3. 義母の言葉、施設からの連絡
「華さん、最近はどう? 身体の調子は?」
画面越しの義母は、まるで旧式ドラマの登場人物みたいに、はっきりとした口調で話す。
勝の実家は地方都市にあって、義母は六十代半ば。出産も子育ても、完全に「旧制度」で経験した世代だ。
「調子は悪くないです。紗良もよく寝てくれてますし」
「そう。……でもね」
義母は一瞬、言葉を選ぶように目を伏せ、それからこちらを覗き込んだ。
「やっぱり、身体を壊してまで産んでこそ、母親っていう実感があるものなのよ。私なんて、勝を産むとき、一晩中陣痛でねえ。
でもあの痛みがあったからこそ、『ああ、この子のためなら何でもできる』って思えたの」
勝がソファの反対側で、小さく眉を寄せるのが見えた。
私は慌てて、その表情を見ないようにした。
「今のやり方が悪いって言いたいわけじゃないのよ。ただ……ね、華さんも、どこかで物足りなさを感じてるんじゃないかしら。自分の身体を通っていないっていうのが」
言わないでほしい言葉を、正面から突きつけられた気がした。
感じていない、と言えば嘘になる。
感じている、と認めるのも苦しい。
「……どうなんでしょう。私は、痛みがないのはいいことだと思いますけど」
やっとのことで絞り出した言葉は、自分でも驚くほど薄っぺらかった。
「もちろんよ。危険も減ったし、人類にとっては大きな進歩だもの。でもね……」
義母は画面の向こうで微笑んだ。その笑顔には、悪意というより、揺るぎない自分の経験から来る確信が見え隠れしていた。
「母親っていうのはね、『自分の身体を削った』という感覚が、どこかで支えになっているものなのよ。大変なときでも、『あの痛みに比べれば』って踏ん張れる。
華さんたちの世代は、そのかわりに何を支えにするのかしらね」
通話が終わったあと、リビングにはしばらく沈黙が落ちた。
紗良はベビーベッドの中で、規則正しく呼吸を繰り返している。
「……ごめんな。俺の母さん、悪気ないんだよ」
勝がぽつりと言った。
「うん、わかってる。自分の経験から話してるだけっていうのも」
「でも、きついよな」
私はしばらく応えられなかった。
義母の言葉は、私の中にすでにある傷口を、そっと撫でていっただけだ。
でも、誰かに触れられると、その傷が思っていたより深いことを自覚させられる。
「……私が、ちゃんと愛せてないんじゃないかって、思うんだよね」
自分でも驚くほど素直な言葉が、喉の奥から出てきた。
「痛みを経験してないから? 自分の身体を削ってないから? だから、どこかで紗良のことを『受け取った子』みたいに感じてるんじゃないかって。
そう思ってしまう自分が、一番嫌い」
勝はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと椅子から立ち上がって、私の隣に座り直した。
「華。紗良を最初に抱いたとき、どう思った?」
「……怖かった。こんなに小さいのに、自分の手のひらに全部乗っちゃうんだって。落としたらどうしようって」
「次に?」
「かわいい、って思った。顔、しわしわで、眉毛も薄くて、あんまり美人じゃなかったけど……それでも、かわいいって思った」
「それで、今は?」
「今は……なんか、毎日、ちょっとずつ顔が変わっていくのが不思議で。
私が仕事行ってる間に、あれ、こんな表情できるようになってたっけって。置いていかれてる感じがする」
勝は、小さく笑った。
「それ、十分、親バカだと思うけどな」
「そうかな」
「俺もさ、自分の身体を削った感覚なんて、もちろんないけどさ。でも、夜中にミルク作ったり、オムツ替えたりしながらさ、『こいつのためなら、多少の理不尽は我慢できる』って、普通に何度も思ってる。
長時間労働とか、山下さんの説教とか」
笑いながらも、勝の目は真剣だった。
「支えって、痛みだけじゃないと思うよ。積み重ねた時間とか、一緒にやった小さい苦労とかさ。そういうのでも、十分じゃないかな」
私は、返事をしようとして、そのとき端末が震える音を聞いた。
ディスプレイには、「出生管理センター」の文字。
「……ごめん、出るね」
胸の奥が、ひやりと冷たくなる。
「はい、高坂です」
『夜分遅くに申し訳ございません。出生管理センターの麻生と申します。先日、お子さまをお引き渡しした件で、少しご相談がありまして』
落ち着いた女性の声だったが、言葉の端に微かな緊張が滲んでいた。
『遺伝子スクリーニングの再解析を行ったところ、非致死性の軽度代謝異常の可能性が、わずかに示唆されまして……。現時点で健康状態に問題はありませんが、念のため、明日以降、専門医の検査を受けていただきたく――』
声が遠くなっていくのを感じた。
代謝異常。可能性。
十日で育てられたガラスの中の命に、取りこぼされたものがあるのかもしれないという事実。
「……わかりました。詳細、送っていただけますか」
なんとかそれだけ答えて、通話を終える。
「どうした?」
「紗良の……検査のことで。何か、代謝の値が微妙らしい」
顔に血の気が引いていくのがわかった。
完璧なはずのシステム。
限りなくゼロに近いリスク。
そう信じていたものに、ひびが入る音が聞こえた気がした。
義母の言葉が頭をよぎる。
「自分の身体を通っていない」という感覚。
もし、私の身体の中にいたら、何か違っていたのだろうか。
そんな意味のない仮定が、波のように押し寄せてくる。
勝は、私の肩に手を置いた。
「明日、一緒に行こう。会社には、なんとか理由つけて休むから」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。
解放されたはずの世界で、私たちは別の種類の不安を、こうして分かち合っている。




