第1話 凡人枠、薬棚の前に立つ
死んだのは、夜勤明けの調剤室だった。
四十一歳。病院薬剤師。名前は藤森真央。
最後に触っていたのは、抗がん剤の投与量確認表だった。医師の処方、患者の体表面積、腎機能、前回投与量、副作用歴。眠気で視界がにじむ中、それでも数字だけは追っていた。
間違えれば、人が死ぬ。
それだけは、二十年近く薬剤師をやってきて、身体に染みついていた。
薬剤師の仕事は、薬を袋詰めするだけだという人もいるが、もちろん違う。
実際には、薬が患者に届くまでの最後の関所だ。処方箋の数字を見る。相互作用を見る。腎臓と肝臓を見る。前回の副作用を見る。処方に疑問があれば、疑義照会として医師に電話をかける。嫌な沈黙を浴びながら、それでも確認する。
患者からは見えにくい。
医師からは細かく見える。
看護師からは急いでほしいと言われる。
それでも、確認する。
確認を飛ばした一包は、患者の体内にそのまま入るからだ。
胸が痛んだのは、確認欄にサインを書いた直後だった。ペン先が紙の上で止まる。左腕がしびれる。誰かの声が遠くなる。
(ああ、これ、心臓だ)
冷静だった。
冷静だったのに、救急カートの場所を思い出したところで、視界が白く消えた。
◇
次に目を開けると、真っ白な空間だった。
死後の世界なのか、転職相談室なのか、一瞬分からなかった。
天国にしてはカウンターが安い。地獄にしては整理券がない。
(仕事の世界から、死後も仕事の世界に来たのか)
壁も床も天井もない。あるのは安っぽいカウンターと、その向こうに座る青年だけだ。青年はとんがり帽子をかぶり、星柄のマントを羽織っていた。胸元には「MAGIC」と刺繍されたワッペンがあり、脇には塗装の剥げた杖が立てかけてある。
「先に申し上げますが、この制服は私の趣味ではありません」
「薬局実習の白衣より主張が強いですね」
「初手で職業が出ますね」
青年は疲れた目で会釈した。
「転生窓口の担当、ツクヨです。藤森真央さん。四十一歳。病院薬剤師。死因は急性心筋梗塞。長時間勤務明けの突然死です」
「労災申請は」
「ご遺族がします」
「そうですか」
我ながら、死後最初の確認事項としては色気がない。だが薬剤師は、死亡診断書と労災と処方歴を別の箱に入れられない職業である。
ツクヨは書類をめくった。
「状況を整理します。藤森さんは死亡後、異世界転生の手続きに入っています」
「異世界転生」
「はい。剣と魔法の世界に生まれ直し、希望者にはチートスキルが付く、いわゆるお約束の形式です」
「ライトノベルとか、読まないですか」
「読みません。でも、知識としては知っています。あれでしょう。うだつの上がらない男性が、トラックにはねられて、異世界に行って、努力なしで特殊能力をもらって、美女に囲まれて、楽しく暮らす話」
「偏見がひどい」
「違うんですか」
「違う作品も多いです。あと、今はハーレム展開はコンプライアンスの都合で、だいぶ厳しいです」
「死後の窓口でコンプライアンスを聞くとは思いませんでした」
「こちらも時代に合わせています」
「お約束を窓口で説明されると、急に保険商品の約款みたいですね」
「否定はしません」
「転生先は、剣と魔法のある異世界です。通常はチートスキルをお渡しするのですが」
「予算がないんですね」
ツクヨが固まった。
「なぜ分かるんですか」
「顔です。病院で『人員補充は来年度予算で検討します』と言われる時の事務長と同じ顔をしています」
「……はい。今期、チート付与枠がかなり厳しくて」
ツクヨが杖を振る。空中に文字が浮かぶ。
【読み書き(この世界の言語)】
「標準装備ですね」
「はい」
「実質ゼロですね」
「はい」
素直でよろしい。よろしいが、状況はよくない。
「藤森さんは凡人枠です。特殊能力はありません。ただし前世の知識と経験は保持されます。行き先は王都の治療院です」
「治療院」
「回復魔法とポーションで怪我や病気を治す施設です。ポーションは、薬草や魔力水を調合し、個別に瓶詰めされた飲み薬ですね。ただ、最近どうも、治ったはずの冒険者が倒れ続けています」
「ポーションの成分は分かっていますか」
「不明です」
「投与量は」
「現地感覚です」
「投与間隔は」
「元気になるまで」
「薬の使用記録、つまり誰が何を飲んだかの記録は」
「ありません」
私は額を押さえた。
「薬剤師を呼ぶ案件ですね」
「はい。ようやく話が早い方に当たりました」
「備品は出ますか」
「少しなら」
「秤。乳鉢。乳棒。薬包紙。ラベル。赤と青のインク。記録用の帳面を十冊。できれば鍵付きの棚」
「剣や杖ではなく?」
「薬剤師に剣を持たせると、調剤室のスペースが狭くなります」
ツクヨが微妙な顔でメモを取った。
「あと、白衣は要りません。この世界で悪目立ちしそうなので」
「承知しました。薬剤師さんは、皆さん現実的ですね」
「薬は現実そのものです。効いたか、効かなかったか。多すぎたか、少なすぎたか。間違えたか、間違えなかったか」
「厳しい世界ですね」
「医療の中でも、薬は成功と失敗の責任がはっきり出やすいんです。感謝されにくい。でも、ミスした時は厳しく言われる」
「それでも確認するんですか」
「それでも確認します」
白い空間がにじんだ。
ツクヨが最後に言った。
「一つだけ。あちらでは、ポーションは奇跡に近い扱いです」
「薬を奇跡扱いする現場は危ないですね」
「そう言うと思いました」
視界が白に染まる。
最後に考えたのは、チートなしの不安ではなかった。
(ラベルは防水だと助かる)
異世界転生の直前に願うこととして、あまりにも地味だった。
だが、濡れて読めないラベルほど信用ならないものはない。聖剣より先に防水ラベルである。
◇
目を開けると、薬草の匂いがした。
鼻に刺さる青臭さ。甘い樹液の匂い。焦げた砂糖のような匂い。アルコールに似た刺激臭も混じっている。
王都中央治療院。
そう書かれた看板の下で、私は三十歳前後の身体になって立っていた。腰は軽い。肩も痛くない。だが魔法は使えない。剣も振れない。あるのは、革鞄に入った道具一式と、前世で二十年近く積み上げた薬の知識だけだ。
「あなたが、神託の薬師様ですか」
声をかけてきたのは、十五歳くらいの少女だった。栗色の髪を後ろで束ね、両手に瓶を抱えている。
「薬師様ではありません。薬剤師です。名前はマオでお願いします」
「ミーナです。治療院の見習いです。薬剤師……薬師と違うんですか」
「薬を作る人が薬師なら、薬を安全に使ってもらうために確認する人が薬剤師です」
ミーナは分かったような、分からないような顔をした。
「と、とにかく院長がお待ちです。こちらへ」
案内された治療院は、想像以上に混乱していた。
廊下には怪我人が座り込み、回復魔法の使い手が額に汗を浮かべて呪文を唱えている。壁際には瓶が並んだ棚。赤、青、緑、紫。どれも綺麗な液体で、魔法の光を帯びていた。
問題は、ほとんどの瓶にラベルがなかったことだ。
魔法の薬。
前世の知識が、どこまで使えるかは分からない。使えない知識の方が多いかもしれない。魔力も、薬草も、身体の仕組みも違う可能性がある。
でも、それでいい。
薬だって、最初から全部使えるわけではない。使えるものを探し、使えないものを分ける。
私も、この世界で使える知識を探す。
私は棚の前で足を止めた。
「ミーナさん」
「はい」
「この赤い瓶は何ですか」
「たぶん強化ポーションです」
「たぶん」
「昨日、ベルナさんがここに置いていました」
「では、この青い瓶は」
「魔力回復薬……だと思います」
「思います」
「匂いがそんな感じなので」
私は深呼吸した。
怒鳴ってはいけない。ここは前世の病院ではない。調剤監査システムも、バーコード認証も、電子カルテもない。ないものを怒っても、患者は助からない。
ただし、これは危ない。
「院長先生に会う前に、一つだけ確認します」
「はい」
「この棚で、過去に取り違え事故はありましたか」
ミーナは笑った。
「ありませんよ。みんな慣れていますから」
その瞬間、奥の処置室から叫び声が上がった。
「誰か来てくれ! 冒険者が倒れた!」
ミーナの顔から血の気が引いた。
私は鞄を握り直した。
(——初日からか)
薬棚に背を向け、処置室へ走った。
走りながら、前世の調剤室で聞いた音を思い出していた。
錠剤を数える音。分包機の機械音。疑義照会の電話がつながるまでの呼び出し音。冷蔵庫の警告音。
この治療院には、そのどれもない。
けれど、薬はある。
薬があるなら、事故もある。
そして事故があるなら、薬剤師の仕事もある。
短編からの連載化ではなく、今回は初めて、最初から連載として書き始めています。
本作の作成にあたっては、ある方からいろいろと助言をいただいています。この場を借りてお礼申し上げます。
ここから先は、薬歴帳、ラベル、飲み合わせ、製造番号、回収対応と、地味だけれど命に直結する仕事を一つずつ積み上げていく予定です。派手な魔法はありませんが、薬棚の前から世界を少しずつ変えていく話にしていきます。お付き合いいただければ嬉しいです。




