第9話 夜間救急と一枚の薬歴
正式制度の検討は、遅い。
これは世界が変わっても同じらしい。
庶務局は用紙を作る。薬師組合は文言にこだわる。商人組合は費用負担で揉める。冒険者組合は現場説明会の日程を三度変える。
その間にも、患者は来る。
夜半、治療院の鐘が鳴った。
運び込まれたのは、十歳の少年だった。名前はニコ。冒険者ではない。冒険者の父親が持ち帰ったポーションを、風邪薬代わりに飲ませたという。
顔は赤く、呼吸が浅い。手足が震え、意識はぼんやりしている。
付き添いの母親は泣きながら瓶を差し出した。
「これを、ほんの少しだけ。咳がひどくて、夫が『よく効く』と」
瓶には銀の月。
ただし、問題の銀月七番ではない。新しい製造番号がある。添付札も付いている。
私は札を開いた。
成人冒険者向け。小児・妊婦・魔力循環未成熟者には使用不可。
字は小さいが、書いてある。
「ミーナさん、薬歴を」
「はい!」
ミーナが受付から薬歴帳を持って走ってくる。夜勤の目が覚めきっていないのに、手は迷わない。
「ニコくん、前に治療院に来ています。二日前、咳止め。青ラベル。少量」
「その咳止めは」
「眠気あり。呼吸が浅くなることがあります」
ミーナの声が震えた。
万能ポーションだけではない。二日前の咳止めが残っている可能性がある。さらに冒険者向けの強力ポーション。子供の身体には強すぎる。
「追加の鎮静薬は禁止。水分。呼吸を見ます。院長、回復魔法で喉の炎症だけ抑えられますか。全身の魔力循環は刺激しないで」
エリオット院長がすぐにうなずいた。
「できる。ミーナ、薄手の布を。体を冷やす」
前なら、ここで誰かが追加の薬を持ってきていただろう。
咳があるから咳止め。
苦しそうだから鎮静薬。
元気がないから回復ポーション。
善意で、薬を足す。
今日は違った。
薬歴が、足す手を止めた。
◇
ニコの状態は、明け方に落ち着いた。
まだ咳はあるが、呼吸は深くなった。熱も下がり、目を開けて水を飲める。
母親は椅子に座ったまま、何度も頭を下げた。
「すみません。字が、小さくて。夫も私も、よく読まなくて」
添付札には書いてあった。
だが、読まれなければ届かない。
私は札を見つめた。
「こちらの説明不足です」
「そんな、私が」
「薬は、渡しただけでは終わりません。分かるように伝えるところまでが薬です」
大学で教授が使っていた言葉を、少しだけ使わせてもらった。あの頃はきれいごとに聞こえたが、いまは骨身にしみる。
母親は涙を拭いた。
「夫を責めないでください。あの人も、助けたくて」
「責めません。ただ、次からは子供に冒険者用ポーションを使わないでください」
「はい」
その時、処置室の入口にレオンが現れた。
夜明け前だというのに、上着も着ず、髪も乱れている。工房から走ってきたのだろう。
「ニコという子は」
「落ち着きました」
レオンは大きく息を吐いた。
「販売所から連絡が来た。私の添付札の字が小さすぎた」
「はい」
「君に言われる前に言っておく。改善する」
私は少しだけ驚いた。
レオンは苦い顔で続けた。
「成人用。小児・妊婦・魔力循環未成熟者には使用不可。瓶の首に赤い札を付ける。箱にも絵を入れる。読めない者にも分かるようにする」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない。……間に合ってよかった」
彼はニコの眠る寝台を見た。
強力な薬を作った人が、その薬で倒れかけた子供を見る。
必要な場面だった。
責めるためではない。
薬が届いた後の現実を、作る人が見るためだ。
ミーナが薬歴帳を閉じながら言った。
「今日は、薬歴がなかったら危なかったですね」
「そうですね」
「ラベルと添付札も」
「はい」
「院長先生の回復魔法も」
「もちろん」
ミーナは少し考えた。
「一つだけじゃ、助からないんですね」
私はうなずいた。
「薬も、魔法も、記録も、人も。全部つながって、やっと助かります」
ミーナはその言葉を、薬歴帳の端に小さく書いた。
あとで清書させようと思ったが、やめた。
その走り書きは、夜間救急の匂いを残していた。
少し遅れて、ニコの父親が駆け込んできた。
顔面蒼白で、作業着のままだ。おそらく夜通し探し回っていたのだろう。彼は寝台の息子を見て、その場に崩れ落ちた。
「俺が、持って帰ったんです。強い薬だから、家にあれば安心だと思って」
「助けたかったんですね」
私が言うと、父親は両手で顔を覆った。
「俺は字が苦手で。札も、よく見ないで」
「次からは、治療院に持ってきてください。読むのはこちらで手伝います」
父親は何度もうなずいた。
説明文を作る時、読める人だけを想定してはいけない。
字が苦手な人がいる。疲れている人がいる。夜中に慌てている人がいる。薬は、そういう場面で使われる。
安全な薬とは、正しい人だけが正しく使える薬では足りない。
間違えそうな人を、途中で止められる薬でなければならない。
◇
朝になると、冒険者組合からガルネが来た。
事情を聞いた彼女は、すぐに受付用の告知を出すと言った。
「冒険者用ポーションを家族に飲ませるな、か」
「強い言い方ですが、その方が伝わります」
「もっと強くする。『子供に飲ませるな。死ぬぞ』」
「……正確には、死ぬ危険があります」
「その文章じゃ、うちの連中は読まん」
正論だった。
前世でも、患者向け説明文は難しかった。正確さと分かりやすさは、時々喧嘩する。正確すぎる文章は読まれない。分かりやすすぎる文章は誤解を生む。
注意書きは、長くなるほど賢そうに見える。
そして、長くなるほど読まれない。
ここでも同じだ。
「では、こうしましょう。『子供には使わない。使う前に治療院へ』」
「短いな」
「短くします」
ガルネはうなずいた。
「それなら貼れる」
レオンが横から口を挟んだ。
「箱にもその文を入れる」
ガルネがにやりと笑う。
「チート錬金術師様が、ずいぶん素直になったな」
「うるさい。薬で子供を倒しかけた」
「倒しかけたところで止まったのは、進歩だ」
レオンは反論しなかった。
私は薬歴帳に、ニコの記録を書き足した。
原因。対応。再発防止策。
子供には使わない。
使う前に治療院へ。
たった二行。
だが、この二行は次の夜に効くかもしれない。
薬は、飲んだ瞬間だけ効くのではない。
記録された時から、次の誰かにも効き始める。




