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12 朝茶は七里戻っても飲め。

 その夜。

鮎子先生からいただいたアドバイスを、僕なりに一晩じっくりと考えてみたりもした。

先生はこう言ったのだ。

『ギターで表現できるのは、君が今までずっとギターを手にして練習してきたからよ。君は意識しなくても、自然に自分の感情をギターの音に変えて表現できるだけの経験を積んできたの。でも、絵はそんなに描いてこなかったでしょ?まだまだ経験値が足りないし、そういった事が一朝一夕にはできない事は、ギターやってて十分に分かってきているよね?』

…なるほど。自分の好きなギターの事に置き換えてみると分かりやすいな。

で、鮎子先生が言った『逆転の発想』という奴はこういうことだった。

『君はまだ、自分の感情を表現できるほどの絵の経験がないよね?つまり感情を絵という手段でうまくコントロールできてない。だったら…』

だったら?

『だったら、心が震えてにじみ出てくる様な強い感情、コントロールできない様な感情の方を、そっくりそのまま描いちゃえばいいんじゃないかな?技術とか経験とかは一切無視して、ね。…嬉しい、楽しい、悲しい、辛い。怖い恐ろしい。そんな気持ちを思い出して、それを形振り構わず白い紙にぶつけちゃえ!コントロールしようなんて、あえて思わなければいいんじゃない?』

…いやはや。何とまあ、強引な手段ですか。

鮎子先生は、テクニックとか画法なんてのは無視しちゃえと、こう仰っているのだ。

…上手く描こう、いい絵を描こうと思うこと自体が間違っているということか。

考えてみれば、春に軽い気持ちで美術部に入部してみたものの、周囲の真面目な部員たちはみんな、絵に対して真剣に取り組んでいた。

正直、あまり絵に対して思い入れもなかった僕は、あっという間に取り残されてしまっていたんだ。

右を見れば蒼木部長の素晴らしい風景画があった。

左には倉澤副部長の躍動感あふれる人物画。

同級生の室崎くんの描く静物画だって見入ってしまう様な美しさがあったし、他の部員たちの誰もが描く絵には、どれも僕みたいな軽い気持ちじゃ到底太刀打ちできないくらい真剣な「積み重ね」が感じ取れていた。

それが僕にはなかったんだ。

…居心地が悪くなるというのも当たり前じゃないか。

すべては浅はかな自分が招いた、間抜けな結果に過ぎない。

それが僕を「不対電子」にしてしまった原因だ。

しかし部展には僕も出展する義務がある。どうにかして絵を仕上げなくてはならない。

僕は考える。

僕の心が震える様な感情…。

最近思い当たるのは…やっぱ「アレ」、だよなあ…

夢にまで見た、あの大口の化物。

あんな、心の底から恐ろしいと感じたことは他にない。

正直、発狂しなかったのが不思議なくらいだ。

…もしかして、僕ってば意外にタフなのかな?とも考えたけど。

同時に、僕がアレを思い出しておかしくなりかけた時、必死に僕を抱きしめてくれていた文ちゃん先輩のことも思い出してしまった。

…あの時、彼女は何かつぶやいていた。

何て言ったのかは覚えていない・・・というか、その言葉自体が理解できていなかった。

たぶん日本語でもなかったのだろう。何かのおまじないとか?…はは、まさか。

どうしても彼女のファースト・インプレッション、「黒いマントととんがり帽子」という魔女っ子のイメージが尾を引いてしまうんだよなあ。

イメージすればするほど、その恰好がサマになってる様な気がしてしまう。

マントを翻らせて、腕を組んでわははははと高らかに笑う文ちゃん先輩。

夜の校舎屋上で、満月をバックに立っていたりするとなおよろしい。

でも無敵の魔女っ子文ちゃんには、誰にも見せない可愛らしい所もあるんだ。それを知っているのはこの僕だけと言う優越感…優越感?

鮎子先生の言ってた様に、ここ数日で、僕は文ちゃん先輩という存在を大きく意識しはじめているのは間違いなかった。

色々な事が頭の中をぐるぐるよぎっていて、ベッドの中に潜り込んだものの、興奮気味で寝つけやしない。

しばらく悶々としたままでいたけれど、僕はとうとう耐え切れなくなってベッドから這いだした。

音楽でも聴いて気を紛らわそうとも思ったけれど、もう午前1時を回っていて、さすがにオーディオを鳴らすわけにもゆかない。そんな事したらすぐに親父がとんでくる。

ギターもおんなじだ。僕の得意とするのはコード・ストロークよりもアルペジオなので、別にジャカジャカかき鳴らすというわけでもないから、多少は静かなはずだ。でも、鮎子先生も言ってくれた様に、僕はたぶん、感情をギターで表現することはそれなりにできるのだろう。

それだけに、こんな昂ぶった状態でギターを弾いたりしたら、それはそれは情熱的な演奏になってしまうに違いなかった。

そうなれば、やっぱ親父がとんでくる…よなあ。

…本来ならば、こういう時こそ感情の赴くままにギターを弾いてみればいいのだろうけど…こういう時、実家暮らしは厄介だよなあ。

…もっとも一人暮らしだとしても、ご近所迷惑になるのはあんまり変わらないか。

そんな気持ちでいたから、いっそう目が冴えてしまった。

時計を見れば、もう午前2時になろうとしている。

その時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえたりもする。

冬の夜のひんやりした、それでいてやたらと乾燥した空気。

師走初めの夜は、嫌になるくらい永く感じたのだった。

何とか微睡を覚えてきたのは、新聞配達のバイクの音が聞こえてくる様な頃合だった。

まどろみはじめた頭で最後に覚えていたのは、泣き出しそうな文ちゃん先輩の顔。


 目が覚めたのは午前7時頃。いつもより少しだけ遅い時間だった。

洗面所に向かい、鏡に映った己の、見事にクマのできた顔をまじまじと見る。

(ひど)い顔してるなあ、僕ぁ。

顔を洗って茶の間に顔を出す。

ウチには父の趣味で、それなりに大きな長火鉢がある。父は毎朝5時くらいには起きて、この長火鉢に炭をくべ、自慢の南部鉄の鉄瓶でお湯を沸かすのが日課だった。

「…親父、おはよ」

「ん」

竹筒を吹いて火の具合を見ていた父は、僕の情けない顔を見て眠れなかったのか?と聞いてきた。

「うん…あんまり」

「じゃあ、まずお茶でも飲め」

と、父は鉄瓶のお湯を湯冷ましに注ぐ。

これでしばらく温度を下げてから、そのお湯を急須に注ぐのだけれど、それからさらに時間をかけて十分に葉を開かせてから湯呑に注ぐ。

ここまででおよそ3分間以上の時間がある。

父が言うのは「こうしないとお茶の渋みが取れない」のだという。

「お茶は渋い物」だと思うなかれ。父の言葉だけど「お茶は本当は甘味のある物だ」とか。

実際、父が淹れてくれるお茶はほんのりと甘みがあって美味しかった。味が渋くなるのは温度が高過ぎるうちに淹れてしまうからなのだそうな。

父は「それじゃあお茶の美味さは分からない」とも言っていた。

昨日、鮎子先生が淹れてくれたアールグレイも美味しかったけど、父の緑茶もそれに負けてはいないと思う。

お茶にやたらと一家言ある父は、茶葉にもこだわりがあった。

父が好んだのは、高崎市内にある、創業百年を超える老舗のお店の物だった。

子供の頃に父に連れられて、そのお店に行ったことがある。そこではお客さんに必ず一杯、お茶を淹れて振る舞ってくれるのだけど、そのお店で飲んだお茶よりも、家で父が普段淹れてくれる方がずっと美味しくて驚いたことがあった。

それだけこだわりのある父がお茶を淹れてくれるまでの間には、僕はまたウトウトしはじめてしまったけれど。

コト、という小さな音で目が覚めた。

いつの間にか、目の前に愛用の湯呑が置かれていた。

まだぼやけた頭でお茶をいただく。

ややぬるめで、深みのある甘さが口に拡がった。

そのまま喉元に流れ込んでくる風味が心地よかったので、もう1杯を所望させてもらった。

2杯目がお腹を温めてくれた頃には、僕の頭もだいぶすっきりしてきてくれた。

・・・まあ、いろいろ考えても仕方ない。ひとつひとつ、じっくりと立ち向かっていって、片をつけてゆこう。

今はとにかく、試練の時。

鮎子先生の言葉を借りれば、「人の根幹は、自分がそれまでやってきたこと、経験してきたことすべての積み重ねでできている」のだから。

…色々な経験を積み重ねて積み重ねて、いずれは文ちゃん先輩みたいに強くなろう。

僕が今現在、文ちゃん先輩に抱いているのは恋愛感情とかではなく、「憧れ」という物に近いのかもしれなかった。

「憧れは憧れであって憧れ以上の物ではなくしょせんは憧れに過ぎない」というのが僕のシニカルな持論だけど、彼女に対する「憧れ」だけは、憧れで終わらせたくはなかった。

…じゃあそれはやっぱ「憧れ」という物とは違うのか?。まだよく分からない。

掘り炬燵の温もりに浸りながら、まだぽーっとした頭でそんな事を漠然と考えていた僕は、父の「お茶が冷めるぞ」という声で我に返った。

見れば、目の前の湯呑にまたお茶が差してあった。

愛用の備前焼の湯呑の、素焼きに火襷(ひだすき)の跡がやけに目についた。

駆けつけ3杯目だ。

朝の茶一杯、難逃れ。

朝茶は七里戻っても飲め。

お茶の効能をうたった言葉は古くからあるけど、少なくとも、目が覚めたのは間違いない。

 朝食を済ませ、学校へ。

実はコールタールもどきに出くわした後、翌週の月曜の朝以来、僕はあの現場を通るのが怖くなってしまい、ずっと新幹線の側道を避けていた。

一応、通学路の変更届を学校側に提出していたけれど、受理されたかどうかは知らない。

あのコースを迂回した結果、学校までの距離も時間も増えてしまったのが厄介だった。

新幹線の側道を通ればまだ直線に近いのだけど、これを避けるとなると、県道を通って大きく迂回した、半円形みたいなコースになってしまうのだ。

それまでは自転車でおおよそ30分くらいで行けたわが学び舎も、こっちだとそれより15分以上も時間を取られてしまう。おまけにこっちの道はけっこう起伏も激しい。

これはきつい。あんなことがなければ、わざわざこんなコースなんか選ばないのだけど。

とりわけ今日は寝坊したこともあって、校門にたどり着いたのはチャイムが鳴るほんの5分前になってしまったのだった。

ウチの校則では、校門を抜ける時には自転車から降りなくてはならないことになってる。

何でも以前、今日の僕の様に遅刻寸前で慌てていた自転車通学者が、徒歩でやってきた生徒と接触事故を起こして問題になってしまった事があったらしい。

そんなわけで、僕は自転車を押しながら校門を抜けた。

付近には遅刻者をチェックする週番たちに交じって、文ちゃん先輩の姿も見えた。

彼女は自転車を押している僕の姿に気づいたのか、こちらに走ってきた。

「おはよう志賀君。いつも早いキミが、今日は珍しいですね。お休みかと思いました」

そう言いながら、文ちゃん先輩ははぁ、と白い息を吐いた。

心なしか、その口元が笑っている様にも見える。

…僕を気にかけてくれているのかな?そう思ったら昨日の鮎子先生の言葉を思い出してしまい、ちょっと顔が赤くなってしまった。

「い…いえ、たまたま寝坊しちゃいまして…」

「また遅くまでギターを弾いていたのでしょうか。いくら試験が終わったからといっても、夜更かししてまで趣味に没頭するのはどうかと思いますよ?身体を壊してしまいます」

…何でだろう。彼女の口調はあまり変わっていないのに、なぜかその言葉が優しい物に聞こえてしまう。

「あはは。そういうわけでもないんですけどね」

「キミは何かに没頭すると、周りが見えなくなってしまうのが悪癖です」

うーむ。そういう文ちゃん先輩も、けっこうそういう所あると思うけどなあ。

「…志賀君?」

「はい?何でしょう」

「ちょっと(かが)んでくれませんか」

いきなり何を言い出すのだろうと思いつつ、僕がちょっと腰を低くすると、

「・・・思っていることが口に出てしまうのもよくないですよ?」

そう言いながら、文ちゃん先輩は自分の人差し指を、僕の唇に軽く押し当てた。

あ。なるほど。そうしないと手が届かなかったのか。

それでも、まだちょっと爪先立ちになってる。ちっちゃいなあ。

「へ…?今の出てました?また?」

「また、です。気をつけてください」

僕たちは顔を見合わせて笑った。

「…それに、私はまだキミからの『おはよう』もいただいてません」

「あ、いけね。おはようございます、文ちゃん先輩」

僕は慌てて頭を下げた。

「挨拶を受けたら、きちんと返礼するのが礼儀という物です。…あと文ちゃん先輩って、あんまり呼ばないでください」

ここでまた談笑。後半の一言は、もはや彼女の僕に対する条件反射みたいになってきているものなあ。漫才か何かだったら、コンビの定番ネタみたいなやりとりになってしまっている。それはすでにお互いに自覚しているレベルの模様。

他の大多数の生徒は、「鉄血宰相」としての彼女の顔しか知らないのだろう。こうして下級生と屈託ない笑顔で話している彼女の姿を見る周囲の生徒たちの表情は、一様に驚いた様な物になっている。

…ここでもまた「実は意外に気さくな鉄血宰相」なんて伝説ができちゃうんだろうな。

一挙一投足が伝説になる女。

天性のスター性とカリスマを持つ女。それが文ちゃん先輩。

先に退団した、長嶋茂雄・元巨人軍監督みたいなものか。

…野球にゃあまり詳しくないけど。

先の「出来の悪い後輩再教育」に続く彼女の伝説に、自分が関わっているというのは何だか嬉しくなる。

つい先日までは、この「文ちゃん伝説」においては「その他大勢」とか「生徒A」に過ぎなかった僕だけど、誰も知らない…ただし鮎子先生は除く…彼女の素の部分を、今ではとても身近な物に感じてしまう。

と、そこに。

「おはよう志賀君!絵の方は進んでる?」

元気な声がした。倉澤副部長だった。

朝から爽やかな笑顔の倉澤副部長とは対照的に、文ちゃん先輩は。

「……」

まただ。また表情が曇る。

…これは気のせいなんかじゃない。

これでも、もう彼女の表情の微妙な変化くらいは気づいてあげられると思っているんだ。

でも…なぜ?二人の間には何があったんだろう?

「…志賀君?」

返事をしない僕を、怪訝そうに見る倉澤副部長。

「あ…ああ、どうにかテーマも決まりそうですし、今日くらいから本格的に描けると思います」

「期待してるよー?」

副部長は肩にカバンを引っ掛けて、笑いながら手を振って通用口に向かっていた。

その後ろ姿を無言で見送る文ちゃん先輩。

その表情には複雑な感情が見え隠れていた。

怒りとか憎しみとかではなさそうだった。

むしろ…戸惑い?それともあれは…悲しみ…?

きっと今、彼女の心は震えているのだろう。

震えた彼女の心の中からにじみ出ているであろうその感情は一体…?

「文ちゃん先輩?」

「……」

彼女には聞こえていない様だった。

その感情が何なのかまだ分からないけれど、その心は、今ここにはなかった。

「…文ちゃん先輩?」

「あ…ああ、志賀君。もう授業が始まりますね。私はこれで」

文ちゃん先輩は、いつもの様に律儀に一礼して去って行った。

次第に小さくなってゆくその後ろ姿が、いつもよりずっと小柄で儚いものに見えた。

遅ればせながら僕も自転車を押して自転車置き場に向かう。

ふと北側校舎の屋上に目を向けると、そこには白衣姿の鮎子先生の姿があった。

鮎子先生は、何だかため息をついている様にも見えた。

その時予鈴が鳴ったので、僕は自転車を置くと、慌てて自分の教室に向かったのだった。

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