22 「カミサマと巫女のお話」
地上に舞い降りた鮎子先生は、僕を裏口から明りの消えた保健室に案内した。そして、
「ちょっと待っててね?屋上の痕跡、すぐに消してきちゃうから」
と言って、再び翼をはためかせて飛んでいった。
…何が何だか分からない。
「化物」と化した倉澤先輩。
殺されそうになった僕。
…そして、前にも僕を助けてくれた「蝙蝠女」の正体が…鮎子先生?
その鮎子先生は、ほんの数分で保健室に戻ってきた。
手には僕のギター・ケースを手にしている。
外からは救急車の音や騒ぎを聞きつけた喧騒が聞こえてくる。
「騒がしいなあ」
鮎子先生は保健室のカーテンを閉じて、入口の鍵も掛けてしまった。むろん、明りは消したままだ。
「面倒だから、しばらく隠れてましょ」
僕は鮎子先生を見た。あの蝙蝠の様な翼はもう無くなっていたけど、相変わらず上半身は裸のままだった。
カーテン越しの外灯の明かりで、彼女の細身で美しい肢体のシルエットが浮かび上がる。
…あの」
「何?」
「…服、着てもらえませんか?ちょっと…目のやり場に…」
「え?…ああ、ごめんね。純情だね、キミは。…ちょっと待っててね」
鮎子先生はくすくすと笑いながら、ベッドを囲むカーテンの陰に隠れた。
「…翼を出す時は、わざわざ服を脱がなきゃならないんだもの。ちょっと不便よね」
僕は目を逸らしたままだったけれど、耳に入ってくる微かな衣擦れの音が艶めかしい。
…むしろ余計に想像力が働いてしまう。
服を着た鮎子先生は、僕の所に戻ってきた。
「今度はキミの番ね。…酷い有様ねぇ…くすくす」
言われて僕は、改めて自分の服を見た。
…言われてみれば、これは酷い。
倉澤副部長との格闘で、制服はすっかり絵具塗れだったし、それよりも肩の辺りに、まだ鈍い痛みが残っている。
あ…上履き!副部長が転落した時、僕の上履きを掴んでいたはずだ。
「はい、これでしょ?」
例によって、僕が口にも出さないのに、鮎子先生は僕の上履きを差し出してくれた。
「あ…ありがとうございます。でも、どうして僕が考えてる事が分かるんですか」
「あはは。前にも言ったでしょ?『志賀くんは顔を見れば分かる』って」
「そういうものですか」
「うん。そういうもの。くすくす」
鮎子先生は、僕の肩に手を触れた。その辺りがじんわりとした温かくなってきて、痛みが急速に和らいでゆく。…「気功」って奴なのかな?
「次は制服ね」
鮎子先生は、今度は絵具塗れの制服に手をかざした。…え?
彼女が手をかざした辺りの絵具の汚れが、みるみるうちに消えてゆくではないか?
「先生…これってどういう…」
「ん?証拠隠滅。倉澤さんがあんな事になっちゃって、追いかけた志賀くんの有様がそんな状態だったら、キミが彼女を乱闘の末に突き落とした、なんて事になっちゃうかもよ?」
「…それは…困ります」
「でしょ?」
言いながらも、鮎子先生の作業は続いた。ややあって、僕の制服の汚れは完全に消えた。
「消えましたね」
「うん。大したものでしょ?」
「はあ…でも、どうやって消したんですか?」
「んと…『気功』って奴?」
「嘘だ」
「あはは。バレたか」
「普通は疑います」
「えー、そんな疑い深い子は、もう助けてあげないよ?せっかく、今度はこのギターの汚れも取ってあげようと思ってたのに」
それは困る。
「…ごめんなさい。もう疑いません」
「くす。素直ないい子は大好きよ」
鮎子先生はケースからギターを出すと、先ほどと同じ要領でネックの絵具の跡を消してくれた。…本当に、いったいどういう事なんだろうか…?
「はい。おしまい。これでもう大丈夫」
「あ…ありがとうございます」
僕はギターを受け取って、ケースにしまった。
「…後は何か疑われたら、『追いかけたけど、見当違いの方角を探していた』とか言ってトボけちゃいなさい」
「…そ…そんなんでいいんですか?人が死んだのに?」
「ヘンに正直に言った所で、面倒な事になるだけよ?」
「ま…まあ、それはそうでしょうけど…あ、そうだ!」
「何?」
「上履きも取ってきてくれたという事は、副部長の…死体も先生は見た…んですよね?」
「うん。しっかりと見たよ?その後すぐに人が駆けつけてきたから、すぐに逃げちゃったけどね」
鮎子先生は、まるでちょっと庭の花壇の様子を見てきたよ、なんて感じの口調で言った。
「…驚かないんですね」
「何が?」
「人が…生徒があんな事になって死んだのに」
「うーん。でも、『アレ』はもうニンゲンじゃないしなあ。それは、襲われたキミ自身が一番よく感じたんじゃない?」
「…それはそうですけど…」
人の死を、まるで何事もなかった様に話す鮎子先生だって人間離れしている、よなあ…
「…先生は、いったい何者なんですか?さっきの話だって…」
そうだ。副部長との騒動があったおかげですっかり忘れていたけれど、あの時、鮎子先生は何を言おうとしていたのだろうか。
僕は、鮎子先生をまっすぐに見つめた。
さっき、鮎子先生は何かを決心した様に思えた。
それがどんな内容だろうと、僕は受けとめるつもりでいる。
まっすぐに向かい合おうと思ったんだ。
こういう所は、文ちゃん先輩から受けた影響が大きいと思う。
ましてや、僕は二度も鮎子先生に命を救われた。その鮎子先生の言う事だ。僕は彼女の言葉を受け止めなくてはいけないと思うんだ。
僕の視線に、鮎子先生は大きく息を吐き出して、こう言った。
「…ね?昔話をしようか」
「昔話?」
「そう、昔話。興味がなかったら忘れてくれてもいいよ?」
「どんな話なんです?」
「カミサマと女の子のお話」
鮎子先生は淡々と語りはじめた。
「…昔むかし、はるか何億年も昔。この地球と言う星に、どこからか一人のカミサマが降り立ったの。カミサマは地球をとても気に入ってね、自分の住みやすい様にセカイを作り変えた。空気を作り、海を作り。ほんのちょっぴりだけ陸地も作った。一通りの仕事を終えたカミサマは、やることがなくなって、自らが作った海の底の神殿の中で眠ることにしたの。それからカミサマはずっと夢を見続けてる。カミサマの夢はどんどん広がっていって、生命が誕生して進化して…やがて夢の中で生まれた生命体たちは、いつしか文明を、そして文化を持つ様になった」
「…ずいぶんとスケールの大きな夢物語ですね」
「そう?じゃあ、今度はもっとずっとスケールの小さな話ね。ある時、一人の女の子がそのカミサマの声を聞いた。巫女だった女の子は、カミサマの呼び声に導かれて、遠い遠い海の果てに出かけていった。でも彼女の乗った船は時化に遭って、深い深い海の底に沈んでしまったの」
「…その女の子は…死んじゃったんですか?」
「死んだよ。死んじゃった。彼女の亡骸はそのまま深淵へと沈んでいって…やがて深い深い海の底にある、カミサマの眠る神殿にたどり着いた。カミサマは驚いたみたい。だって、自分の夢の中の住人が、まさかここにやってくるとは思わなかったもの。自分の寝床に落ちてきた女の子の亡骸に、だからカミサマは話しかけたの。
『娘よ、お前はなぜこんな所にやってきたのだ?』
娘は死んでいたけど、カミサマの問いかけにはきちんと応えなくてはいけなかったから、心の声でこう答えたの。
『わたしは巫女です。巫女はカミサマの呼び声に応えなくてはいけません。わたしをここに呼んだのはカミサマではないですか。でもわたしは死んでしまいました』。
『それはかわいそうな事をした。お前はもう死んでしまった。ニンゲンではなくなってしまったではないか』
女の子は言ったよ。『カミサマ、わたしはどうすればよいのでしょう?』
泣きそうな女の子に、カミサマはこう言った。
『ならば娘よ。お前に私の力を貸してあげようではないか。お前はこれから私の目となって、この夢の中のセカイを見続けなさい。私の耳となって、ニンゲンたちの紡ぐ物語を聞き続けなさい。私の心はお前の心。私が夢見るセカイは、お前が夢見るセカイ。私が本当に目覚めるその日まで、この夢のセカイを見届けなさい』
…だからその女の子は、今でもどこかで、このセカイの移り変わりを見続けているの」
全ての物語を語り終えた鮎子先生の瞳は、どこか遠い所を見つめいてた。
「…不思議な物語ですね。じゃあ、僕らがいるこの世界って、結局はそのカミサマが見ている夢の中の事でしかないっていう事ですか」
「そう」
「…そのカミサマって、何て名前なんです?」
「ニンゲンの言葉では正しく発音できないよ」
「『呼び声』に応えたという巫女さんは…?」
「ん?」
「…その『呼び声』を聞いた巫女さんって、どんな人だったんですか…?」
「彼女は、信州下諏訪に古くからある、小さな小さな神社の宮司の娘だったの。諏訪湖の高島城跡を見下ろせる丘の中腹にあったお社でね…名前は剣城神社って言ったの」
え…それって…
「つるぎ…神社…剣城…鮎子…!?」
「そう。…その巫女の名前は『鮎子』って言ったんだよ」
「…って事は、まさか先生がその巫女…?!」
「くすくす」
あまりにもスケールが大きくて、しかも荒唐無稽な話だった。
にわかには信じがたい。信じがたいけれど、ついさっき、鮎子先生は嘘つきじゃないなんて言ったばかりだったし、今でもそう思っている。
もちろん、この話が鮎子先生の誇大な妄想に過ぎないという可能性だってあるけれど。
…これはただのオカルト話なのか。それとも鮎子先生の言った事は事実なのか。
僕は混乱した。
「…志賀くんって、女の子の気持ちなんかにはてんで疎いのに、まさかと思える様な事を知ってたりもして、そういう所には油断できないし、興味もわいたんだよ?くすくす」
そういう鮎子先生は、心底楽しそうにも見えた。
「…キミも、『こっち側』に近い存在なのかな?ニンゲンのセカイの中では」
「…僕は、オカルトの類は信じない事にしてます」
「ああ、そうだったね。くすくす。キミたちが『泥口』って呼ぶ、あんな化物を見ちゃった後でもそう言えるんだから大した物だと思うよ?くすくす」
…何だか馬鹿にされている様な気もする。ちょっと腹が立ってきた。
「だから、もちろん僕がそんな話を信じないという事もご理解していただけますよね?」
「うん。だって最初から、『興味がなかったら忘れてくれてもいいよ』って言ったもの」
鮎子先生はあはは、と心底おかしそうに笑った。
「じゃあ、この後、秘密を知ってしまった僕をどうしますか?殺しちゃうんですか?」
…これは冗談のつもりだった。いくら何でも、まさかそんな事はないだろうと、タカをくっていたのだけれど、
「うーん…わたし自身は秘密だなんて思ってないし、ばれても構わないと思ってるんだけどね…色々とあるのよ、『こっちのセカイ』も」
鮎子先生ははぁ、とため息をついた。マジかい。
「…まさか『鮎子先生秘密教団』なんてのがあるとか?」
一応、カミサマなんだから、そんなのがあってもいいとは思う…我ながら単純なネーミングだとは思うけれど。しかし鮎子先生は苦笑して、
「そんなのは別にないよぉ。今のキミを狙うとしたら…文ちゃん…かな?」
……は?
何で文ちゃん先輩の名前が出てくるんだ?
「…どういう事です?」
「文ちゃんの家、鬼橋家は和歌山の旧家なんだけどね、あそこの家の者とはちょっとした縁があって、半世紀くらい前から、代々わたしに仕えてくれてるんだ」
…なるほど。あの時文ちゃん先輩が言ってたのは、そういう事だったのか。
『鬼橋の家は代々、おねえちゃんの側にいますから…』
その前に鮎子先生も言ってたっけ。
『文ちゃんの一族を昔から知ってただけ』
二人とも、最初から嘘は言ってなかったんだ。
それに、僕自身も言った覚えがある。
『それじゃあ、まるで鮎子先生が物凄いおばあちゃんみたいじゃないですか』って。
…まさかあの軽口が、実は思いっきり的を得ていたなんてね…
改めて鮎子先生の顔を見る。どう見てもお若い美人さんだ。本当にそんなに高齢なのか?
半世紀も前から文ちゃん先輩の一族を知っていたとなると…最低でも5~60歳は越えているんだろうなあ…あるいはもっと上なのか…
改めて鮎子先生を見る。
うん…肉感的な唇も、お肌の艶も、どう見ても20代前半です、はい。
「あー、志賀くん、今わたしの事をおばあちゃんだなんて思ったでしょお?」
気がつくと鮎子先生の綺麗な顔が目の前にあった。鋭い。さすがはカミサマ。
「くすくす。まあその通りなんだけどね、わたしはもう76歳だもの。戸籍上は」
明治生まれでしたか。…何とまあピチピチな高齢者ですこと。
「は…はあ、恐れ入ります。で、文ちゃん先輩が何で僕を狙うんですか?」
そうだ。当面の問題としては、そこが知りたい。
「『鬼橋 文』という名前はね、鬼橋一族の中でわたしを守護するために生まれてくる運命を持った少女が受け継ぐ名前なの。あの子はその4代目」
4代目…?
「そう。代々の『文ちゃん』の中でも、あの子は特に頑固でね…もしあの子に、キミがわたしの秘密…素性を知ったなんて事がばれたら…」
「どうなるんです…?」
「キミの言った『秘密教団』みたいな役割を果たそうとするでしょうね、くすくす」
「口封じって事ですか…」
…そりゃあないぞ?僕ぁよりによって、文ちゃん先輩から命を狙われる事になるのか?
あの真面目な文ちゃん先輩の事だから、一度決めたら間違いなくそうするだろう。
「あ、そうそう。『鬼橋 文』という名前を継いだ子はね、代々強力な魔導師でもあるよ。攻撃魔法、呪術・占星催眠操心何でもござれのオールマイティー。マジック・エリート」
「…いやだから僕はオカルトの類は…」
「まあ、そう思うのならそれもいいけど、用心だけはした方がいいのはたしかね」
…敵は文ちゃん先輩、ですか。
…どうも、僕はこの二人と知り合ってから、信条に反してオカルトめいた事にやたらと縁ができてしまったみたいだ。
「口封じ…そんなのはゴメンです」
「それはそうよね、くすくす。キミだって、黙っておとなしく殺されたくはないでしょ?」
「もちろんですよ!」
「じゃあ、こういう手もあるんだけど?」
「…は?」
「『口封じ』には『口封じ』…ってね?」
「は…はあ…どういう事ですか?」
「それはね…?」
鮎子先生の肉感的な唇が、僕の耳元で囁いた。
「…………」
…え?…えええ??
い…いやいやいや。違う違う違う違いますよ?それは無理、無理ですよセンセイ?
それはいくら何でも難易度が高いというか無理ゲーというかカミカゼ特攻隊というか…とにかく一介のコウコウセイにゃそれはちょっと無理ですってば?
ましてや相手はあの文ちゃん先輩だ。…そんな事したら殺される、間違いなく死亡率がグン!と上がるのは間違いない。
「火に油注ぐ事になるじゃないですかあ!」
「うーん…そうかなあ。いい手だと思うんだけどなあ」
こ…この人は…
僕たちが保健室でこっそりと、およそ現実離れした物語に興じているうちには、おそらく副部長の遺体を乗せたであろう救急車は学校を出て行った。それでも校内では駆けつけた警察が現場検証の真っ最中だったし、校内に残っていた生徒たちの間には動揺が広まるばかりだった。それを躍起になって鎮めようとする先生方もまた混乱するばかりで、そんな中を、僕たちは人目につかない様に外に出てみた。
校庭でざわめく生徒の中に美術部の仲間を見つけた僕たちは、そこに駆けつけた。
「…どうしたの?何があったの?」
なんていけしゃあしゃあと聞ける鮎子先生は、やはり只者ではない。
「ああ先生!副部長が…倉澤先輩が…!!」
女子たちは泣き崩れていた。鮎子先生がその女子の肩に優しく手を置く。
蒼木部長も、うなだれて押し黙ったままだった。
文ちゃん先輩は…?
僕は彼女の姿を探して、周囲を見渡してみた。
彼女は転落現場の近くで、警察の人と何か話している最中だった。
毅然とした態度で、いつもの彼女らしくて、ヘンな話だけど、ちょっと安心してしまった。
文ちゃん先輩は、一瞬、僕の方を見たけれど、またすぐに警察の人との話に戻った。
目が合った時、文ちゃん先輩は、僕よりも隣にいる鮎子先生の方を見ていた様に思えたのは気のせいだったろうか。
結局、その日は、校内に残っていた生徒は一斉に、強制的に下校させられる事になった。




