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21 狂気の獣は暁に叫ぶ

悲鳴は僕たちのいる屋上のすぐ階下、美術室から聞こえてきた。

それは聞き覚えのある、うちの部の女子の声だった。

僕と鮎子先生は顔を見合わせると、すぐに階段を駆け下りた。

…イヤな予感しかしない。

踊り場を横切り、最後は階段を飛び降りる様に駆け下りた僕たちは、躊躇うことなく美術室のドアを開けた。

部室の中では蒼木部長や室崎くん、塚村さんをはじめとする数名の部員たちが、硬直したまま立ち尽くしていた。

彼らの視線は、等しく一点に向けられていた。

その視線の先には。

…何だアレ…何なんだアレは。

それは、僕はもちろん、さすがの鮎子先生でさえ絶句してしまうほどの異様な光景だった。

赤、青、黄色、茶色、黒、白。橙、緑、ピンク紫空色朱色…色、色、色!!

様々な色が、美術室の床の上に不規則に撒き散らされていて。

その中心には、それらの色合いに(まみ)れた倉澤副部長が座り込んでいた。

副部長の全身は、床に塗れた色合いがごっちゃになっていて、まるで迷彩服でもまとっているかの様だった。

その表情は恍惚としていて、壮絶な色気さえ放っているかの様だった。

…いや、アレは色気じゃない。もはや妖気といった方が相応しいだろう。

彼女は舌舐めずりをして、手にもこびり付いた色をただぺろぺろと舐めている。

そうか。あれは絵具なのか…って、絵具?!

その絵具はどれも油彩用だった。

油絵具は有害物である。あの独特の色彩を出すために、カドミウムやクロム、鉛といった人体に有害な化合物が成分として含まれているのだ。そんな事は幽霊部員に過ぎないこの僕でさえ知っている。

ましてや副部長ともあろう人が、それを知らないわけがない。

何でそんな物騒な物を、この人はああも美味そうに舐めているのか。

「きゃあっ!」

「く…倉澤君、やめろ!やめるんだ!」

部の女子や蒼木部長が必死に制止する声の響く中、副部長はにぃ…と(わら)うと、近くに落ちていた一本の瓶を手にして、一気にラッパ飲みしてしまった。

部室内に、さらなる悲鳴が響く。

副部長は、空になった瓶を無造作に放り投げた。

コロコロ…と転がってきた空の瓶は、僕の近くで止まった。

僕はその瓶のラベルを見て驚愕した。

ラベルには「STRIPPER:ストリッパー」と書いてあった。

ストリッパー。パレットやイーゼルなどにこびり付いた油絵具を落とすのに使う剥離剤。

水溶性の水彩絵具と違い、一度乾燥してしまったら水では洗い落とせない油彩絵具を落とすには、この剥離剤を使う必要がある。

油性の絵具を溶かすために、この剥離剤の成分にはジクロロメタン(塩化メチレン)とかセロソルブ(エチルグリコール)といった、これまた有害な有機溶剤が含まれている。そういえば石油から造られるパラフィンワックスなんてのも含まれているはずだ。

理系でもない僕が、なぜそんな事を知っているかと言うと、これは単純に経験からくる物だった。生まれてはじめて油彩を描いた後、やはりはじめてこの剥離剤を使ったのだけど、何の予備知識も持たなかった僕は、迂闊にも軽い気持ちでこの薬品に素手で触れてしまい、その結果、大事な指先が無惨にも(ただ)れてしまった苦い思い出があったからだ。

…あの時は散々だった。おかげでおよそ2週間も、僕はギターを弾く事もできなかったのだから。

それでも何とかギターを弾こうと手にしたのだけれど、ピッキングする右手の指先も、指板を押さえる左手の指先も、弦にちょっと触れるだけで激痛が走ったものだ。

…そんな事があったので、僕はこの剥離剤に対しては今でも怖れを抱いている。

油彩を描きたくない理由のひとつ。いや、それが最大の理由といってもよかった。

そのストリッパーを、今、副部長は飲み干してしまった。

皮膚に付いただけでも危険な劇薬を、だ。

口内の粘膜は…気管は大丈夫…なのか?

しかし副部長はまた嗤った。

「…あひゃひゃひゃひゃひゃ…ぅいひひひひひひひぃぃ…」

口内に残っていた剥離剤が、口元からだらだらと垂れる。

言葉も出ないで立ち尽くす僕たちを横目に、副部長はさらに絵具を手に取った。

今度はカドミウム満載のバーミリオンだ。

副部長はキャップを開けて…たまたま少し固まっていたのか、なかなか出てこない中身に業を煮やして力任せにチューブを引きちぎってしまい、指で拭い取る様にして絵具を舐めている…とても美味そうに。

それはもはや「ヒト」とは言えない。

そこにいるのは、かつては陽気で気さくで後輩思いの先輩だった事もあるというだけの獣。

「倉澤由美子」と呼ばれた時もあったというだけの、ただの一匹の獣に過ぎなかった。

「…もっと…もっとちょうだぁい…お腹が減ってたまらないの…」

その獣は、ニンゲンの言葉を話してはいた。

しかしそれは本能のみに従い、理性を失いかけている野性の咆哮に近い物だった。

その声は濁っていて発音もよく聞き取れない。やはり、剥離剤のせいで喉が炎症を起こしているのだろうか。

彼女が口を開く度に、口内に残っていた剥離剤が、あたかも(よだれ)のごとく垂れる。

やや赤い色をしているのは、さっき口にしたバーミリオンなのか、それとも出血による物なのか…いずれにせよ、その不潔な涎は、周囲に吐き気を催す様な悪臭を放っていた。

その「獣」は時々ごほごほと(むせ)て、何か色のついた塊を吐き出した。

…「獣」が今までひたすら食べていた食物の残渣(ざんさ)の塊が、絵具で着色された物だった。

…おっちゃんから聞いた、あの掛軸の弥平の話を思い出す。

やはり倉澤副部長も…泥口に「感染」していたのだろうか?

でも、僕の仮設だと、一度死ななくては発症しないはず…

それはあくまでも、素人の僕の発想だけど…

「獣」は鮎子先生の方を向くと奇声を発した。威嚇しているのだろうか。

周囲の部員たちは思わず身構えた。

すると「獣」はもう一度シャア!と吠えると、油絵具と嘔吐物の海に座り込んだ姿勢のままから驚異的な跳躍力を見せた。およそ3m以上はジャンプしただろうか。

「獣」は言葉も出ない僕たちの間を抜けて、開けっ放しだったドアから廊下に飛び出していった。

「ま…待て倉澤君!」

蒼木部長が叫んだ時には、すでに副部長の姿は見えなくなっていた。

「あ…志賀君!彼女を追ってくれ!」

部長は入口付近に立っていた僕に指示した。

「あ…はい!」

答えてから、僕は隣の鮎子先生を見た。

「わたしも一緒に…」

鮎子先生が頷いて言ったその時、どさっ、と何かが倒れる音がした。

見ると、部の女子数名が倒れていた。緊張が解けてしまったのだろうか。

「先生!?」

蒼木部長の声に、鮎子先生は彼女たちの所に駆け寄った。

「志賀くんは彼女を探しなさい!わたしも後からすぐにゆくから!」

倒れた女子の脈を取りながら、鮎子先生が叫ぶ。

「分かりました!」

廊下に出た僕は周囲を見回した。

副部長が去った方角はすぐに分かった。絵具に塗れた靴の跡が、床に残っていたからだ。

副部長は僕たちが駆けつけてきたルートを逆走していったらしい。

…つまりは屋上へ。

そういえば悲鳴を聞いてすぐに飛び出したから、屋上の扉はそのままで開けっ放しになっていたはずだ。

…どういうことだ?

これでは、自ら逃げ場を塞いでしまった様なものだろうに。

そんな事さえ判断できないほど正気を失っているのか、それとも…

僕は足音を立てない様、慎重に階段を一段ずつ登り始めた。

踊り場はなるべく壁側に背をつける様にして、前方の広い視界を確保しつつ、背後からの襲撃にも備えながら進む。

……。

今になって、何か武器になりそうな物でも持ってくればよかったと後悔した。

時すでに遅し。

踊り場をぐるぅりと回り込み、また階段を一段ずつ進む。

…もちろん、どんな音も聞き漏らすまいと、耳にも神経を集中させている。

…じゃらん。

ふと、ギターの音が聞こえた。

…しまった!大事なギターをあそこに置きっ放しにしていたんだ!

何たる不覚。

…そうじゃない。

屋上には、間違いなく「誰か」がいて、僕のギターを鳴らしたんだ。

なぜ鳴らせた?

…決まってるじゃないか。おそらく追手…この僕を挑発するため…だ。

絵具を無頓着に混ぜ合わせた汚い色の足跡は、屋上へと続いている。

僕の位置からでは、屋上の扉の先は死角になっていて見えない。

僕は腰をかがめ、最後はほとんど這う様にして階段を登った。

もちろん、相手は追手が来ることに気づいているだろうけれど、奇襲を受けない様、用心するに越したことはない。

階段を登りきる。周囲には誰の気配もなかった。

神経を集中させながら、扉の外側の様子を窺う。

外の景色はもう薄暗くて、よく見えなかった。

…「逢魔が時」って奴か。

目を凝らしてみると、大事な僕のギターが、少し離れた所の転落防止フェンスに立て掛けられてあった。

ああっ!何という事だ!ネックには無残にも、絵具に塗れた手形が残されている!

無造作に握ったんだな…ちくしょう…!

…こうすれば、逆上した僕が、何にも考えずに飛び出してくると思ったのだろうか?

とっても悔しいけど、そんな手には乗るものかよ。

…そんなあからさまな罠に、みすみす引っ掛かる僕じゃねーぞ?

僕は自分の上履きを片方だけ脱ぐと、扉の外に向かって放り投げてみた。

相手も緊張して待ち構えているのなら、何か動く物に、咄嗟に反応してしまうだろうと思ったのだけど…

ころころころ。何事もなく、上履きは屋上の中央付近に落ちて転がった。

…誰もいないのか?

…いや、そんなはずはない。ギターだって、元の位置とは違った場所に置かれている。

少なくとも、「意志」を持った何者かがいることは間違いない。

薄暗くてよくは分からないけど、足跡は間違いなく扉の外に向かっていた。

恐る恐る、扉の所まで近寄ってみて、外の様子を窺ってみる。

この位置になれば、屋上の周囲に死角はない。

師走の冷たい風が吹き込んでくる。寒い。

目を凝らして屋上の隅から隅まで凝視したけれど、先輩らしき人影は見当たらなかった。

…やはりいないのか?

僕は扉から一歩、外に出てみた。もちろん注意は怠らない。

もう一度周囲を見回してみたけど、どこにも姿は見えなかった。

…まさか、フェンスを飛び越えて飛び降りたのか?それも考えられるけれど…

さっき、美術室で見せた副部長の跳躍力は凄まじい物だった。

あの時彼女は、完全に座り込んだ姿勢から、いきなり数mもの跳躍を見せたのだ。

アレはもはや、ニンゲンの限界を超えているだろう。

僕は上履きが転がった場所まで一気に駆けてゆき、慌てて靴を履き直すと、大事なギターの所に走り寄った。

あーあ。僕の愛するギターは、10フレット付近にべったりと絵具がこびり付いていた。

すっかりサイケデリックなデザインになってしまった…こりゃ、なかなか落ちないぞ。

…だから油彩はキライなんだ。

ギターを手にした僕は、再び扉の近くに戻り、その近くに放置されていたギター・ケースに愛機を収納した。

…それにしても、副部長はどこに消えたんだ?

振り返って、もう一度屋上の周囲を見回したけれど、その姿はどこにもなかった。

…ここじゃないのか?と思ったその瞬間、

シャァァァァァ…

…え?この奇声は…?

気がつくのが一瞬遅れてしまった。

声は…僕の頭上から聞こえていたのだった。

しまった!給水槽の影かっ!?

迂闊だった。

ちょっと考えれば分かりそうな事だった。

だって、ここで鮎子先生と会った2回とも、先生だってあの場所から僕に声を掛けてきてたじゃないか。

あそこまでどうやって登るか、という事さえクリアできれば、あの場所は格好の隠れ場所となる。

僕は給水槽のある場所を見上げた。

…いた!

二度あることは三度あると言うけれど、三度目に僕がここで出会ったのは、鮎子先生とは似ても似つかない「獣」だった。

奴は…副部長だった「獣」は、給水槽の上に四つん這いになって僕を威嚇していた。

その瞳に光は失われ、だらしなく開いた口元からは絵具の混ざった涎を垂らしていた。

背筋に悪寒が走ったのは、吹きつける冷たい空っ風のせいだけではない。

僕は言葉も出なかった。

奴が次の瞬間にどんな行動をとるか、その一挙一動を見逃すまいと思った。

でなければ…殺される。

いいや、おっちゃんから聞いた弥平の話が本当なら。

そして僕の仮説が正しいのなら。

…僕は、喰われる…!!

だから僕は、奴の動きを察知しなければならなかった。

「……」

「獣」が嗤った様な気がした。

次の瞬間、奴は大きくジャンプした。

くそっ!あまりの速さに、目が追い付かない!

僕は一瞬、奴の姿を見失ってしまった。

「しまった!」

そう思った時には、背後に気配を感じた。

その直後、背中に鈍痛を覚えた。

まるでハンマーで金床を打ち付ける様に、容赦のない一撃!

肩甲骨の辺りに、骨が砕けた様な痛みが走る。

「…ぐぁッ!!」

激痛の後に、息もできなくなった。

あまりの衝撃で気管が圧迫されてしまったみたいだ。

僕はよろよろと前にもたれ込んだ。でもここで倒れるわけにもゆかない。

くらくらする頭を何とか振り向かせると、そのすぐ先に「獣」の顔があった。

奴は大きな口を開けて、今にも僕に飛びかかろうとしていた。

喰いつかれたら終わりだ!

僕は咄嗟に奴の胸倉を掴み、自分は腰をかがめて、奴の身体を背中に背負い込む様な姿勢を取った。

あとは突進してくる「獣」の勢いを利用するだけ。

「せいやっ!」

僕は掛け声とともに、「獣」をそのまま、壁の方に向けて投げ捨てた。

…父の強引な勧めではあったけど、町道場で柔道をやっててよかった。

中学卒業と同時にリタイアした身だけれど、僕の体は、まだ型を覚えてくれていたらしい。

やっててよかった伝統武芸。

しかし「獣」は猫の様に俊敏な仕草で宙を舞い、壁にぶつかる瞬間、その壁を蹴ってこちらにまた向かってきた!

三角飛び!?…そんなんアリかぁ…!?

今度は投げの姿勢を取る間もなかった。

「獣」は僕の肩に飛びつくと、そのまま後ろに回り込んで、僕を羽交い絞めにする。

副部長は、女の子とは思えない力で僕を締め上げた。そのまま自分の方に引き寄せてくる。

「ぐふっ!!」

息が詰まる…呼吸ができない…

しかも僕の首筋のすぐ近くには、「獣」の大きく開いた口が迫っている。

…このままではマジで喰われる…!恐怖に駆られた僕は、左の肘で「獣」の腹部を思いっきり肘鉄を喰らわせた!

「ギャア!!」

クリーンヒット!

さすがの「獣」と化した副部長にも、これは効いた様だ。

女の子のお腹を傷つけるなんて、本来ならば最低の行為かもしれないけれど、今はそれ所ではない。

自由の身になった僕は、げほげほと咽る。

対する「獣」も僕から手を放して、よろよろと後退した。そしてげほっ!と咳をすると、口からまた何かを吐き出した。

やったか…?

「…くん…」

……え?

「志賀くん…酷いよ…痛いよぉ…」

「獣」は、いや倉澤副部長は、腹部を手で押さえながら、弱々しい声で呻いて顔を上げた。

その瞳には涙を浮かべている。

あ…正気に戻った…のか?

「せ…先輩、すみません…ちょっと力入れ過ぎちゃって…」

「ふぇ…気持ち悪いよぉ…うぇ…ごほっごほっ」

「あ…あの、大丈夫ですか?鮎子先生、呼んできましょうか?」

さすがにちょっとやり過ぎてしまった。いくらなんでも、相手は女の子だぞ?

僕は苦しんでいる副部長に近寄った。

「…大丈夫じゃない…」

僕は、苦しそうにしている副部長の背中をさすった。

「うう…お腹の中身、みーんな吐いちゃったよぉ…」

副部長の顔が苦痛に歪む。

「吐いちゃって…お腹…すいちゃっタヨ…」

え…?

副部長は僕の右腕を掴んだ。

副部長…いや、「獣」の瞳が再び狂気の色に染まる。

「…オイシソウ…いひひ」

え…え…えええ…?!

「獣」の口が大きく開かれた。

「くそっ!放せっ!放せったら!」

僕は掴まれた腕を引き離そうと力を込めた。でも、「獣」の腕の力はあまりにも強くて、まるで微動だにしない。

ええいっ!それならばっ!

僕は「獣」の腕を、自由になっている左腕も使って両手で掴み返した。

そのまま、自分の身体を軸に回転させる。ちょうどハンマー投げの要領だ。

力はあっても相手は女の子、体重は軽いから、こうすれば体重差のある僕の方が支点になる事ができる。

最初は力任せに抵抗していた「獣」だったけれど、次第に回転のスピードが速まってゆくにつれて、その足元がふらつきはじめた。

傍から見れば、まるで仲のいい男女がふざけてダンスでも踊っている様な、マヌケな構図に見えるかもしれないけれど、残念ながら、僕と目の前のパートナーとの間にあるのは甘い睦事なんかじゃない。

「獣」の足元に隙ができた。…今だっ!

僕は急に腰を落として、「獣」の足を払った。こういう機転も柔道の乱取稽古で覚えた小技だった。

柔道凄い。日本の国技だけの事はある。目指せロサンゼルス。頑張れ斉藤、勝利だ山下。

「獣」はバランスを失って転倒した。やった!…って、あれ?

奴は、それでもまだ僕の腕を放さなかった。

むしろ僕の方までバランスを失って、引きずられる様な態勢になってしまった。

…ふいに身体が軽くなった。

そう思った時には、僕の身体は空中に放り出されていた。

一瞬の事でよく分からなかったけれど、「獣」はどうやら転んだ瞬間に、その馬鹿力で僕を力任せに投げ飛ばしたらしい。

…こ…ここで手を放すかぁ…!?

投げ飛ばされた僕の身体は、転落防止のフェンスを軽々と越えて、外側に飛び出した。

視界いっぱいに、夜空の星々が広がる。

…うわぁぁぁぁぁぁ…!!落ちるっ…?

無我夢中で手をバタつかせたのがよかった。

藁をも掴む思いで伸ばした腕は、ぎりぎりで屋上の縁を掴むことができた。

かなりのスピードで投げ出されただけに、縁を掴んだ時の衝撃も相当なものだった。

おまけに、さっき「獣」の襲撃を受けた時に強打された背中にも激痛が走る。

何とか転落するのだけは避けられたけれど、僕は屋上の縁に宙釣りになってしまった。

…どどど、どうしよう…

下を見下ろせば、すっかり薄暗くなったものの、アスファルトで舗装された駐車場の白いラインがはっきりと見えた。

…いったい何mくらいあるんだろう…落ちたら…やっぱ死ぬよな?

一瞬、階下にベーターカプセルでも落ちてないか?なんて考えたけれど、僕ぁ、光の国から僕らのために、きたぞ我らの光の超人でもないからなあ…

視線を上に向ければ…え?

僕を投げ飛ばした「獣」は、もうすっかり回復していた。

それどころか、すでにフェンスの上に立って、宙釣りの僕を狙っていた!

その大きく開かれた口の中で、焼け爛れた長い舌が淫靡に動いていた。

「…せ…先輩っ!倉澤副部長!?」

ダメもとで、僕は呼びかけてみた。こうすれば、もしかしたらさっきみたいに正気に戻ってくれるかもしれない。

「…?」

「獣」は首を傾げた。僕の声が届いたか?

「肉…オイシソウ…喰イタイ…」

…ダメだ聞いちゃいない。

「獣」は何の躊躇もなくフェンスから飛び下りると、屋上の縁に降りる。

そのまま中腰になって、僕の近くに顔を寄せてきた。

再び大きく開かれた口が、僕の目の前に迫っている。

嘔吐物の物凄い悪臭が鼻をつく。

近い近い近い近い近い…!!

もうダメか…!?

「獣」が僕に喰らいつこうとしたその瞬間。

どん!という衝撃音が聞こえたかと思うと、「獣」の身体も空中に舞った。

…?何が起こったんだ?…吹き飛ばされたみたいにも見えたけど…

「獣」は、ばたばたと泳ぐ様な仕草で宙に浮かんでいた。

その身体が僕の脇を落ちてゆく瞬間、「獣」は僕の左側の靴を掴んだ。

二人分の体重が僕の腕に負担をかける。

…ただでさえ背中が痛いのに、これではあまり持たない。

「獣」は僕の身体をよじ登ろうとしてきた。

僕は足をバタつかせて抵抗する。その動きで靴が脱げた。

靴を掴んでいた「獣」は、そのまま下に転落していった。

どさっという鈍い音。

「獣」の身体は。不自然な姿勢で地面に叩きつけられた。

彼女の身体から、真っ赤な染みが広がってゆく。

それが、「獣」と化した倉澤副部長の最期だった。

…助かった…

安堵できたのもつかの間だった。

激痛で腕に力が入らなくなっていた僕も、縁から手を放してしまった。

落ちる…!!

「ぅぅぅわぁぁぁぁぁぁ…!?」

僕も、さっきの「獣」の様に、宙を泳ぐ様に腕をばたつかせた。

次の瞬間、僕は誰かに抱きしめられていた。…え?

何だか覚えのある、温かくて柔らかで、何だか幸せな気分になれる様な感触があった。

僕を抱きしめてくれていたのは鮎子先生だった。…しかも、上半身裸の。

え…?

慌てて周囲を見回す。

僕の身体は、いまだに空中にあった。

鮎子先生…?何で…?

彼女は僕と目が合うと、くすくすと笑った。

「…間一髪って所、かな?これでキミを助けるのは2回目だね」

「え…2回目…?」

鮎子先生の背中には、蝙蝠の様な大きな翼が羽ばたいていた。

「…こ…蝙蝠女…?」

鮎子先生が…あの夜僕を助けてくれた「蝙蝠女」?

『あーあ。こんなことなら、あの時助けなきゃよかったかなー』

…前に保健室前の廊下で会った時に、鮎子先生が僕に言った言葉。

僕はてっきり、絵の描けない僕にくれたアドバイスの事だと思っていたのだけれど…

「…むー。『蝙蝠女』は酷いなあ」

鮎子先生は、ちょっとむくれていた。

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