月夜の真実
半月ぶりにボードレール家に戻ったユリを、ライオネルとシーラが玄関先で迎えてくれた。ユリの姿を見るなり、ライオネルが目に涙をいっぱい溜めて抱き付いてきた。
「ライオネル!元気だったか?」
ユリは嬉しくなって顔を綻ばせる。ユリの腕の中で、ライオネルは嬉しそうに顔を摺り寄せると、
「お帰りなさい、お兄様!」
と元気いっぱいに言った。ライオネルの柔らかな金髪からは、草原と太陽の匂いがした。
「本当にお元気そうでほっといたしました。私とライオネル様は、毎日ユリ様のご無事を神様にお祈りしていたのですよ。」
シーラも目元にうっすらと涙を浮かべて、再会を喜んでくれた。と、ユリは気になる事があり、屋敷の中を見回してみた。カイトの姿がどこにも見当たらないのだ。シーラに尋ねると、彼女は気まずそうに視線を逸らした。
「…?どうしたんだ、シーラ。カイトに何かあったのか?」
「実は…」
シーラは、ユリが反乱軍鎮圧に赴いている間に起きた出来事を説明した。アレンが過去の罪を懺悔して自殺した事。そして、
「ジムとカイトは、この屋敷を出てしまいました。お義父さんが死んだ翌日、突然二人とも姿を消してしまって。今どこで何をしているのか、わからないんです。」
そう言うと、彼女は悲し気な目をして俯いてしまった。ユリは、予想だにしていなかった事態に驚き、息を飲んだ。
「そうか、そんな事が…。大変だったな。すまなかった。皆が大変な時に、傍にいられなくて。」
ユリの言葉に、シーラは一生懸命首を振った。
「いいえ、そんな。ユリ様に誤っていただく事なんて、何もありません。もとはといえば、私の義父が起こした事故が原因なのですから。…でもカイトは、悪いのはアレンではない。あれは不幸な事故だったんだから、アレンを憎む気持ちはないと言ってくれました。」
「そうか…。そうだよな。カイトはそういう奴だよ。」
ユリは、それを聞いて少しほっとした。と同時に、ならばなぜこの屋敷を、私に何も告げずに出て行ったのかという疑問が沸き起こった。過去の出来事に固執していないのであれば、どうしてそのような行動に出たのか。彼は一体何を考えているのか―。よもや、ダリダン伯爵を恨んで、バカな事を考えたりしていないだろうか、心配でならなかった。昔から真っ直ぐで正義感の強いカイト。小さい頃からの彼の気性を知っているだけに、ユリの心は不安に揺らぐのであった。
屋敷に帰宅した事をダリダン伯爵に伝え、彼の部屋から退室すると、廊下の向こうからシモーヌとアバン公爵が歩いて来るのが見えた。やっかいな連中に捕まったと思い、渋い顔をしていると、シモーヌが口の端に笑みを浮かべて近づいてきた。
「あら、ユリ様。お帰りなさい。ご無事で何よりでしたわ。」
「ただいま戻りました、お義母様。」
ユリは型どおりの挨拶を済ませ、その場から早々に立ち去ろうとしたが、目の前にアバン公爵が立ちふさがり、それを許さなかった。
「ところでユリ、聞いているか?この家の使用人だったジムとカイトが行方をくらました事。」
アバン公爵が聞いてきた。
「ええ。先ほど、使用人から聞きました。」
「その事だが…。実は最近、都のあちこちで革命軍と名乗る暴徒が、貴族の屋敷を襲撃する事件が起きていてな。どうやらその主犯格のグループの中に、ジムとカイトらしき人物を見た者がいるのだ。」
「何ですって…?」
あまりの事に、ユリは目を見開いた。シモーヌは、動揺している様子のユリを愉快そうに眺めながら、
「革命軍にうちの使用人だった者達が混ざっているなんて、何という恥知らずな。…やはり、元はあなたが連れてきた使用人だけあって、こざかしい真似をしてくれますこと。お生まれが自ずと偲ばれますわねぇ。」
と言い、高笑いをしてみせた。ユリは、怒りに拳を震わせながらその場に佇んでいた。カイトが、なぜ革命に身を投じることになったのか、あなた達は考えもしないのか。いや、人の心を持たない貴族にとって、所詮平民の苦悩など理解できないだろう。怒りと絶望が、ユリの心を支配していた。
「ユリ、お前に命ずる。革命軍に交じり込んでいるジムとカイトを連れ戻し、私の前に引きずり出せ。よいな。」
アバン公爵の眼に非道な冷たさが漂っていた。この男は、ジムとカイトを罰する気だ。ユリは直感的に思った。アバン公爵に、二人を引き渡してはならない。引き渡してしまえば、この非道な男に何をされるかわからない、と。しかし、アバン公爵に自分が女性である事を知られ、弱みを握られてしまった今、表立って彼に逆らう事は絶対に許されない。ユリは、揺れ動く感情をぐっとこらえ、
「畏まりました。」
と一礼してみせた。その姿を満足そうに堪能し、シモーヌとアバン公爵はその場から去って行った。カイト―。子供の頃からずっと一緒だったのに、彼は一度も自分の生い立ちについて話してくれた事はなかった。彼が抱える苦悩も、ついに打ち明けてくれる事はなかった。私の知らない所で勝手に傷ついて、一人で決断して、この家を出て行ってしまった。彼と私は親友であると思っていたのは、私の一人よがりだったのだろうか。彼にとって、私はそんなにも頼りない存在だったのだろうか。ユリはそう思うと、途端に悲しくなってしまった。カイトに会いたい。会って、彼が抱える悲しみや痛みに少しでも寄り添う事ができれば…。しかしその望みは、今の自分には到底かなわぬ夢である事もまた、理解しているユリであった。と、柱の陰からこちらの様子を恐々と窺っていたライオネルが、心配そうに駆け寄ってきた。
「お兄様…!お兄様は、カイトを捕まえてしまうの?カイトが捕まったら、どうなるの?」
不安げな目をして尋ねてくる弟に、ユリは優しい笑顔を見せると、
「大丈夫。私はカイトを捕まえたりしないよ。だから、お前は安心して待っていなさい。」
と言って聞かせた。ライオネルは、ほっとしたように溜息をついて、
「よかったぁ。」
と笑顔を見せた。この屋敷の中で、ライオネルが心を開いた人物は数少ない。カイトは、この子が最初に打ち解けて、自ら名乗った相手だった。この子の笑顔を守るためにも、カイトの身の安全を確保しなければ。私がしっかりしなければならないんだ。ユリは自らの精神に鞭を打って奮い立たせた。
翌日から、ジムとカイトの捜索が始まった。アバン公爵から預かった部下を街に放し、闇にまぎれての捜査が始まった。ユリが難しい顔をして部下からの報告書に目を通していると、テーブルの脇に、カチャッという雅な音を立てて、ティーカップが置かれた。驚いて顔を上げると、アルフレッドが立っていた。
「ユリ様、少しは休憩なさってはいかがですか。反乱軍鎮圧から帰ってきて間もないというのに、根を詰めすぎですよ。」
心配するアルフレッドの言葉を、ユリは途中で遮るようにティーカップのお茶を啜った。
「何をどうしようと私の勝手だろう。」
そう言い、勢いよく置いたティーカップが皿にぶるかる音が、静寂の部屋の中に響いた。アルフレッドは、冷めた眼差しでティーカップを見つめ、「それで」と口を開いた。
「カイト達の足取りは見つかったのですか?」
「ジムとカイトらしき人物が良く出入りしているという場末の酒場があるという。その酒場の地下が、革命軍の溜まり場になっているという噂もある。…今夜、そこへ潜入しようと思う。」
ユリの言葉に、アルフレッドは目を見開いた。
「あなた自らが潜入?…何を考えておられるのですか、ユリ様。まさか、部下より先にカイトに接触して、彼を逃がすおつもりですか?」
アルフレッドに真をつかれた質問をされ、ユリは思わず逆上して席を立った。
「ごちゃごちゃうるさいぞ!お前は黙って、私の言う通りにしていればいい。お前は私の秘書だろう?ならば、私のする事にいちいち口を出すな。」
ユリの剣幕に身じろぎもせず、アルフレッドは冷静にこちらを見つめていた。
「勘違いなさっては困ります、ユリ様。私の仕事は、あなたのお命を守る事です。たとえあなたが決めた事でも、あなたに危害が及ぶ事であれば、私は平気でそれを裏切りますよ。」
「…何だと!それは一体、どういう意味だ?」
「言ったまま、ですよ。」
そう言うと、アルフレッドはユリに一礼してドアの方へ歩き出した。
「待てっ、アルフレッド。カイトに何をするつもりだ?カイトに手を出したら、許さないからな!」
ユリの叫びは虚しく部屋に木霊した。
「アバン公爵はユリ様を使って、革命軍のアジトを一掃する腹積もりだ。まずはこの主犯格メンバーが集まるアジトを壊滅させて、それから都内の革命分子を徹底的に排除する計画を立てている。」
その日の夜、革命軍のアジトにいち早く潜入したアルフレッドは、ジムとカイトにアバン公爵の企てを話して聞かせていた。
「もしそんな事になれば、革命軍の恨みを一心に受け、ユリ様の身がますます革命の矢面に立たされる事になる。ただでさえユリ様は、西海岸の反乱軍鎮圧の時のご活躍で、都に名前が知れ渡ってしまっているからな。そしてそればかりではなく、アバン公爵はユリ様の弱みを握り、それを餌にユリ様を脅迫しているのだ。」
「何だって・・・!」
アルフレッドの話を聞き、カイトの顔がみるみるうちに怒りの表情に変わっていった。
「俺たちの活動を阻む敵は、俺たちの手で排除しなければならない。」
ジムはそう言い、集まった革命軍の面々を前に、アバン公爵の企てを話して聞かせた。そうして話し合いの結果、アバン公爵の暗殺計画が持ち上がった。革命制圧の要であるアバン公爵を暗殺し、革命の成功を図るとともに、同じ次期国王候補という立場にあるジュリアン王子を玉座へ近づけるというのが、革命軍幹部の目的であった。
「その役、俺にやらせてくれよ。」
集まった面々の後方で事の成り行きを見守っていたカイトは、自ら名乗りを上げた。
「カイト、大丈夫か?お前、銃は使えるのかよ?」
隣にいたジムが、焦って聞いてきた。
「田舎にいた頃、よく森に行って狩猟をしていた。動く標的を遠くから撃つのは得意だ。俺に任せてくれ。」
カイトは、心配ないといったように目配せしてみせた。アバン公爵は、俺たちの行く手を阻むだけでは飽き足らず、あろうことかユリアを脅迫しているという。アバン公爵のせいで、ユリアの身が危険な立場になる事だけは、どうしても我慢ならなかった。彼女の嘆く顔を、これ以上見るのは嫌だった。…たとえそれが、ユリアと敵同士になってしまう決定打になろうとも、構わなかった。彼女が幸せになってくれればそれでよかった。
「ユリ様の身は、このアルフレッドが死んでもお守りする。だから、安心するがいい。」
帰り際に、アルフレッドが放った言葉を心の中で反芻し、カイトは心を決めていた。あの男なら、ユリアを命がけで守るだろう。大丈夫、これでユリアの身は安全になる。俺にはしてやれなかった事も、あの男ならユリアにしてあげる事ができるだろう。幾度掻き消そうと試みても湧き上がってくる名の分からない胸の疼きを鎮めようと、そう自分に言い聞かせた。
数日後、都のダンスホールで舞踏会が開かれる夜、シーラが眠る使用人部屋のドアを叩く者があった。カイトだった。
「カイト!どこに行ってたの?…みんな、心配していたのよ。」
シーラは心配そうにカイトの顔を覗き込んだ。カイトは、穏やかな瞳をしてシーラの肩に手を置くと、
「ごめん、心配かけたな。」
と微笑んだ。その微笑みがあまりにも力弱いものに感じられ、シーラの胸に不安がよぎった。
「一体どうしたの、カイト?」
シーラの問いに、しばらく口を閉ざしていたカイトだったが、観念したように頭を掻きながら、
「なんだかお前を見ていると、なんとなく母さんの面影を思い出してしょうがねぇや。」
と照れくさそうに笑った。それからふっと真剣な表情になると、
「お前に会えるのは、これが最後かもしれないから…。元気でいろよ。お前は、俺の唯一人の大切な妹なんだから、絶対幸せにならないとダメだぞ。…それから、ユリの事をよろしく頼む。ユリに伝えてくれ。お前を愛していた。どこにいてもお前の幸せを願っている、と。」
と言った。
「…愛していたって、どういう事?ユリ様は男性でしょ?」
シーラが眉をひそめて聞いてきた。カイトは、困ったというように頭を掻きながら、
「ずっと内緒にしていて悪かった。実はユリは女性なんだ。フィリップ様の血を引く彼女は、ダリダン伯爵に請われて仕方なく〝男性〟としてこの家に来たんだよ。…だからシーラ、ユリは紛れもなく、お前と同じ女の子なんだ。」
と言った。
「そんな…知らなかった。ユリ様が女の子だったなんて!」
シーラは驚きを隠せずにいた。
「できる事なら、俺がずっと傍で彼女を守っていたかった。でも、今となってはそれも叶わない。シーラ、彼女の事を頼んだぞ。」
「なに、それ。まるでお別れの言葉みたいじゃない!」
不安な表情を浮かべるシーラの肩から、カイトはそっと手を離した。
「待って。カイト!…兄さん!」
涙を浮かべて自分の背中を追う妹の声をなるべく聴かないようにして、カイトは暗闇の中を駆けて行った。―翌日、ダンスホールでの舞踏会の帰り道、馬車から降り立ったアバン公爵が何者かに狙撃されたというニュースが、貴族界を震撼させた。その後の調べで、犯人はどうやら革命軍の一味に間違いないという事が判明した。国王の弟であり、ボードレール伯爵を筆頭とした古参の貴族達の支持を受けている、絶大な権力と影響力を誇ったアバン公爵の訃報であるが故に、貴族達は恐怖と悲嘆にくれた。次は自分たちの番ではないのか。そんな妄想が、彼らを支配するようになっていった。革命軍の鎮圧をおおっぴらに行っていた貴族達も、アバン公爵と同じ目に遭わされてはたまったものではないと、次々に身を引いて行った。こうして、アバン公爵の死をきっかけに、都の革命軍は勢いを増していく事になるのだった―。
最愛の兄という後ろ盾を無くしたシモーヌは、抜け殻のようになっていた。屋敷の者達も、彼女にどのように接したらよいのか考えあぐね、まるで腫れ物に触るような態度を取るようになっていった。ある日、シモーヌは半狂乱になった様子でユリの自室へ駈け込んできた。
「あなたがいけないのよ!あなたがぐずぐずしていたから、お兄様は革命軍に殺されたんだわ。…もとはと言えば、あなたがこの屋敷に来た所から私の不幸は始まったんだわ。あなたが来なければ、私はこんな惨めな思いをして毎日を過ごす事もなかった。あなたは、私からダリダン伯爵も、フィリップ様も、ライオネルも!挙句の果てにはお兄様まで、全てを奪ってしまった。あなたなんか、生まれて来なければよかったのに!」
必死で泣き叫ぶシモーヌの言葉を、ユリは悲痛な表情で黙って聞いていた。憎悪というものがこんなにも人の顔の上で凝り固まって現れる事を、ユリはこの時初めて知った。その感情はもう、何を言っても何をしても揺らぎはしない、確固たる形を成してその人の心に居座ってしまっている事も。―この人も、今までいろいろな辛酸を味わってきたのだろう。憎むべき人だと思ってきたが、彼女もまた、貴族という社会に揉まれ、傷ついた犠牲者なのかもしれない。
「シモーヌ、落ち着きなさい。」
と、いつの間にか戸口の所に、車いすに乗ったダリダン伯爵が立っていた。久しぶりに顔を合わせたダリダン伯爵の頬は痩せこけ、とても疲れている様子だった。彼のその様子は、まるで貴族社会が崩壊していく様を予見しているようでもあった。ダリダン伯爵が車いすを進めてシモーヌの側まで来ると、シモーヌは彼に取りすがって泣きじゃくった。ユリは、家族であるはずの目の前の二人から疎外感を感じていた。二人との間に隔たる壁を感じてその場にいるのが辛くなり、静かに部屋を退室した。あなた達も辛い思いをしているかも知れないが、私の母は、カイトの家族は、それよりも遥かに傷つき、辛い思いを味わってきたのだ。そう思うと、胸がつぶれる思いだった。そのカイトは、もうここにはいない。彼は、私から遠く離れた存在になってしまった。私はカイトに置き去りにされて、一人ぼっちになってしまったのだ。…こんな家、もういたくない。…小父様に会いたい。
「小父様、どこで何をしてらっしゃるの?どうして私に会いに来てくれないの…!」
切実な思いがこみ上げてきて、ユリは薄暗い廊下に一人佇み、嗚咽した。
傷つき、暗く沈んだユリの心は、空洞のようになっていた。魂の抜け殻のようになったユリの足が向かったのは、アルフレッドの自室だった。ドアを叩くと、アルフレッドが意外そうな顔をして迎え入れてくれた。
「ユリ様、どうかなさいましたか?」
アルフレッドの質問には答えず、ユリは無言のままソファに腰かけた。彼の顔を見た途端、空っぽだったはずの心に揺らぎが現れ、それは涙となって頬を伝った。アルフレッドは、月明かりに光る大粒の涙を愛おしそうに眺め、手を伸ばしてユリの頬を拭った。
「…お前は、不思議な男だな。」
「何がですか?」
きょとんとして尋ねるアルフレッドの様子がおかしくて、ユリは微かに鼻を鳴らした。
「なぜそこまで、私にこだわるんだ?お前のような男なら、無理に私ではなくても、他にいくらでも相手が見つかるだろうに。」
「ひどく残酷な事をおっしゃるのですね、ユリ様。」
アルフレッドは、少し不愉快そうに眉間に皺を寄せると、ユリが座っているソファから少し身を離した。
「数年前、私は偶然、ラルフ様の手帳にはせてあったあなたの肖像画を目にしました。」
「?」
最初、彼が何を話し始めているのかわからず、ユリは首をかしげて聞いていた。
「…驚きました。この世に、あんなにも穢れを知らない純真無垢な姿をした美しい少女が存在しているとは。幼い頃から、まるで野良犬のように地べたを這いずり回って生きてきた私にとって、肖像画の中のあなたの姿はあまりにも眩しすぎた。その眩しさは、憧れから、やがて欲情をかきたてるものへと変わっていった。あなたの姿に想いを馳せる度に、あなたを手に入れてみたいという気持ちが高まっていった。―あの日、私があなたの肖像画を目にしたあの時から、私の心の全てはあなたに注がれる事になったのです。他の事を考える余裕が無くなるくらいに、ね。」
アルフレッドはそう言ってこちらに向き直ると、真っ直ぐな瞳を向けて見つめてきた。
「アルフレッド…。なぜ、私なのだ?…私で、いいのか?」
ユリは言いながら、また目に涙を滲ませている事に気がついた。こんなにも自分の事を想い、愛してくれる人間を、彼女は他に知らなかった。今、心がズタズタに引き裂かれた彼女にとって、アルフレッドの愛情は、この世で信じられる唯一の真実となっていた。アルフレッドは、無言のままユリに近づくと、泣いている彼女の額に柔らかい口づけを落とした。
「私はあなたしか知りません。私の瞳に映っているのは、あなただけです。」
そのあまりにも優しく温かいぬくもりに、ユリの瞳から一つ、また一つと涙の筋が流れていった。
屋敷の皆が寝静まった頃、アルフレッドは、あるお方の使いだという者に導かれて、近くの教会に出向いていた。教会は薄暗く静まり返っており、人の気配はしなかった。窓から漏れてくる月明かりだけが、侘しい祭壇を照らしていた。埃っぽい空気を嗅ぎながら歩を進めると、前方の椅子にフードを目深にかぶった紳士が腰かけていた。ラルフだった。
「ラルフ様、ご無沙汰しておりました。」
アルフレッドはそう言って一礼した。ラルフはこちらに顔を向ける事なく、
「ユリアはどうしている?」
と聞いてきた。
「はっ。今回の事が相当痛手だったようで、大変沈んでおいでです。」
アルフレッドは素直に現状を述べた。ラルフは物憂げに溜息をつくと、アルフレッドに向き直り、
「実は今夜の革命軍の集会で、ボードレール伯爵家の襲撃が決まった。」
と言った。
「え…?」
アルフレッドは驚愕に目を見開いた。
「アルフレッド。明日の晩、民衆たちがボードレール家に押し寄せる。お前は、屋敷の者に気づかれないよう、事前にユリアとライオネルを逃がせ。」
「しかし、ラルフ様…!」
「安心しろ。ユリアの身代わりになりそうな、金髪の青年を街で行き倒れている連中の仲から見つけ、そこの棺の中に運び入れてある。火事で屋敷が消失すれば、遺体の顔の判別などできまい。そうしてユリ・ボードレールの死を偽造する。…全てが終わったら、ユリアをメリル村まで連れてきてくれないか。」
「―御意。」
アルフレッドは心の動揺とは裏腹に冷静な装いを崩す事なく、目の前に立っている背徳の悪魔に一礼した。この人には、家族の情や人としての道徳などというものはどうでもいい事なのだ。自分の大切な者、自分が欲しい物だけを守れれば、あとはどうなっても良いのだろう。柔和な顔の奥に潜む狂気の影を、垣間見た気がした。彼もまた、時代が作った悪魔の一人なのかも知れない―。今時代は確実に動こうとしている。その動きに、彼のような〝人の情を失った悪魔〟が必要だったのだ。人は、運命という名の神の意図に、決して逆らう事はできない。そしてそれは、当人が気づかぬうちに、足音も立てずに忍び寄る―。
屋敷へ戻ったアルフレッドは、使用人部屋のシーラを訪れていた。
「アルフレッド様?」
彼の突然の来訪に、驚きと緊張が入り混じった表情でシーラが出迎えた。アルフレッドは、口元に人差指をかざし、彼女に騒がないよう告げた。
「シーラ、ユリ様とライオネル様が大事か?」
唐突な質問にきょとんとしつつも、シーラは真っ直ぐな瞳をして、
「はい。」
と答えた。
「ならば何も聞かずに、私の言う通りにしてくれ。」
アルフレッドはそう言うと、シーラに何事か耳打ちし、小さな袋に入った粉末を手渡した。シーラは、彼のただならぬ雰囲気から、これから起こる悪い事態を予感し、緊張の面持ちで頷いた。
「あなたを信じてもよろしいんですね?本当に、これでユリ様とライオネル様をお守りする事ができるのですね?」
シーラの問いにアルフレッドは黙って頷くと、彼女に背を向けて屋敷の方へと歩き出した。
「…ユリ様。」
アルフレッドの後ろ姿を見送りながら、シーラはユリに想いを巡らせていた。私と同じ女の子だったユリ様。彼女の身には一体、これまでどのような苦難な日々が訪れていた事だろう。本来なら、普通の女の子として幸せに生きていけるはずだったのに、彼女の人生はみるみるうちに動乱の渦に巻き込まれてしまった。その彼女の身に、今最大の危機が訪れようとしているのなら、私が助けてやらなければ。何にもまして、彼女は兄カイトの大切な人でもあるのだから!シーラは強い決意を胸に、アルフレッドから渡された白い粉末の入った袋を握りしめていた。翌日の夜、ライオネルはなかなか寝付かず、暖炉を囲んでユリと談笑していた。
「でね、お兄様。今日シーラったらね!」
楽しそうに会話するライオネルの声が聞こえてきて、ドアの向こうにいたシーラはビクッと体を震わせた。それから、何かを決心したかのようにゴクリと唾をのみ込むと、二人がいる部屋のドアを開けた。
「シーラ!」
彼女の姿を認めたライオネルが、嬉しそうに駆け寄ってきた。その反動で、手に持っていたお盆の上に載っている紅茶のポットが倒れそうになり、シーラは慌てて体勢を立て直した。
「お紅茶を持って参りました、ユリ様。」
シーラは奥の椅子に腰かけていたユリに向かって一礼した。
「ありがとう、シーラ。」
暖炉の煌々とした明りを浴びて微笑するユリは、思わずみとれてしまうほど美しかった。私は、この二人の事が大好きだ。そして今夜、この二人をお守りするためには、私がやるしかないんだ。シーラは自分にそう言い聞かせ、普段と変わらない態度に見えるように細心の注意を払いながら、カップに紅茶を注いだ。ライオネルは何の疑いもなく、すぐさまカップを手にとり、薔薇のつぼみのように可憐な唇に含んだ。その姿に少しほっとしたシーラは、隣でカップを覗き込んでいるユリの姿にドキッとした。
「…ユリ様、いかがなさいましたか?」
シーラの問いに、ユリは少し沈黙した後、
「?いや。この紅茶、何だかいつもと香りが違うような気がする。…茶葉を変えたのか?」
彼女の光り輝く碧眼が、まっすぐにシーラを見つめていた。シーラの額にじんわりと汗が浮かんだ。
「そ、そうなんです。さすがはユリ様!今宵の紅茶の茶葉は、アルフレッド様が持っていらしたものなんですよ。とても良い香りがいたしますでしょう?」
「…そうか、アルフレッドが。それでは、ありがたく頂戴するとしようか。」
ユリはそう言うと、優雅に紅茶を啜った。と、その途端、ユリの眼の前が真っ暗になり、まもなく意識が遠のいていった―。
真夜中、民衆達はボードレール伯爵家の門前に集結していた。彼らの手には、松明は鍬といった思い思いの武器や道具が携えてあった。彼らの怒号は鳴りやむ事を知らず、勢いそのままに屋敷の門を破壊し、屋敷の中へ押し寄せた。使用人達は恐怖に駆られ、悲痛な叫びをあげた。屋敷のそこかしこに火が着けられ、主要な出入り口は全て塞がれた。
「ダリダン伯爵とシモーヌ夫人、そしてユリ・ボードレールを決して逃すな!ボードレール伯爵家一族を、根絶やしにするのだ!」
「この国を根底から腐らせた諸悪の根源に制裁を下せ!」
民衆達は思い思いに叫び、屋敷内は大混乱を極めていた。その光景を、ダリダン伯爵は屋敷の奥まった部屋の窓から見ていた。と、いきなり窓から石が投げ込まれ、その衝撃に驚いた彼は車いすごと床に倒れてしまった。はずみで車いすは部屋の隅に転がっていった。足が悪い彼は自力で起き上がる事ができず、床に這いずるようにして車いすへ手を伸ばした。と、徐々に辺りが焦げ臭くなり、ドアの隙間から白い煙が見えた。ダリダン伯爵は蒼白になり、声の限り助けを求めた。しかし、使用人達は皆すでに屋敷の外に逃げ出してしまっており、誰も返事するものはいなかった。もはや手遅れかと諦めかけたその時、部屋の隅に人影を発見し、ダリダン伯爵は煙が充満する中必死で目を凝らした。やがて人影がゆっくりとこちらへ近づいてきて、彼は人影の正体をようやく把握する事ができた。
「ラルフ!丁度いい所に来た。助けてくれ。」
床に倒れたまま上体を起こし、必死に懇願するダリダン伯爵を、ラルフは無表情で一瞥した。それから、部屋の隅に転がっていた車いすに視線をやった。彼は無言のまま車いすに近づくと、車輪を抱えて部屋の窓目がけて放り投げた。
「なっ!…何をしているのだ、ラルフ!」
ダリダン伯爵は、唖然として窓の外に落ちていく車いすを見つめた。
「ラルフ、愚かな事はやめて、さっさと私を部屋の外へ担ぎ出すのだ。」
必死の眼をして、ダリダン伯爵はラルフの足元まで這ってきた。ラルフは、冷たい視線で見下ろすと、
「父上様。残念ながら、先の戦で負傷した右腕が痛みますので、私にあなたを担いで出る事はできません。申し訳ありませんが、自力で脱出してください。…お先に参りますので。」
と言った。
「待てっ!ラルフ…。何が望みなのだ?言ってみろ。金か、地位か、名誉か?なんでもお前の言うとおりにしよう。お前が、ジュリアン殿下に王位を継がせたいというのなら、そうなるよう協力してやろう。もうお前の邪魔はしない。お前が望む事をなんでもしてやるから、私の命だけは助けてくれ。」
ダリダン伯爵の懇願に、ラルフは全く耳を貸そうとはしなかった。
「待て!待ってくれ!ラルフ、…ラルフー!」
足早に部屋から立ち去ろうとするラルフの背後で、老人の悲痛な叫びが聞こえた。ラルフは不愉快そうに顔を歪めながら、昨夜の集会での自分の発言を思い起こしていた。
『これから、ダリダン・ボードレール伯爵の罪状を述べる。
罪状その一.亡き長男フィリップが愛した使用人リリーとその子供を田舎へ追いやり、リリーを流行病で死なせる。
罪状その二.フィリップが起こした事故を隠ぺいし、事故で巻き込まれたマリアンヌの夫であり、私の友人であったロジャー・ベルランに謀反の罪を着せ、ベルラン家をお家断絶に陥れる。―ロジャーはその後精神を病み、自殺した。』
ここで、カイトの手が上がる。
『俺は、そのロジャーの息子だ。ダリダン伯爵は事故を隠ぺいするために、御者の男の舌を切り落としたんだ。事故に巻き込まれた俺の妹は、その御者に育てられた。―その事を俺に告白して、彼もまた自殺している。』
集会に集まった民衆達の間にざわめきが起きたが、ラルフは構わず続けた。
『罪状その三.熱病に罹り〝物狂い〟となった孫のライオネルを、一年以上にわたって裏庭の洞窟の檻に監禁する。
罪状その四.己の富と名声のため、財と権力を利用して古参の貴族達を抱き込み、無能な男ポール・アバン公爵を王位につかせようと目論み、国を滅亡に導こうとした。
罪状その五.一度は田舎へ追いやったリリーの息子ユリを都に呼び戻し、彼に反乱軍の武力による鎮圧を行使させた。みんなも知っている通り、彼の業績により西海岸で命を失った同胞の数は、計り知れない。
―以上、ボードレール伯爵家一族が今まで行ってきた悪行だ。君たちが明日の食事にもありつけるか分からないような生活をしている時に、ダリダン伯爵は至福を肥やし、自分の利のために他人を食い物にしてきた。あの男にこのような悪行を許した根本的な原因は、この国に宿る貴族制度という悪習にある。あの男は、貴族制度の頂点に君臨する、すべての元凶だ。…あの男をどうするかは、君たちの判断にゆだねる。話し合いで決めてくれ。…あの悪魔に正義の鉄槌を下すか、否か。』
そして民衆達が出した答えが、今夜の襲撃だった。民衆達は、今まで送ってきた苦難の日々を、これまで抱えてきた憎悪の心を、今宵の暴動の炎に託したのだった。―因果応報。他人を食い物にして生きれば、必ずその倍以上のつけが回ってくる。実の父親を死に追いやったというのに、ラルフの心は寂しいほどに乾いていた。驚くほどに、何の感慨もなかった。
「あの人の息子だからか。」
こんな時に、父親との血の繋がりを意識するなんて、傑作じゃないか。卑屈な微笑を携えながら、燃え盛るボードレール伯爵家の屋敷を背に、ラルフは暗闇の中へと姿を消した。
ボードレール伯爵の死後、民衆とジュリアン王子派の貴族達は義勇軍を名乗り、大きな後ろ盾を失った古参の貴族達の粛清を始めた。義勇軍によりやみ雲に古参の貴族達が粛清されていく無秩序な事態を案じたルーアン・シュヴァリエは、大陸の法律を参考にアリラン王国の新たな法律を作成し、議会に提出。議会は、その法律に沿って、古参の貴族達への懲罰の具体的な方法を決めていった。大国の庇護を受けるジュリアン王子の正式な王位継承が発表されたのは、それから一年後の事であった。ジュリアン新国王は、アリラン王国の統治国家制度を廃止。国の政治は議会を通して行う事とし、議会で出た結論の最終判断を王宮で行う事とした。こうしてアリラン王国は、ジュリアン新国王のもと、新たな道を歩もうとしていた。それはまさに、ラルフが長年思い描いていた、理想国家に近づく大きな一歩であった。
大海原を行く帆船の室内でユリが目覚めたのは、ボードレール伯爵家の暴動の一件から一夜明けた昼過ぎの事だった。見慣れぬ船内の景色に戸惑い、ベッドから跳ね起きると、ベッドの足元にアルフレッドが腰かけているのが目に入った。
「アルフレッド…ここはどこだ?皆は?」
戸惑うユリに、アルフレッドは静かな眼差しで答える。
「大丈夫です、ユリ様。シーラとライオネル様はご無事ですよ。二人ともこの船に乗っています。」
「船だと?どういうことだ。何故、船などに乗っている?」
動揺し目を見開くユリに、アルフレッドは昨夜の一件を説明した。
「革命の炎は、都を燃や尽くさんばかりの勢いです。もうアリラン王国へは戻れません。あなたは一度、〝ユリ・ボードレール〟としてアリラン王国で死んだのです。この船は、海を隔てた大陸へ向かっています。そこならば、あなた方の安全が保証されます。…あなた方をこの船に乗せるために奔走していたため、残念ながら、ダリダン伯爵とシモーヌ様の安否は確認できませんでした。」
アルフレッドは申し訳なさそうに深々と頭を下げる。
「…お前は、昨夜の一件を事前に知っていたんだな。昨夜の紅茶に眠り薬を仕込んだのも、お前だろう。…情報の出どころは、もしかして小父様なのか?」
〝小父様〟という響きに、アルフレッドの眉がピクッと引きつった。
「はい。」
「じゃあ、この船に私を乗せるのも、小父様が指示した事なのか?」
アルフレッドは無言だった。ユリには信じられなかった。あの優しかったラルフが、自分の家族が焼き討ちに遭う事を知って黙認するなんて。…それほどまでに、リリーを失った彼の悲しみや憎悪は深いものだったのか。衝撃に打ちひしがれ、身動きできずにいるユリの髪を、アルフレッドが悲しい瞳をして撫でた。
「ラルフ様があなたを男装させて都に呼び戻した真の目的は、アバン公爵に組し反乱軍を鎮圧する悪役、〝ユリ・ボードレール〟を生み出す事。そうして平民達の憎悪の標的を作り出し、士気を煽る事です。しかしあの火事で、憎悪の標的となった〝男性の〟ユリは死んだ。あなたはこれからは、ただの〝女性の〟ユリアとして生きるのです。…ラルフ様も、最初からそのつもりだったのでしょう。すべてが終わった後は、あなたを助けるおつもりで。」
「…小父様。」
ユリアは、優しかったラルフの笑顔を思い出し、切なさに胸が痛んだ。彼にとって私は、一体なんだったのだろう。ただの復讐の道具でしかなかったというのか。ラルフと過ごしたメリル村の家での日々は、ただの幻想に過ぎなかったのだろうか。私はこんなにも彼を愛していたのに、その愛ですら、彼の憎悪で懲り固められた心を溶かす事はできなかったのだ。その事を思うと、無性に悲しかった。そんなユリの心を察してか、アルフレッドは少し目を伏せると、
「ラルフ様は、あなたを大切に想っておられると思いますよ。でなければ、私にあなたを救い出せとお命じにはならないでしょう。」
と言った。アルフレッドの言葉に聞き入るユリの大きな瞳から、きらきらと光る一筋の涙が流れ落ちた。アルフレッドの視線は、宝石のような涙のしずくに注がれた。
「ですが私は、あなたを彼に渡すつもりはない。…前にも申しました通り、私はたとえ神に背く事になろうとも、あなたを離しはしない。」
言いながら、アルフレッドは、火事が起こる前日の晩にラルフと交わした会話を思い出していた。
『アルフレッド。今宵、民衆たちがボードレール家に押し寄せる。お前は、事前にユリアを逃がせ。…安心しろ、ユリアの身代わりになりそうな、金髪の青年を街で行き倒れている連中の中から見つけ、そこの棺の中に運び入れてある。火事で屋敷が消失すれば、遺体の顔の判別などできまい。そうして、ユリ・ボードレールの死を偽造する。…全てが終わったら、ユリアをメリル村まで連れてきてくれないか。』
『御意。…そしてあなたはユリア様を、どうなさるのです?』
『全てが終わったら、彼女を私の花嫁にするつもりだ。』
彼のその一言で、アルフレッドの心は定まった。もうこの人の下にはいられない。これ以上ユリアをラルフの好きなようにはさせられない。この人から、ユリアを遠ざけなければならないと、心に決めたのだった。
「アルフレッド?」
少し思考の中を彷徨っていたアルフレッドの瞳に、天使のように光輝くユリアの姿が写り込む。アルフレッドは、「なんでもありません」と微笑む。真実は自分一人の胸の中に。生涯、彼女に打ち明ける事はないだろう。もしラルフの気持ちを打ち明けてしまえば、ユリアの心を自分に繋ぎとめておく程の自信が、彼にはまだ無かった。ユリアを愛する男性は、自分一人でいい。彼女のこの美しい瞳に映る人間は、自分一人がいい。いまようやく、彼女を長い呪縛から解き放ち、自分一人のものにできる機会が巡ってきたのだ。彼女を手に入れるためなら、悪魔に魂を売り渡す事など、何とも思わない。彼女の心の中に、今もなお残るラルフへの未練―。それは、家族としての愛なのか、親しい友人に向けられた情なのか、はたまた憧れの人への恋心なのか…。それさえも曖昧になるほどに深い情が、彼女の心にしこりとなって、これからも根強く残るかもしれない。しかし、その事さえも包み込んで愛せるという確信が、アルフレッドにはあった。あの日、ラルフの胸元から滑り落ちた手帳に入っていたリリーとユリアの肖像画―。すべては、そこから始まったのだ。ラルフを想うユリ、そして、ラルフに想われているユリだからこそ、どうしても自分のものにしたいという独占欲を掻き立てられたのだった。
「安心しろ、アルフレッド。私はお前から離れるつもりはない。こうなったいま、もはやお前一人が頼りだ。…もっともお前が、私を離しはしないだろうけどな。」
「御意。これから先死ぬまで、ずっとあなたの側から離れません。」
そう言うアルフレッドの瞳の中に、ユリアは情熱の炎を見た。知らなかった。アルフレッドの瞳が、こんなに綺麗だったなんて。彼の氷のような瞳の奥に、こんなにも優しく心の内を照らす炎が宿っていたなんて。世の中に、これほどまでの自分を愛してくれる人が、他にいるだろうか。狂おしいほどに窮屈な独占欲で包み込む人が―。幼い頃、リリーが言っていた。「一緒に地獄に落ちてくれる人を選びなさい」と。なぜ、「一緒に天国に行ってくれる人」ではなく、あえて「地獄」なのか。幼い頃は良く理解できなかったあの言葉の意味が、今は何となく分かる気がする。赤の他人が、自分と一緒に地獄へ落ちてくれるという事がいかに幸福な事か。天国とは幸福な地、平穏な生活を意味する。それに反して地獄とは、不幸な結末を意味し、暗闇の中を苦しんで生きていかねばならないという事だ。アルフレッドは、どんな苦境に立たされようと、間違いなく私と一緒に地獄に落ちてくれるだろう。彼なら、この先どのような苦難な日々が待ち受けていようとも、私から決して離れていくことはない。きっと、死のその瞬間まで、必ず側にいてくれる。ユリアはそう確信し、絶対的な幸福の中、静かに目を閉じた。甲板ではしゃぐライオネルと、彼の悪戯をとがめるシーラの声が遠くから聞こえていた。二人の楽しそうな様子に、ふっと力が抜けたように感じられた。もう大丈夫。私は安心して眠る事ができる。目覚めた時も、そこには幸福が待っていると確信できる。閉じた瞼に、アルフレッドのひんやりとした唇がふわりと触れた。その感触はひどくせつなげで、とても優しいものだった。一同を乗せた船は、晴天を背景に大陸めがけ大海原を航行していた。