28 ひとつの恋がはじまり。ひとつの恋が終わった。
僕は両手のブレスレットを引きちぎった。これで二人にも、僕のいる場所で異常が起きた事が伝わるはずだ。それまでは、何としてでも部長を守らねば。
副部長…泥口は、長く伸びた頭部をくねくねとうねらせながら、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
『ブチョう…オ返事聞かセテくダさイ…デないト、オ腹減ッチャいまス…』
泥口の身体の中で、そこだけがやけにニンゲンらしさを遺している歯が、がちがちと不愉快な音を鳴らす。
「よっ…寄るな化物ぉ…!!」
部長は近くにあった卓上用の小さなイーゼルを投げつけたけれど、泥口は首をひねらせてそれに食らいついた。がりっ。がりがりがりっ。イーゼルはあっという間に噛み砕かれてしまった。破片が床にこぼれ落ちる。
『いひヒひひ…いーぜるモナかなカニ美味しイなァ…』
…こいつ、何でも喰らうんだ…
『…デモ…お肉ハもッと美味シい…肉…肉…肉肉肉肉ニクにく肉ゥ!!』
泥口は自ら発した「肉」という単語に興奮したのか、長く伸びた頭部をぐぃんぐぃんとしならせた。その度に、口から不潔な唾液が飛び散る。
『…蒼木セんぱァイ…好キデす…食ベちゃイタイクライ…好キキキキ』
泥口は、今や僕たちの目の前に迫ってきた。
…何か…あいつの注意をそらせる物ないかなぁ…
気部室の周囲を見渡すと、右側の壁際に掃除用具を入れておくロッカーがあることに気づいた。あの中にはモップとか箒みたいな、武器になりそうな棒状の物くらいはあるだろう。
問題は、どうやってあそこまでたどり着くか…という事。
ここからはおよそ5mくらい。あそこに行くには、目の前に迫る泥口の脇を抜けてゆかねばならないけれど…
…よぅし…
僕は決意を決めた。
「部長…」
「な…何だい?」
「…あそこのロッカーにはモップくらいはるはずです。僕がこいつの注意をそらしますから、部長はモップを取ってきてください!武器になります」
「…だけど…君は…」
「いいから早くっ!!」
「わっ、分かったっ!」
部長は頷いてくれた。オーケイ。じゃあ、いっちょやったりますか。
「いっせぇーのっ…うりゃぁぁぁぁぁぁ…!」
僕は獣の様な咆哮を挙げて泥口に突進していった。腰を落とした低い姿勢でタックル!
そのまま奴の胴体にしがみつく。
泥口の身体は、まだ女の子らしい柔らかさはあったけれど…冷たい。まるで死体をハグしている様な心境だ。それと…とにかく生臭い。
僕にしがみつかれて、泥口はじたばたと暴れた。僕に喰らいつこうとするけれど、中途半端な頭部の長さのせいで、ここまで内側に接近されると逆に口が届かないのだ。
ちょうど、いくら腕を曲げても上膊部…二の腕の内側は触れない様なものだ。
部長はその間にロッカーを開けてモップを取り出していた。…いいぞ!
「部長!そのまま、そのモップをこちらに投げてください!」
「…いや…しかし君が…」
「こいつの狙いは部長、あなたなんです!近くに寄っちゃだめです!」
「だけど…」
「部長はそれを投げたら、そのまま外に逃げてください!」
「じきに文ちゃん先輩と鮎子先生がきてくれます!だからはやく!」
僕は必死に訴えたけど、部長はまだ躊躇している様だった。
『志賀くン…君、ウルさイ…』
泥口は噛みつこうとするのを諦めたのか、今度は両腕で僕を殴ってきた。
まだ成長過程の泥口には腕が残っている。いずれこの腕も退化するかどうかして無くなってしまうのだろうけれど。
奴の拳が何度も僕の背中を叩く。でも元々が女の子のせいなのか、予想外に非力だ。
僕はしがみつく力をいっそう強めた。プロレス技のベアハッグをかけている様な物だ。
「志賀君!待っていろ!」
部長がモップの柄の部分で泥口に殴り掛かる。
柄は何度か奴の頭部にヒットしたけれど、あまりダメージを受けた様子はない。
部長はなおも殴り掛かっていたけれど、何度目かの打撃は、ついに奴の口で受け止めてられてしまった。
がりっ!と音を立てて、モップは無残に噛み砕かれてしまった。
泥口は、今度は僕の方に意識を向けたみたいだ。
いくら殴っても効果がないことに気づいた泥口は、僕をしがみつかせたまま飛び上がって腹部から床にダイヴした。
泥口の下敷きにされたまま、僕は床に叩きつけられた。
「ぐあぁ!?」
背中に激痛が走る。
『…あノ時、屋上で志賀君ガアたシニ掛ケた技ノ応用だヨ…』
…このやろう。こんなナリしてけっこう知恵が回りやがる。
「このぉ…志賀君を放せっ!!」
部長が泥口に殴り掛かったけれど、泥口は長い頭部をスイングさせて彼を弾き飛ばした。
部長の身体は、部室の壁に叩きつけられた。どうやら気を失ってしまったらしい。
腕よりも、頭部の方がずっとパワーあるのか…すっかりニンゲンやめてるなあ…
泥口は僕に覆いかぶさっている。
首が長い分、胴体は僕の下半身の方にある。足も届かないこの態勢では、文ちゃん先輩の時と違って必殺技の「かにばさみ」も掛けられない。
泥口の大きな口が迫ってくる。
…万策尽きちゃったか…
『ひとりで無茶はしないでくださいね…?』
ふと、文ちゃん先輩の声が頭の中に浮かんだ。
…ごめんなさい。せっかくのお気遣いでしたけど、ちょっと先走っちゃいました…
この状況は、文ちゃん先輩に追いかけられた時とよく似ていた。あの時も、僕は彼女にこうしてのしかかられてたんだっけ。
あの時は、まあ文ちゃん先輩になら殺されてもいいかなんて考えた。…ホレた弱みと言うのか?ああいうのも。…それとも、僕が命に対して淡白過ぎたのか?。いずれにせよ恋愛経験の乏しい僕には分からない。
だけど、今は死にたくなんかない。…ましてや相手は泥口さんだ。こいつに噛みつかれてばらばらに喰いちぎられるか、それとも死んだ後でこんな姿になって、土の中を這いつくばり蠢き続けてゆくのか…どっちの将来設計もゴメンだよそんなの。僕にはもっと楽しいスクールライフを過ごす予定なんだ。
「ちくしょう!放せっ!放せったら!」
僕は暴れた。力の限り抵抗した。
だけど身動きは取れないまま、奴の口が迫ってくる。
泥口は大きく口を開けた。…意外に歯並びがいい。
もうダメだ!と思った瞬間!
ヒュン!と飛んできた棒の様な物が、泥口の口を貫いた。
これは…フェッチ棒!!…文ちゃん先輩!?
フェッチ棒はそのまま泥口の頭部を突き抜けていった。
棒は空中で向きを変えると、また飛んできた方角に飛んでゆく。
『ギャァアァアアアアアァァァァァァァァァァああああぁあァァァァ!!』
口が奇声をあげて悶絶する。僕を押さえつける姿勢が崩れた。よし!
僕は何とか泥口の下から抜け出した。
フェッチ棒は投擲した主の元に戻ると、ゆっくりとその小さな手の中に納まった。
棒は青みがかった緑色の光を放っている。その棒を手ににしているのは…
「文ちゃん先輩!」
漆黒のマントを羽織ったわが愛しの魔女っ子…いや魔導師・文ちゃん先輩だった。
「志賀君。…あれだけ、ひとりで無茶はしないでっていったのに…」
「…えと…すみません。真打の出番まで間が持たなくて…」
「寄席の前座さんのお話はどうでもよろしいのです」
「…ごめんなさい」
「…お怪我はありませんか?」
「大丈夫…だと思います…それよりも、今は」
「…そうですね。キミへのお説教は後の楽しみにしておきます」
…楽しみ、でございますか。
文ちゃん先輩は、悶絶し続ける泥口…副部長をまっすぐに見つめた。
「倉澤さん…色々とごめんなさい。貴方がこんな姿になってしまったのも、元はと言えば私の慢心からです。本当に申し訳ないと思っています…」
でも、と、文ちゃん先輩は一度言葉を区切った。
その瞳に、強い決意が込められている。
ああ、この瞳なんだ。どんな時でもまっすぐに前を見つめるその瞳。
この瞳こそが鬼橋 文。僕が好きになった文ちゃん先輩の象徴なんだ。
「…でも、このまま貴方を放置させるわけにもゆきません…不幸の連鎖は、今、この私が、たった今断ち切ります!」
文ちゃん先輩は何か呪文の様な言葉を呟いた。意味は分からない。聞いた事もない異国の発音みたいだった。
言葉を重ねてゆくうちに、手にしたフェッチ棒が、さっきと同じ様に青みがかった緑色に輝いてゆく。
「…操!」
文ちゃん先輩の掛け声と同時に、その手からフェッチ棒が飛び出した。
一直線に突き進んだフェッチ棒は、泥口の頭部の付け根付近に突き刺さった。
「縛…!」
泥口の動きが止まる。まるで何かに雁字搦めにされたかの様に。
「蝕…!」
フェッチ棒の突き刺さった所から、泥口の全身に無数の青緑色の光の筋が拡がってゆく。
「…滅」
最後の一言は、ほとんど囁く様な声だった。
泥口は両手を広げたまま、大の字になって倒れた。
その身体から、シュウシュウと煙が出ている。
…断末魔の声もなく、泥口は息絶えた。
それが、泥口という化物になってしまった哀れな倉澤由美子・美術部副部長の三度目の、そして今度こそ本当の不帰…最期だった。
彼女は、これで三度目の死を迎えたのだ…
「ふぅ…」
文ちゃん先輩の吐く息が白かった。
部室はすっかり冷え切っていたのだった。
部屋の中央には息絶えた泥口の死骸。
壁には、まだ意識を失ったままの部長が倒れていた。
「…文ちゃん先輩…」
「…志賀君…」
僕たちは見つめ合った。彼女の瞳に、大粒の涙が浮かんでいた
「文ちゃん先輩…泣いてます?」
「え…?」
文ちゃん先輩は、慌てて目を拭った。
「…泣いてますか、私?」
「泣いてます」
「…泣いているんですね、私」
「はい」
「…泣いてますよ。ええ、泣いてます…泣いてますったら!」
もはや涙を拭おうともしない。
「誰のせいで泣いていると思ってるんです!もう、馬鹿馬鹿馬鹿!」
そのまま、文ちゃん先輩は僕の胸に飛び込んできた。
僕は泣きじゃくる文ちゃん先輩の髪を撫でた。
もう一度、二人で倒れている倉澤副部長を見た。もう、ぴくりともしない。
「う…」
どうやら蒼木部長も気がついたらしい。
「大丈夫ですか?部長」
「…え…ああ志賀君か…」
よろよろと立ち上がる部長に、僕は手を貸した。
「…ありがとう…化物…は?」
「死にました」
「そうか…」
部長は、倒れている泥口…倉澤副部長の死骸…いや、遺体の側に寄った。
「…これは…倉澤君…なんだね…?」
「…はい」
「倉澤君…何でこんな姿に…僕の…せいなのか…」
僕は違います、と言いたかったけれど、その言葉は口から出てこなかった。
「…すまない倉澤君…僕は君の気持に応えてあげるのが、こんなにも遅くなってしまったね…本当にすまない…だけど、もう迷わないよ。僕も…君の事が好きだった。そばにいてくれる君が大好きだった…優柔不断な僕を許してくれ…」
蒼木部長は、副部長の手を握りしめた。
「…こんなに冷たくなっちゃったんだね…」
僕たちは、悲嘆にくれる部長の背中を、ただ見ているしかなかった。
僕と文ちゃん先輩は、お互いの気持ちを確認することができたけれど…蒼木部長と倉澤副部長は、その機会を永遠に失ってしまったのだ…
ひとつの恋がはじまり。
ひとつの恋が終わった。
ぴくん…!
…え?
部長の言葉に反応するかの様に、死んだはずの倉澤副部長の指が微かに動いた。
『…嬉しイ…デス…』
倉澤副部長、いや泥口はそう呟いて。
鎌首を上げて、蒼木部長の喉元に喰らいついたのだった。
ほんの一瞬の出来事だった。
泥口は最後の力を使い切ったのか、そのまま、今度は完全に息絶えた。
「部長!?」
僕たちは倒れた彼の元に駆け寄った。
「ひゅー…ひゅー…」
部長の口から血があふれる。声帯を食いちぎられたので声も出せない。口から漏れるのはただ笛の様な音だけだった。
でも。
部長は微笑んでいた。
穏やかな表情で笑っていたのだ。
そのまま、蒼木部長も動かなくなった。
「…あーあ。そこまで自分を責めなくてもいいのに。蒼木くんは真面目なんだから」
いつの間にやってきたのか、僕たちの後ろに鮎子先生が立っていた。
「…おねえちゃん…」
「…鮎子先生!…部長が!」
「分かってるって」
「…蒼木部長は…助かりますよね?…助けてくれるんですよね?」
「うーん…仕方ないなあ。まだ死んだばかりだし、まあ、何とかなるでしょ」
鮎子先生は、倒れている蒼木部長の血塗れの喉元に手を置いた。
あの時と同じ様に、見る間に瑕が塞がってゆく。…やはりカミサマだけの事はある。
「あ、そうだ鮎子先生」
「なぁに?」
「例の…『泥口菌(仮称)』は大丈夫でしょうか…?」
「分かってるよ。倉澤さんの時は、ばらばらの肉体をつなぎ合わせただけだったけど、今度は欠損した部分をゼロから再生してるから、そのナントカ菌が回らないと思うよ」
鮎子先生の口調はどこか面倒臭そうにも聞こえたけれど、今の僕たちには、その声がとても頼もしく思えたのだった。




