終 悪役令嬢とその取り巻き
「うっ、くっ、うぅっ……!!」
屋敷から離れた場所にある橋の下で蹲って、親指の爪を噛みながら惨めに泣き続けた。
なぜ泣いているのか、理由も感情も追いつかないけれど、涙を流さずにはいられない。
『自分』を奪われた怒り、悲しみ。
そもそも自分という存在は物語の中の悪役だったという、どうしようもない理不尽に対する憤り。
5年もの間、ただ自分の顔をした人間が自分として振る舞っていることを眺めていることしかできなかった。
自分が日々摩耗していく感覚にすら、もはや諦観しかなかった。
「いっそ、あのまま、消えてしまえばっ……」
周りの人間たちは、自分が他人にすり替わっていることなどまるで気付いていなかった。
むしろ、誰もが新しい自分の自分のほうがいいと好感すら抱いていた。
使用人たちも、ランバートも、両親ですら。
自分は、決して善良な人間ではなかった。
でも、誰からも必要とされないというほど、邪悪だっただろうか?
考えれば考えるほど、惨めになるばかりで、それを誤魔化すために親指を噛み続ける。
血が滲もうともまるで気にならない。この胸の重みと痛みに比べれば、まったく痛くもなんともない。
……もういい。
もう、私なんかいらないんだ。
このままあてもなく彷徨って、消えてなくなってしまおう――――
「探しましたよ、アリシア様」
……え。
「……あの時とは逆ですね。今でも、昨日のことのように思い出せますよ」
「め、る……?」
声が聞こえたほうを向くと、メルフレッツの顔が見えた。
申し訳なさそうな、今にも泣き出しそうななんとも言えない笑顔を浮かべながら。
「そうそう、『メル』。本当のアリシア様は、そう呼んでくださっていましたね」
蹲っている私の隣に座って、メルがハンカチを差し出してきた。
「お救いするのが遅れて、申し訳ございませんでした」
「……本当よ。もう、いまさら戻ったところで、どうしろっていうのよ……」
「アリシア様……」
「う、うあっ、あああぁぁあぁ……っ!!」
泣き顔が見えないように膝に顔を押し当てて嗚咽交じりにしばらく泣き続けた。
メルはなにも言わずに、私の頭に胸を押し当てて、抱き寄せてくれた。
嗚咽が治まったころに、気が付けばメルにこれまでのことを話していた。
なんで話そうと思ったのか、自分でも分からない。
ただ、誰かに聞いてもらわずにはいられなかった。
「……この世界はね、あのニセモノが言うには物語の中の世界なんですって」
「なんと……」
「……信じるの? こんなバカみたいな話なのに」
「ええ。むしろ合点がいきましたよ。アリシア様になりすましていたあの方は、決して頭が良い方ではないはずなのに、不自然なほど先見の明がありましたから」
「そう、ね。物語の先が分かっているからこそ、あのニセモノは上手く立ち回ることができたのよ」
……仮に、私が私のままで物語の全貌が分かっていたら、どんなふうに立ち回っていただろうか。
あのニセモノのように、物語の悪い流れを断ち切って善良な令嬢として振る舞っていたのか?
ありえない。
それは、断じて私の選択なんかじゃない。
きっと、より自分に有利な展開にもっていけるように策謀を巡らせていたに違いない。
そんな私だからこそ、誰も私よりもニセモノのアリシアを好いたのだろう。
「……惨めなものね。誰にも必要とされない存在だったなんて、私は所詮悪役以外の何者でもなかったということかしら」
「いいえ、少なくとも私にとってはかけがえのない御方です。他の誰が否定しても、私はあなたを肯定し続けます。たとえそれが悪の道だったとしても、ずっとお供いたします」
「……そんなふうに甘い言葉をかけて、あなたを懐柔したのも、この橋の下だったわね」
メルは、きっと本心から言っている。私と違って、根は善良なのだから。
……だからこそ、こんな悪役に従っているべきなんかじゃない。
「今だから言っておくけど、私はあなたを救う気なんてなかったわ。ただ面白そうな駒が手に入りそうだったから、優しい言葉をかけたってだけの話よ。あなたの欲しい言葉をかけ続けて、洗脳していたのよ」
「ええ、存じております」
「……えっ?」
「アリシア様の真意がどうあれ、あの今にも死んでしまいたいと思うほどの絶望と劣等感から救い出してくださったのは、アリシア様の言葉なんです」
「話を、聞いてたの? 私は、あなたを道具として利用しようとしていたのよ?」
「あの時、私の周囲の人たちは『姉と自分を比べてどうする、お前も努力して立派な人間になれ』と言う人ばかりでした。そして、それは正しい意見だったと思います。しかし、その正しさが私を追い詰めていたんです。愚痴を吐き出すことも許されず、報われない努力を強制され続けて、ね」
私の手を握りながら、メルが笑顔を浮かべているのが見えた。
「たとえ正しくなくとも、たとえ悪役だったとしても、あの時の私に必要だったのは、アリシア様だったんです。だから、私は絶対にアリシア様を見放しません」
「……バカね、あなた」
「ええ、バカで結構。悪役令嬢の取り巻きで結構ですよ」
メルの手を握り返しながら、立ち上がった。
手を握ったまま、橋の上へと歩を進める。
「十年よ」
「え?」
「十年以内に、あのニセモノに奪われた分以上のものを取り戻すわ。それにはあなたの魔術が必要よ」
「『魂の使役』、ですか」
「当たり前でしょ。『回復』のほうはほとんど役に立たないじゃない」
「あはは、そうですね。でも……」
噛み痕から血が滲んでいる私の親指を、弱い『回復』の光が包んだ。
爪も傷も元通りに治って、綺麗な指先へと戻った。
「アリシア様の噛み癖がなおるまでは、必要だと思いますよ」
「う、うるさいわね……」
結局のところ、悪役も役に立たない力も、誰かにとって必要だからこそ存在しているのよ。
たとえそれを必要としているのが、たった一人だったとしても。
ねぇアリシア、あなたが救わなかったメルと私にあなたはどう立ち向かうのかしら。楽しみね。
お読みいただき、ありがとうございました。
あとこんなアンチテーゼ的なもの書いといて今更ですが、特定の作品を批判するような意図は一切ありません。筆者は悪役令嬢ものの作品が大好きです。