍛錬を積むべきだったのだ。
「俺は……」
声が震える。
「”偽物”だ……」
剣を握る意味を、真剣に考えたことがあっただろうか。
なぜ戦うのか。
なぜ、自分はあの場に立っていたのか。
答えは、あまりにも短絡的だった。
強くなりたかったからだ。
役に立ちたかった。誰かに
「すごい」
と言われたかった。
その欲求自体は、決して悪ではないのかもしれない。
ただ、それを成し遂げるための覚悟が、あまりに甘すぎた。
都合の悪い事実を適当な理屈で覆い隠し、見て見ぬふりをしてきた。
借り物の力で強くなった気になり、最強に近づいたつもりでいたのだ。
誰かの人生を、誰かの覚悟を、都合よく切り取って貼り付けただけの存在。
悠人は、静かに俯いた。
データは嘘をつかない。
だが、それがすべてを語るわけでもないのだ。
冷たい通路の中、知識も力も誇りも、今は何一つ支えにならない。
ただ、自分が偽物であったという残酷な現実だけが、重く胸にのしかかっている。
ダンジョンの闇は深く、どこまでも静かだった。
遠くで、刺客たちの足音が確実に近づいてくる。
その静寂の底で、悠人は完全に立ち止まっていた。




