第10話 薬事台帳の一行目
王都に、臨時の薬事管理室ができたのは、銀月七番の回収から一ヶ月後だった。
室、と言っても、立派な建物ではない。
王都庶務局の一角に机が二つ。棚が三つ。鍵付きの箱が一つ。壁には飲み合わせ注意表と、製造番号の見本。入口の札には、少し曲がった字で「薬事管理室」と書かれている。
初代の担当者は、庶務局の若い書記リズ。
治療院からは、ミーナが週二回通う。
レオン工房からは、トマが製造記録を届ける。
冒険者組合からは、ガルネが副作用報告をまとめる。
私は、臨時顧問という曖昧な肩書きになった。
「神託の薬剤師を室長に、という案もありましたが」
リズが申し訳なさそうに言った。
「断ってください」
「すでに断りました」
「ありがとうございます」
「理由が『本人が薬棚から離れたがらないため』でよろしかったでしょうか」
「だいたい合っています」
役職より薬棚。
前世の上司が聞いたら、昇進面談の資料をそっと閉じただろう。
室長になると、会議と決裁が増える。必要な仕事だが、今の私がやるべきことは、まだ現場に多い。
薬歴帳は始まったばかり。
ラベルも添付札も、まだ荒い。
飲み合わせ注意表は、毎週のように追記が必要だ。
薬事管理室は、私がいなくても回るようにしたい。
そのためには、私が最初から中心に座りすぎない方がいい。
◇
最初の正式登録薬は、レオン工房の銀月八番だった。
銀月七番の改良版である。
成人冒険者用。強力な外傷回復ポーション。小児・妊婦・魔力循環未成熟者には使用不可。魔力増強薬との併用注意。連続使用は一日一本まで。使用後に高熱、発疹、震えが出た場合は治療院へ。
添付札は大きくなった。
文字の横には絵もある。
子供に使わない、の絵は、ミーナが描いた。小さな子供の横に、瓶と大きなばつ印。
倒れた棒人間よりは上達している。
「マオさん」
ミーナが緊張した顔で、薬事台帳を差し出した。
「一行目、私が書いていいんですか」
「はい」
「字、曲がりますよ」
「読めれば大丈夫です」
「でも、一行目です」
「だから、あなたが書きます」
ミーナは羽ペンを握った。
手が少し震えている。
その手を見て、私は前世の新人薬剤師を思い出した。初めて監査印を押す時、彼女も同じ顔をしていた。
薬剤師の仕事は、手が震えるくらいでいい。
慣れきって怖さを忘れる方が、ずっと危ない。
ミーナはゆっくり書いた。
薬事台帳の項目は、薬品名、製造者、製造番号、用途、用量、注意事項、報告先。
一文字ずつ、声に出しながら。
「銀月八番。レオン工房。製造番号、銀八・春一号。成人冒険者用。外傷回復。小児・妊婦・魔力循環未成熟者には使用不可。併用注意……」
レオンが横で腕を組んでいる。
「私の薬が、ずいぶん窮屈になった」
「安全帯が付いたと思ってください」
「安全帯か」
彼は少し考え、うなずいた。
「悪くない」
ガルネが台帳をのぞき込む。
「これで、問題が出たら追えるんだな」
「はい」
リズが別の帳面を開く。
「販売所一覧も作ります。どこに何本出したか、月ごとに」
「月ごと」
ガルネが顔をしかめた。
「うちの受付が泣くぞ」
「最初だけです」
「その言葉、役所の人間がよく言う」
「否定はしません」
少し笑いが起きた。
薬事管理室の初日は、華々しくはなかった。
机は狭い。帳面は重い。インクはすぐに乾く。レオンの弟子は製造番号を一つ書き間違え、ミーナに直されていた。
だが、それでいい。
制度は、綺麗に始まらない。
紙が曲がり、字が揺れ、誰かが面倒だと言いながら、それでも続く。そのうち、続いていることが当たり前になる。
当たり前になってからが、本当の仕事だ。
◇
夕方、治療院に戻ると、ルカが待っていた。
第1号の薬歴に名前を書かれた、あの若い冒険者だ。顔色はもう良い。隣には、最初の日に泣きそうになっていた仲間の少年もいる。
「マオさん」
「体調は」
「大丈夫です。今日は礼を言いに」
ルカは照れくさそうに、腰袋から一本の瓶を出した。
銀月八番。
新しい添付札付き。
「買ったんですけど、使う前に見せに来ました」
私は少し笑った。
「良い判断です」
「あと、これ」
ルカは紙を出した。
冒険者組合で配られた、薬の確認表だった。
名前、持っている薬、飲んだ時刻、誰に確認したか。
字は汚い。
だが、空欄は少ない。
「ガルネさんに、これを書かないと依頼を受けさせないって言われて」
「厳しいですね」
「厳しいです。でも、前より安心です」
その一言で、胸の奥が少し緩んだ。
安心。
薬事管理が目指すものは、たぶんそこだ。
すごい薬があることではない。
薬を使う前に、誰かが確認してくれること。
間違えた時に、追いかけられること。
倒れた時に、何を飲んだか分かること。
それだけで、人は少し安心して生きられる。
◇
夜、治療院の薬棚の前に立った。
赤、青、紫、緑。
ラベルは増えた。鍵棚も使われている。薬歴帳は三冊目に入った。ミーナの字は、最初より少しだけ読みやすい。
棚の一番下には、使用禁止札を貼った隔離箱がある。中には、古い無記名の瓶が数本残っている。
完全ではない。
まだ危ない薬はある。知らない飲み合わせもある。遠くの村には、ラベルのないポーションが普通に売られているだろう。
それでも、ここから始まった。
薬事台帳の一行目。
薬歴帳の一人目。
飲み合わせ注意表の最初のばつ印。
どれも、世界を一瞬で変えるチートではない。
ただの記録だ。
ただの札だ。
ただの確認だ。
だが前世で、私は知っている。
人は、それで助かる。
「マオさん」
ミーナが入口から顔を出した。
「明日の朝、薬事管理室に行く前に、薬歴の書き方をもう一度見てもらえますか」
「もちろん」
「あと、飲み合わせ注意表に、鎮静薬・眠り薬と酒の絵を描き直したいです」
「今度は倒れた棒人間を可愛くしないでください」
「気をつけます」
ミーナは笑って、薬歴帳を抱え直した。
私は棚の鍵を閉めた。
カチリ、と小さな音がする。
派手な音ではない。
けれど、その音を聞いて、少しだけ前世の調剤室を思い出した。
薬は効く。
だから、間違えると人を殺す。
だから、記録する。
確認する。
止める。
そして必要な時には、きちんと届ける。
万能ポーションは万能ではない。
けれど、万能ではない薬を、少しでも安全に使う仕組みなら作れる。
私は薬棚に手を置いた。
(よし。明日も、薬から人を見る)
治療院の外では、王都の夜が静かに更けていた。
◇
その夜、久しぶりに白い空間を夢に見た。
カウンターの向こうで、ツクヨが分厚い書類を抱えている。とんがり帽子は相変わらず傾いていた。
「進捗確認です。薬事台帳、立ち上がりましたね」
「夢でまで監査ですか」
「監査ではありません。中間報告です」
「似たようなものです」
ツクヨは少し笑った。
「万能ポーション案件、上層部の評価が割れています。『チート錬金術師の足を引っ張った』という派と、『薬害拡大を防いだ』という派で」
「現場としては、後者でお願いします」
「私もそう書きます」
ツクヨは書類に何かを記入した。
「凡人枠は、派手な成果が見えにくいんです。死ななかった人は、数字になりにくい」
「薬剤師も同じです」
「だから、記録してください」
私は夢の中で、少しだけ笑った。
「そのための薬事台帳です」
「死ななかった人にも、名前がありますから」
ツクヨはペンを止めた。
「それは、報告書に書きますか」
「書かなくていいです」
私は首を振った。
「名前は、こちらで預かります」
ルカの名前。
ニコの名前。
銀月七番で倒れた五人の名前。
薬歴帳の上に並んだ文字は、数字より不格好で、表にしにくくて、でも確かに重かった。
前世で最後に見たのは、抗がん剤の投与量確認表だった。
あの時、私は数字を追っていた。
今は、その先にいる人の名前を追っている。
白い空間が薄れていく。
最後に、ツクヨの声が聞こえた。
「では、明日もご安全に」
「はい」
目を覚ますと、朝の薬草の匂いがした。
夜勤明けに消えていった白ではない。
これから仕事が始まる朝の匂いだ。
廊下の向こうから、ミーナの声がする。
「マオさん、薬歴帳、持ちました!」
どこかで瓶が鳴った。
誰かが咳をした。
受付の戸が開き、今日最初の患者の足音が近づいてくる。
薬は効く。
だから、間違えると人を殺す。
けれど、間違える前に気づけることがある。
倒れる前に止められることがある。
渡すだけでなく、届くまで見届けられることがある。
私は白衣ではなく、少し薬草臭い上着の袖をまくった。
万能ではない私が、万能ではない薬と、万能ではない人たちと、今日も棚の前に立つ。
誰かの明日を、一つでも増やすために。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、「万能ポーションで全部解決する世界」で、あえて万能ではない仕事をする話でした。
薬歴を書く。
ラベルを貼る。
飲み合わせを確認する。
製造番号を残す。
危ないと思ったら止める。
届かなかった説明を、届く形に直す。
どれも派手ではありません。
剣も振りません。魔法も撃ちません。チートでもありません。
でも、誰かがそれをやっているから、何も起きずに済む日があります。
倒れなかった人がいます。
明日も普通に朝を迎えられる人がいます。
「死ななかった人」は、物語の中でも、現実でも、なかなか数字になりません。
けれど、その一人ひとりには名前がある。
その名前を守る仕事を書きたいと思って、この話を書きました。
本作は、短編からの連載化ではなく、最初から連載として組み立てた初めての作品です。作成にあたっては、ある方からたくさん助言をいただきました。この場を借りて、改めてお礼申し上げます。
万能ではない人たちが、万能ではない薬を、少しでも安全に届けようとする物語でした。
読んでくださった皆さまの明日が、少しでも安全でありますように。
ありがとうございました。




