第一話「ハルとミナと50円玉と、そして、ひよごサブレという謎の存在からの通信」
ひよこではありません。
50円玉が、鳴いた。
鳴いた、というのは正確ではないかもしれない。音を出した、というのも違う。しいて言えば、ハルのズボンのポケットの中で、50円玉が——主張した。
「ポケットの中の何かが主張している」とハルは言った。
「財布は持ってるでしょう」とミナは言った。ノートパソコンの画面を見たまま。
「財布じゃない。小銭だ。50円玉だと思う」
「50円玉が何か言ってるの」
「言ってる気がする」
ミナはようやく画面から目を離した。二人が住む小さなアパートの、狭いダイニングテーブルを挟んで、ハルを見た。
「取り出してみれば」
ハルはポケットから50円玉を取り出した。
穴が空いていた。当たり前だが、穴が空いていた。その穴を通して、向こう側の景色が見えた。テーブルの木目が、穴越しに見えた。
「普通の50円玉だ」とハルは言った。
「そうでしょう」
「でも」
「でも?」
ハルは50円玉を光にかざした。穴の縁が、薄く光った。硬貨の表面に刻まれた菊の紋様が、光を受けて浮かび上がった。
「知っている気がする」とハルは言った。「この感触を」
ミナは眼鏡を外した。眼鏡を外す時は、本気で何かを考える時だとハルは知っていた。
「どこかで触ったことがある、ということ?」
「そうじゃなくて」ハルは50円玉を置いた。テーブルの上に、穴を上にして置いた。「この重さを。金属のこの重さを。知っている気がする。すごく昔から」
ミナは50円玉を見た。
「穴が空いてるから」とミナは言った。「中心が空洞なのに、完全な形をしている。そういうものを、昔から人間は大事にしてきた気がする」
「縁起物として、ということ?」
「それだけじゃない」ミナはノートパソコンを閉じた。「50円玉は硬貨だから、金属だから——何かを記憶している、みたいな気がする。誰かがこれを使って何かを買った記憶とか、誰かのポケットの中にあった記憶とか」
ハルは50円玉を見た。
穴の向こうのテーブルの木目を、見た。
「ミナ」
「何」
「この穴、なんで空いてると思う」
「製造コストの削減と、触っただけで他の硬貨と区別できるようにするため、って言われてるけど」
「そうじゃなくて」
「そうじゃなくて、というのは」
「穴が空いていることに、別の意味があると思う」とハルは言った。「真ん中が空洞で、しかし完全な円で、その空洞を通して向こう側が見える——何かを見るための、窓みたいなものじゃないかと思う」
ミナは50円玉を手に取った。
穴越しに、ハルを見た。
小さな穴の向こうに、ハルの顔の一部が切り取られて見えた。
「窓だとしたら」とミナは言った。「何を見るための窓?」
ハルは少し考えた。
「向こう側を」と言った。
「向こう側というのは」
「分からない。でも、向こう側がある気がする。この穴の先に」
ミナは50円玉を置いた。
二人はしばらく、テーブルの上の50円玉を見ていた。
通信が来たのは、その三日後だった。
形式は、普通の小包だった。
差出人の欄に、「H」とだけ書いてあった。住所は博多の、どこかの番地だった。
「誰かから送ってきた?」とミナが言った。
「心当たりがない」とハルは言った。
「開けてみれば」
開けると、中に菓子の箱が入っていた。
ひよごサブレだった。
博多銘菓の、あの、愛らしいひよこの形をしたサブレが、箱に整然と並んでいた。
「なぜひよごサブレ」とミナは言った。
「分からない」
「誰かの誕生日でもないし」
「誕生日でもない」
「九州に知り合いはいる?」
「いない」
二人はひよごサブレの箱を見た。ひよこたちは整然と並んで、二人を見上げていた。愛らしい顔をしていた。しかし何かを——知っているような顔をしていた。
「ひよこ」とハルは言った。
「ひよこ」とミナは言った。
「ひよこが、何かを知っている気がする」
「そう言い出すかと思った」とミナは言った。しかし否定しなかった。
箱の底に、小さな紙が入っていた。
メモ用紙大の、白い紙だった。
そこに一言だけ書いてあった。
几帳面な、しかしどこか古風な字で。
『50円玉の穴から、見てみなさい』
「見てみなさい、と書いてある」とハルは言った。
「見た」とミナは言った。「三日前に」
「また見ろということかもしれない」
「あるいは、ひよごサブレを持ちながら見ろということかもしれない」
「そういう指定はない」
「指定がないということは、自由に解釈していい」
ハルはひよごサブレを一枚取った。ミナも一枚取った。
テーブルに50円玉を置いた。穴を上にして。
二人はひよごサブレをかじりながら、50円玉の穴を覗いた。
向こう側に、テーブルの木目が見えた。
それだけだった。
「何も起きない」とハルは言った。
「何かが起きると思った?」
「思った」
「なぜ」
「あのメモを書いた人間が、ただのいたずらをするとは思えない気がした」
「なぜそう思う?」
「字が」とハルは言った。「あの几帳面な字が、なんか、知っている気がして」
ミナは50円玉を持ち上げた。穴越しに、ハルを見た。
「私も」とミナは言った。「知っている字だと思った」
「どこかで見た?」
「見たことはないはずなのに」とミナは言った。「なぜか知っている。なんか、ずっと昔から見ていた字のような気がして」
ひよごサブレが、二人の手の中にあった。
ひよこたちは何も言わなかった。しかしその愛らしい顔が、何かを知っていた。
「もう一枚食べる?」とハルは言った。
「食べる」とミナは言った。
二枚目のひよごサブレをかじった時、ミナが言った。
「火の夢を見た」
「いつ」
「昨夜。橙と金の火が燃えていて、その前に私が立っていた。一人じゃなかった。誰かと一緒だった」
「誰と」
「見えなかった。でも、知っている人だと思った」
ハルは50円玉を見た。
「俺も同じ夢を見た」と言った。
ミナが顔を上げた。
「同じ夢?」
「橙と金の火が燃えていた。その前に誰かと立っていた。顔が見えなかったけど、知っている人だと思った」
二人は少しの間、黙っていた。
「同じ夢を見ることがある」とミナは言った。「稀に。双子でも夫婦でもない二人が、同じ夢を見ることが、稀にある。そういう研究がある」
「稀に」
「稀に」
「俺たちは双子じゃないし、夫婦でもない」
「そう」
「でも同じ夢を見た」
「そう」
ひよごサブレが、箱の中で静かにしていた。
「ひよごサブレを送ってきた人が」とハルは言った。「夢を送ってきたのかもしれない」
「そんなことができる?」
「分からない。でも、50円玉の穴から見ろ、と書いてきた人間なら、できそうな気がする」
ミナは箱を見た。
ひよこたちの顔を、一匹ずつ見た。
「ひよこ」とミナは言った。「あなたたちは何を知っているの」
ひよこたちは何も答えなかった。
しかしその顔が、やはり何かを知っていた。
返事を書こうと思った。
差出人の住所は博多のどこかだった。手紙を出せば届くかもしれなかった。
しかし何を書けばいいか分からなかった。
「何を書く?」とハルは言った。
「ひよごサブレをありがとうございました、と書く」とミナは言った。
「それだけ?」
「それだけじゃ足りない気がする」
「50円玉の穴から見ました、と書く?」
「見たけど何も起きなかったです、と書く?」
「それは送らない方がいい」
「なぜ」
「何も起きなかったわけじゃないから」とハルは言った。「同じ夢を見た。それが起きたことだ」
ミナは便箋を取り出した。
几帳面な字で、書き始めた。
『ひよごサブレをありがとうございました。50円玉の穴から、見てみました。向こう側に、テーブルの木目が見えました。それから同じ夢を見ました。橙と金の火が燃えていて、その前に誰かと立っていました。顔は見えませんでした。でも、知っている人だと思いました。これが、見るべきものだったのかどうか、分かりません。しかしこれが、起きたことです。』
「それでいい?」とハルは言った。
「もう少し書く」とミナは言った。
『あなたが誰かも分かりません。なぜひよごサブレを送ってきたのかも分かりません。でも、几帳面な字を見た時、知っている気がしました。昔から知っている字のような気がしました。もし何かを伝えようとしているなら、また送ってください。受け取ります。』
「受け取ります、で終わる?」とハルは言った。
「そう」とミナは言った。「受け取る準備はある、ということを伝えたい」
ハルはミナの書いた便箋を読んだ。
「いい」と言った。
「送る」とミナは言った。
封筒に入れた。切手を貼った。
「切手、50円にする?」とミナは言った。
「50円切手があるかどうか」とハルは言った。
引き出しを探すと、50円切手が一枚あった。
「あった」とハルは言った。
「偶然か、必然か」とミナは言った。
「どちらでも」とハルは言った。「貼ればいい」
50円切手を貼った。
封筒を手に持って、二人は少しの間、それを見た。
「ひよごサブレ、まだあるね」とハルは言った。
「まだある」とミナは言った。「もう一枚食べる?」
「食べる」
二人はひよごサブレをもう一枚ずつ取った。
かじった。
さくさくと、軽い音がした。
甘かった。
「美味しい」とハルは言った。
「美味しい」とミナは言った。
窓の外で、夕暮れが広がり始めていた。
橙と金の空だった。
二人は特に何も言わなかった。ただ、その色を見ていた。
知っている色だ、と二人は同時に思った。
口には出さなかった。
出さなくても、分かっていた。
返事は来なかった。
一週間経っても、来なかった。
二週間経っても、来なかった。
しかし三週間目の月曜日の朝、ドアポストに小さな封筒が入っていた。
切手が貼っていなかった。消印もなかった。
差出人の欄は空白だった。
中に、紙が一枚入っていた。
几帳面な、古風な字で、一言だけ書いてあった。
『見えましたね』
それだけだった。
ハルとミナは封筒を覗いた。他には何も入っていなかった。
「見えた、ということが伝わったんだ」とハルは言った。
「向こう側に」とミナは言った。
「向こう側に」
「ひよごサブレをもう一箱送ってくれればよかったのに」とハルは言った。
「それはそう」とミナは言った。
二人は笑った。
封筒を、テーブルの上の50円玉の傍に置いた。
穴の向こうから、封筒が見えた。
几帳面な字が、小さく、穴越しに見えた。
見えましたね、という字が。
それから、ひよごサブレは定期的に届くようになった。
月に一度、博多から。
毎回、箱の底に一枚だけ、メモが入っていた。
几帳面な字で、短い言葉が書いてあった。
二枚目には『川を覚えていますか』と書いてあった。
三枚目には『火は今でも燃えています』と書いてあった。
四枚目には『次の巡りも、二人でいてください』と書いてあった。
五枚目には、何も書いていなかった。
白紙だった。
ハルとミナはその白紙を見た。
「何も書いていない」とハルは言った。
「何も書かなくていい、ということかもしれない」とミナは言った。
「あるいは」
「あるいは」
「俺たちが書く番だということかもしれない」
ミナは白紙を手に取った。
しばらく、その白紙を見ていた。
それから、筆を取った。
几帳面な字で、書いた。
『覚えています。火も、川も、名前は思い出せないけれど、覚えています。次の巡りも、一緒にいます。ここにいます。』
書き終えて、50円玉の穴越しに読んだ。
小さな穴の向こうに、自分の字が見えた。
「送る?」とハルは言った。
「送る」とミナは言った。「受け取ってくれると思うから」
ひよごサブレを一枚取った。
かじった。
さくさくと、軽い音がした。
甘かった。
窓の外に、夕暮れが来ていた。
橙と金の空だった。
二人はその色を、今日もしばらく、黙って見ていた。
ひよごサブレという謎の存在は、今も月に一度、博多から通信を送ってくる。
50円玉は、今もテーブルの上にある。
穴の向こう側は、今日も、向こう側だ。
(了)
ひよごサブレですので、悪しからず…。




