第一話:痴漢に遭った話
草深奈緒は、誰もが羨む女性だった。
愛する夫、可愛い子ども、美しい容姿、やりがいのある仕事、経済的安定、信頼できる友人、そして落ち着いたマイホーム。いわゆる「女性の7つの幸せ」をすべて手に入れていた。周囲の人々は、奈緒のことを「理想の女性」と賞賛し、彼女自身もその評価を受け入れていた。
だが、奈緒の心の奥底には、小さな違和感があった。
「これが幸せ……?でも、なんだか物足りない」
朝5時に起きて弁当を作り、子どもを保育園に送り届ける。会社に向かう電車の中で詰められたスケジュールを確認し、職場では上司や同僚に応えながら業務をこなす。帰宅後は、夕飯の準備、子どもの世話、洗濯、明日の準備――そんな日々が続いていた。
「忙しいけど、これが普通なんだろう」
そう自分に言い聞かせる一方で、奈緒は空虚感を抱えていた。
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ある日、SNSを眺めていた奈緒は、「女性の権利」や「不平等」を訴える投稿に目を奪われた。それは「ツイフェミ」と呼ばれるオンライン上のフェミニズム活動だった。忙しい日々の中でも、奈緒にとってスマホを片手に参加できるこの活動は、魅力的だった。
「私も何か社会の役に立ちたい」
そんな思いが芽生えたのだ。奈緒はツイフェミの世界に没頭していった。ハッシュタグをつけて投稿し、意見を交わし、女性の権利向上について熱心に語る日々。そこには、これまで味わったことのない「やりがい」があった。
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ツイフェミ活動を始めて1年が経ったある朝、奈緒は満員電車で通勤していた。
その日も、SNSでフェミニズムに関する投稿を読みながら、他のユーザーと議論を交わしていた。ふと、後ろから微妙な違和感を感じた。
「……触られてる?」
奈緒は一瞬体を硬直させたが、次の瞬間、怒りが込み上げてきた。
「痴漢なんて許せない!」
彼女は振り向き、後ろに立つスーツ姿のサラリーマンのネクタイを掴んで叫んだ。
「お尻を触らないでください!痴漢なんて卑劣です!」
車内は一瞬にして騒然となった。サラリーマンは驚いた顔で否定したが、奈緒は耳を貸さなかった。
「この反応、やった証拠よ。無実なら堂々と否定するはず」
その場にいた数人の男性がサラリーマンを取り押さえ、駅に到着すると駅員に引き渡された。奈緒は駅員に説明を求められると、「お尻を執拗に触られました」と力強く答えた。事実かどうかよりも、奈緒の中では「女性を守る正義」が重要だった。
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警察が到着し、サラリーマンが事情を説明しようとする中で、彼が公務員であり、新婚で生まれたばかりの子どもがいることが明らかになった。彼は必死に「鞄が当たっただけだ」と訴えたが、奈緒はその言葉に耳を貸さなかった。
「女性を傷つけた時点で、それは痴漢と同じ。厳罰に処すべきです」
奈緒は毅然として言い放った。
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その夜、奈緒は夫に今日の出来事を話した。
自分がいかに正義を貫き、女性としての誇りを守ったかを自慢げに語った奈緒だったが、夫の反応は意外なものだった。
「本当にその人が痴漢だったの?」
夫の静かな問いに、奈緒は思わず不満げな表情を浮かべた。
「そんなのどうでもいいじゃない。もし鞄が当たっただけでも、それが女性のお尻に触れたのなら、同じことよ」
夫はしばらく沈黙した後、深いため息をついた。
「奈緒、君は変わってしまった。この1年で、僕が知っている君ではなくなった……。もう一緒にいることはできない」
その言葉を残し、夫は家を出て行った。