23 「この様な結末になってしまった事は、本当に悲しむべき事です」
翌日。1時限目は全学年の授業が中止になって、体育館で全校集会があった。
開設してまだ3年目の新設校で起きた最初の「大事件」という事で、校長や生徒指導の先生方による「事情説明」みたいな物があったけれど、どうやらこの事態は、表向きは「不幸な転落事故」という事になったらしい。おかげで僕の練習場でもある屋上は、当分の間は立入禁止になってしまった。
とはいえ、人の口に戸は立てられないもので、瞬く間に彼女に関する様々な噂が生徒間に広まったのだった。
いわく、『倉澤副部長は最近、恋愛問題で悩んでいたらしい』
いわく、『その相手は3年の蒼木部長で、彼が卒業後にカナダに留学してしまうことを気にしていたらしい』
いわく、『悩みのストレスで過食症になっていたらしい』
いわく、『最近は感情の起伏が激しくて、先日も学校で倒れて翌日も休んだそうだ』
いわく『ここ数日は言動もおかしくなっていて、部室でヒステリー起こして後輩の絵を破り捨ててしまった事もあったそうだ』…ああ、これは僕の事だな。
事を荒立てたくない先生方の思惑をよそに、どうやら生徒の間では、「彼女は恋愛関係で悩んだ挙句に飛び降り自殺してしまった」という事になったみたいだ。
しょせん噂という物はいい加減な物で、およそ時系列も滅茶苦茶、どこまでが本当なのかも定かではないけれど、僕の知らなかった情報もけっこうあった。
へえ…副部長は蒼木部長の事が好きだったのか。
その事が気になったので、昼休みに塚村さんに聞いたら、
「そうだよ。知らなかった?」なんて言われた。
「存じ上げませんでした」
「しがんは鈍い」
「…仕方ないだろ?僕ぁほとんど部室に顔を出さなかったんだから」
「それでも鈍い。女の子の気持ちが分からないゆーれい部員の鈍感やろー」
…うーん。否定はできない。文ちゃん先輩が、何であそこまで副部長の事を気遣っていたのかだって、とうとう分からずじまいだったしなあ…
放課後。
昨日の出来事の影響は、校内のあちらこちらに様々な影響を及ぼしていた。
さっきも触れたけど、まずは屋上への当面立入禁止。これは痛い。僕の貴重な練習場が使えなくなるのは厳しい。…まあ、これは仕方がない事だとも思うけれど。
次に、午後5時以降、生徒が校内に残る事も禁止されてしまった。校門の前には先生方が下校する生徒を逐一チェックするという念の入れ様。
新設校という事もあって、こういった不測の事態への対処という物が、まだきちんと確立されていないのだろう。
対処といえば、部の顧問の太田先生辺りが、また僕に何か言ってくるかもしれないと内心びくびくしていたのだけど、太田先生は今日は学校を休んでいた。…というよりも、副部長の遺体が運び込まれた病院と警察を行ったりきたりして、事後の処理などに追われているらしい。
副部長の最期について、その真相を知っているのは、おそらく僕と鮎子先生くらいだと思う。…いや。もしかしたら、文ちゃん先輩も気づいているかもしれない。
副部長の死については、実の所あまり実感がなかった。僕は案外、冷酷な人間なのかもしれない。
あるいは身の回りで次々と起こる理解を超えた出来事に、神経がマヒしてしまっているのだろうか。
…とはいえ、後ろめたさだってある。
副部長の死の直前に彼女と関わっていたのは僕だったし、事故とはいえ、彼女が転落したのは僕との乱闘がきっかけだったのだし。
あの時、副部長はほとんど理性を失っていた。鮎子先生の言う通り、「もうニンゲンじゃない」状態だった事は間違いなかった。殺されそう…いや、喰われそうになってまで、その相手を気遣えるほど、僕は善人でもない。
フェンスの上で僕を狙っていた副部長を吹き飛ばしたのは、やはり鮎子先生だったそうだ。
僕の怪我や制服の汚れを落とした不思議な力、あの力のパワーを上げて一気に放出すれば、ちょっとした遠隔攻撃にもなるのだそうだ。
先生本人は、あの技を「鮎子さんぱんち。」と名付けているそうだけど…もうちょっとカッコよさそうな名前はなかったのだろうか?
もっともっとパワーを上げれば、山に風穴を開けることもできるとか。というか、以前、実際にやったことがあったそうだけど。
副部長を吹き飛ばしたのは、先生に言わせれば「手を団扇代わりにして、ちょっと扇いだくらい」なのだという。…恐るべし「鮎子さんぱんち。」。
それはそれとして、後ろめたさがあったのも事実だから、僕は先生方が待ち受ける校門を抜けて下校するのにも躊躇していた。
だから、どうせなら下校時間ぎりぎりまでネバって、最後の最後まで教室に居座ってやろうと思ったんだ。
他の生徒たちはほとんどまっすぐ下校してしまったらしい。
まあ、それはそうだろう。あんな事件の後じゃあ、学校に残っているのも、あまり気分のいい物でもなかろうしね。
…すっかり人気のなくなった夕暮れの教室で、僕はこっそりとギターを弾いていた。
ほぼミュート(消音)させて弾いていたのだけれど、途中で巡回の先生の足音が聞こえたので、慌ててロッカーに隠れて身を潜めたりもした。
…さすがにギターはマズいか。読書にしよう。
カバンの中には、タニス=リーの「冬物語」を持ってきてある。彼女の幻想的な作風は昔から好きだったけれど、よもや自分自身がこんな不可解な出来事に巻き込まれてしまうとは思いもよらない事だった。まさにファンタジー小説じみた出来事である。いやいや。これはどちらかと言うとホラー小説の範疇だよな。
下校時間までは…あとちょっとか。この本の後半に収録されている短編の『アヴィリスの妖杯』くらいは読み切れるかなあ。
僕は栞を挟んであるページを開いて、読書に没頭しようと思ったのだけれど。
「…志賀君。やはりキミはまだ残っていたのですね」
その聞き覚えのある声に顔を上げて振り向くと。
教室の入口に、文ちゃん先輩が立っていた。
「…お話があります。ちょっとお時間をいただけますか?」
「あー、でも、そろそろ下校時間ですけど…」
「…大丈夫ですよ。下校時間を設定して先生方に進言したのは私ですし、最終的に校内のチェックをするのも私の役目です。…私が黙っていれば、問題ありません」
逆光になった夕陽のせいで、文ちゃん先輩の表情は分かりにくい。しかし、どことなく、いつもの文ちゃん先輩とは雰囲気が違っているのは感じ取れた。
「…それに、今この校舎内に残っている生徒は、私とキミ…二人きりだという事も確認済ですから、問題はないのです」
問題がない…って、何の…?
『今のキミを狙うとしたら…文ちゃん…かな?』
鮎子先生の言葉が脳裏を掠めた。
「あ…あの、僕、そろそろ帰りますよ。お…お先に失礼しま」
僕の言葉が終わらないうちに、文ちゃん先輩は教室の扉を閉めてしまった。
…あ。ヤバい。
文ちゃん先輩は、自分のメガネを外して、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
よくよく考えれば、文ちゃん先輩の素顔を見るのはこれが初めてだ。
…うーむ。ある程度は予想していたとはいえ、可愛い。
はっきり言ってしまおう。好みである。
小振りな唇も。
さらさらした長い黒髪も。
そして…ただでさえ意志の強そうな瞳に、たとえ異様な気配が宿っていたとしても。
そう。今僕の前に立っている彼女は、いつもとは全く異質な雰囲気を漂わせていた。
彼女の瞳には、いつも凛とした意志が感じられた。常に前を見据えて、どんな事にもまっすぐに立ち向かおうとする「決意」の様な物が見てとれた。
僕が彼女に惹かれるのは、たぶんその瞳に魅力を感じたからなのだと思う。
…ところが、今の彼女は違った。
いや、その瞳に宿る強い意志は、何ら変わらないと思う。
しかしその意志は、目の前の物にまっすぐ立ち向かおうという物ではなく。
…目の前の物を排除しようという、冷徹な意識を含んでいる様に思えた。
文ちゃん先輩は、外したメガネを制服のポケットにしまうと、背中から何か布を出して広げ、それを身にまとった。その間も、ゆっくりと僕に近づいてくる。
それはマントだった。
とんがり帽子こそ被っていなかったけれど、それは間違う事なき、僕があの日、最初に彼女に出会った時にイメージした「魔女っ子スタイル」その物だった。
「…魔女っ子…」
「いいえ、魔女っ子ではありませんよ志賀君。私の家は代々、魔導師の家系です」
そ小さなの口元からこぼれるのは、あくまでも冷静な…いいや、何の感動もない平坦な口調だった。やはり、いつもの文ちゃん先輩ではない。
「魔導師…?」
「魔の領域に導く者。それが魔導師です」
「魔の領域に導く者…?」
「スカボロー・フェア」の歌詞に出てくる、意地悪な質問をする妖精の事を思い出してしまった。でも、僕の前に立ち塞がるのは悪戯な妖精ではなく、冷徹な意志を持った少女だ。
「…お話というのはですね」
僕のすぐ近くにやってきた文ちゃん先輩は、左手を軽く振った。
シャキン!と音を立てて、袖口から何か棒の様な物が飛び出した。
アニメなんかで魔女っ子が使うステッキ…ではなかった。
それは長さ50センチ程度の小さな棒だったけれど、その先端には鋭い刃が付いていた。
反対側の握りの先には、小さな髑髏の意匠が三つ彫られている。
全体としては槍の様な形状だったけど、それにしてはやけに短い。
槍として使うなら、その実用性はあまりなさそうだけど。
「昨夜の事です」
「副部長の…事ですか」
「それもありますが…鮎子おねえちゃんの事で」
「鮎子…先生が、どうかしましたか?」
「…志賀君。キミは鮎子おねえちゃんの事を、どこまで知ったでしょうか?」
「ど…どこまでって…?」
ヤバい。鮎子先生が言ってた通りだ。文ちゃん先輩は、僕が鮎子先生の秘密を知った事を問い詰めてきているのだ。
…どう答えればいいのだろうか?
鮎子先生が言うには、文ちゃん先輩は先生の秘密を守ろうとする一族の出身だそうだ。
あまり正直に答えても、きっとロクな事にはならないだろう。第一、彼女が手にしているあの槍の様な物の存在感が半端ではない。
「…ええっと…」
「申し訳ありません志賀君。私がお尋ねしたのは、あくまで形式的な物です。すでにキミが鮎子おねえちゃん…御主様のご素性を知ってしまった事は、有力な情報筋より確認済でしたから」
…やっぱ、文ちゃん先輩の背後には、そういった組織みたいな物があるのか?
「昨夜、電話で鮎子おねえちゃんご本人から聞いたので、間違いはありません」
…はぁ?
…目が点になった。あの先生、何を考えてんだぁ?
『わたしの秘密…素性を知ったなんて事がばれたら…』
なんて、よく言えたものだ。…自分でカミングアウトしてどーすんだ!?
…楽しんでる。あの人、ぜぇーったいにこの事態を楽しんでるよ?
「キミにお尋ねしたのは単なる確認の為ですから、ご気分を害されたのなら申し訳ありません。その点については謝罪いたします」
文ちゃん先輩はぺこりと頭を下げた。こういう所はあくまでも律儀なのであるけれども。
「で…ではそういう事で。お疲れ様です、僕ぁこれで…」
「お帰りになるのですか」
「あ…はあ。今日はこれからちょっと町内会の寄り合いがありまして」
「誠に恐縮ですが、そのご予定はキャンセルしていただかなくてはなりません。なぜなら」
「な…なぜなら…?」
「なぜならば、今、この場でキミには死んでいただかなければならないからです」
…言っちゃった。言っちゃいましたよ、ついに。
鮎子先生に告げられて以来、予想してはいたけれど、やっぱそう来ちゃいますか。
僕の死刑宣告を告げるその声は、極めて冷静な物だった。
…鮎子先生は、僕は文ちゃん先輩にとって「一番身近な男の子」なのだと言った。
アレって嘘だったのか?
まあ、たしかに鮎子先生は自分の事を嘘つきだ、なんて揶揄してはいたけれど。
およそ現実離れした様なオカルトチックな内容の方は真実で、取るに足らない様ないち高校生の恋愛事情の方で嘘をつくなんて…ホント何考えてるんだあのカミサマ代理は?
…いやいやいや待て待て待て。よく考えてみようじゃないか志賀義治?
塚村さんには「鈍感やろー」と言われたこの僕ではあるけれど、今までのお付き合いの中で、文ちゃん先輩の真面目さはよく分かっているつもりだ。それに…時折見せる可愛らしさも。…自惚れかもしれないけれど、彼女の僕に対する好意的な物を感じた事だって一度や二度ではない…はずだ。あのバターおにぎりの味は忘れていない。
…ようし。
漢、志賀義治。イチかバチか、一世一代の賭けに出てみようじゃないか。
担保は…僕の命。これは格好をつけているんじゃない。失敗すれば、彼女が手にしている剣呑な凶器が、問答無用で僕の胸に突き刺さるかもしれないし。
僕は一度、大きく深呼吸した。
「あ…文ちゃん先輩!」
「はい?何でしょうか志賀君?命乞いならば、他ならぬキミの最期のお言葉です。謹んで拝聴させていただきますけれど」
「あ…あのっ!」
…心臓の鼓動が高鳴ってゆくのが分かる。
「はい?」
「すっ…」
「す、ですか?」
「…あのっ、すっ、好きです鬼橋 文さんっ!僕とお付き合いしてくださいっ!!」
最後の言葉の辺りは、肺の中の空気を全て吐き出す様に叫んだ。ああもう、顔の火照りが抜けてくれない。これだって僕の心が震えてあふれ出した物、なんだ。
そう。これまで女の子にゃからっきし縁のなかった、この僕の一世一代の告白だ。
…文ちゃん先輩はどう出るか。隠そうともしない殺意は…
さすがの文ちゃん先輩も、意表をつかれたのか、その瞳を大きく見開いてこちらを見た。
「…そうでしたか。キミのご好意は本当に嬉しく思いますよ志賀君」
…思いが届いた?
「私も、キミには思う所がかなりありますよ。男の子に対して、こんな気持ちになってしまったのは生まれてはじめてでした。キミの事が気になって、眠れない夜もありました」
「あ…文ちゃん先輩!じゃあ…」
「…ですから、この様な結末になってしまった事は、本当に悲しむべき事です」
…え?
「私も、キミのご好意に応えたい気持ちは大いにあります。…けれど」
「け…けれど…?」
「私が鮎子おねえちゃん…御主様の守護者、『鬼橋 文』として生を受けた以上は、その持って生まれた使命を果たさねばなりません。…私の胸の中に指令が走るのです。『御主様の秘密を知ってしまった者は、潰せ、壊せ、破壊せよ』…と。それが『鬼橋 文』の名を受け継いで生まれた私の使命…私の宿命なのですから」
…またそんな、黒い身体に光が走ってる人みたいな事を…
…交渉決裂。
僕の賭けは物の見事に失敗してしまったのだった。
「ではお覚悟を。志賀君。キミが亡くなった後で、私は最大限の喪に服します」
文ちゃん先輩は、手にした槍っぽい物を構えた。鋭い切っ先が鈍く光る。ヤバい。
「…そんなの…偽善じゃないですか!」
「…偽善、とは?」
「そんな事されたって、当の僕ぁ、ちっとも嬉しくありませんよ!」
「…理解します。私とて決して嬉しくはありません。悲しいだけです」
「…だったら何故!?」
「それが『鬼橋 文』としての宿め…」
「そんなん知りますか!」
「知らない、と言われましても。キミには死んでいただくしか選択肢はありません」
…ああああ。何て融通の利かない人なんだ。この期に及んで腹が立ってきたぞ?
「じ…じゃあ、最期の最後に、ひとつだけ教えてください!」
「お聞きしましょう。何でしょうか?」
「倉澤副部長」
…ぴくん。
今は亡き副部長の名前に、文ちゃん先輩は微かに反応した。
「…倉澤さんが…どうされましたか」
「…前から気になっていたんだ。文ちゃん先輩。あなたはどうして、ああも副部長の前では態度がおかしかったんですか!?」
「そ…それは…」
「…あの時の文ちゃん先輩は、ちっとも文ちゃん先輩らしくなかった。まるで腫れ物に触る様な…何かに怯えている様な感じでした。それが気になって気になって…
その理由を知らなけりゃ、心残りで死んでも死にきれない…」
…咄嗟に出た言葉だけれど、これだって本心だ。
「あ…あの…私は…」
文ちゃん先輩の様子が、目に見えて弱々しい物に変わった。
無機質に思えたその瞳に「感情」が戻っている。
…からり。
槍もどきが手から離れて床に落ちた。ほぼ放心状態である。
副部長の件は、文ちゃん先輩の心によほど深い影を落としているらしい。
「わ…私…まさか…あんな事になるなんて…」
あんなこと…?副部長が発狂して亡くなった事だろうか。
「倉澤さんが襲われたのは…私のせい…」
文ちゃん先輩の肩は、小刻みに震えていた。
え…?泥口が副部長を襲ったのは、文ちゃん先輩のせいだって言うのか?
「ど…どういう事ですか!?」
思わず、文ちゃん先輩の両肩を揺さぶってしまう。
「ごめんなさい…ごめんなさいごめんなさい…」
彼女の瞳に涙があふれた。心の震え。抑えきれない感情の吐露だ。
「…もぅ志賀くん!あれだけ言ったのに、また女の子をいじめちゃダメでしょお?」
突然、教室の扉が開いたかと思うと、白衣をまとったカミサマ代理がそこに立っていた。
…はぁ?
鮎子先生の突然の登場に、僕も文ちゃん先輩も固まってしまった。
「女の子を泣かせちゃう男の子はモテないよ?ダ・メ・だ・ぞ?ぷんぷん!」
…突然現れたかと思えば、何を言い出すのかこの人?カミサマ?は。
…考えてみれば、この蝙蝠女ことカミサマ代理が焚きつけた様なものじゃないか?
「鮎子先生…?」
「おねえちゃん…御主様?」
「もう、文ちゃんも志賀くんも、ケンカなんかしちゃダメだよ?」
「鮎子先生!『秘密がバレたら』なんて言ってて、自分でバラしたでしょ!?」
その結果が刃傷沙汰一歩手前である。教師としてそれはいかがなものか。
「うーんと、だって文ちゃんから直々に聞かれちゃったら、嘘はつけないものねぇ…」
…僕にはいいのか?
「だーってぇ、文ちゃんと10年前に約束してたんだもん。『もう嘘はつかない』って」
…いや、そこで互いの絆の深さを強調されましても、新参の僕はどうせよと。
「…そうでした」
文ちゃん先輩が、床に落ちていた槍もどきを拾った。
「…危うく自分を見失う所でした。そうです。どんな事があっても御主様の秘密を守り抜く。…それが鬼橋 文として生まれた者の宿命…」
文ちゃん先輩は再び槍もどきを構えた。
その瞳は、また無機質な物に戻っている。…むしろ、こっちの状態の方が、ご自分を見失っておられると言ってよろしいのではございませんでしょーか?
…せっかく何とかなりそうだったのになあ…
「あれ?逆効果だった?」
何となく気まずそうな鮎子先生。
「ええ、ええ、そうですよ!どうしてくれるんです!?」
「仕方ないなあ」
鮎子先生はぱちん!と指を鳴らした。すると何もない空間から、得体のしれない物が飛び出してきた!
それは蝙蝠の様な翼を生やした真っ黒な化物だった。悪魔の様な姿だったけど、その顔には目鼻がなく、鋭い牙を生やした口があるだけだ。全体的には翼を生やした鮎子先生みたいな姿をしていたけど、こちらはもっとマッチョで男性的なフォルムをしていた。
化物は迷わずに文ちゃん先輩に襲いかかった。
「御主様!何をなさるのです!?」
そう言いながらも、文ちゃん先輩は槍を身構える。
化物の鋭い爪が文ちゃん先輩に振り下ろされた。それを彼女は槍もどきで撃ち払う。
文ちゃん先輩の脇に隙ができた。そこにすかさず化物の回し蹴りが飛んでくる。
今度は避けきれない。もろに蹴りをくらった文ちゃん先輩は弾き飛ばされて、教室のロッカーに激突した。
「あ…文ちゃん先輩!」
僕は思わず駆け寄ろうとした。
「あのね志賀くん?何をしているの?」
振り向くと、鮎子先生が呆れた様な顔をしてこっちを見ていた。
「いやだって文ちゃん先輩が…」
「ここは一目散に逃げる所でしょ?」
「そうは言っても…」
「大丈夫。殺さないから。いいから逃げなさいって」
ずいぶんと物騒な事を言う養護教諭もいたものだ。
「ほらほら。早くしないとキミ、また狙われちゃうぞ?くすくす」
ど…どうしよう…殺さないと言ったって、あんなマッチョな化物にかかったら、いくら文ちゃん先輩でも無傷というわけにもゆくまいし…
「……」
床に倒れたままの文ちゃん先輩が、何かを呟いた。
すると手から離れて床に転がっていた槍もどきが勝手に浮かび上がった。
シュン!と音を立てたかと思うと、槍もどきは化物の頭に突き刺さる。
化物は声もなく悶絶して、その姿は次第に消えていった。
槍もどきだけが床に落ちる。
「ほら!もたもたしてるから。ナイトガーントくらいじゃ文ちゃんの足止めにもならない」
文ちゃん先輩はふらつきながらも立ち上がった。
よろめきながらも、槍もどきの落ちた場所に歩いてゆく。
…こりゃ、やっぱここは鮎子先生の言う通りにした方がよさそうだ。
「せっ、先生!ここは失礼しますっ!」
僕は慌てて扉に突進した。
「待ちなさい志賀君!」
槍もどきを手にした文ちゃん先輩も、僕を追いかけてくる。
僕は何とか廊下に飛び出した。
人気はない。
西日が差しこんできて、一面は朱く染め上げられていた。
「じゃあねー志賀くん。生きていたら、また紅茶を淹れてあげるねー」
後ろからは、鮎子先生の呑気な声が聞こえていた。
…ろくなフェアウェルじゃない。
「いざとなったら、前に教えてあげた方法使ってみてねー?」
…絶対やんない。




