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序章「道の外から」

 空野真知そらのまちは自転車で遠出をするのが好きだった。特にあてもなく、気の向くままに走り、辿りついた土地を散策するのが好きだった。道に迷うことも珍しくなかったが、帰り道を手探りで探すこともまた楽しみのひとつだった。


 あるとき真知は、散策の途中で発見した場所に、今度は電車で訪れてみようと考えた。地図を参照して経路を確認し、いつもとは違って万全な下調べのもと出発する。


 電車を降り、駅舎を出て、真知はかつて訪れたときと風景がまるで違って見えることに驚いた。前回は曇った夕暮れ時だったが、今日はよく晴れた朝だ。天気や時間帯によっても街はその表情を大きく変える。だが、それだけではない。ここに来るまでの道のりの違いが、同じ風景でも真知に異なった印象を与えているようだった。


 真知は自転車に乗るとき、基本的に大きな道路に沿って走る。だから、見知らぬ街に入るとき、そのイメージは、大きな道に貫かれた地域を横目で眺めるようなものとなる。あくまで主となるのは連続性をもった道の方であり、街は背景に過ぎなかった。


 だが今回、真知は電車を使った。電車による移動には一種の不連続性がある。座っているだけなのに遠い土地に着く。ある朝家のドアを開けたら見たことのない風景が広がっていた、そんな気分だ。だから今日の真知の起点はこの駅となる。どこからかやってきた旅の者としてではなく、この街の内側に暮らす人間の視点で景色を見る。


 駅前は小規模なロータリーとなっており、正面に大通りが、左手に商店街が続いていた。


 真知は商店街に足を踏み入れた。道幅が狭く、車両通行禁止というわけではないのだが、ほとんど歩行者しか通らない。左右には個人経営の小規模な店が並んでいる。開店準備の時間帯であるはずだが、あまり慌ただしい雰囲気はない。寂しげですらある静けさの中を通り抜ける。やがて住宅街が現れ、静寂は一層濃さを増す。白塗りの高い壁の間をどこか穏やかな気分で歩く。更に進むと、騒がしさが遠くから伝わってくるようになり、車通りも少し多くなった、などと思っているうちに国道に出た。今日の目的地だ。


 道が目的地だなんて変わった話だ、と真知は思った。


 数週間前はこの道の上を走った。この道からこの街を見た。今、真知は国道を横から眺めている。自家用車が、二輪車が、大型トラックが、視界の端に現れたかと思えば消えてゆく。


 まるで違う。自転車に乗っていて信号待ちで止まったときと、今こうして立ち止まっているときとでは、街の見え方が違う。


 真知はふと、自分が途端に自由になった気がした。自由とは、立ち止まって道を横から眺めることである、などと頭の中で呟いてみた。それで満足だった。この旅の目的は達せられた。


 真知はそのまま駅に向かい、途中で書店に立ち寄ったものの、何をするということもなく帰路に着いた。


 その晩、夕食の席で真知は一日の自分の行動を話した。父こそ興味を示したものの、母と兄は困ったような顔をした。


 自転車での探索に限らず、真知の趣味は理解されないことが多かった。散歩や旅行をするにしても、必ずしも美しい風景や観光名所を求めるわけではなく、その時々の楽しみ方ができるのならどんな場所でも良かった。中学校時代は「古代っぽいから」という理由で夕暮れ時の給水塔をよく見に行った。昔ながらのポストを探しに隣町まで歩いたこともあった。そんなことを人に話すと、何が楽しいの、と首を傾げられ、年頃の女の子が一人で何をやっているのか、と笑われもした。


 真知は、こうした理解されにくい自分の趣味を「くだらないこと」と呼んだ。くだらないのだ。何の役に立つわけでもない。分かりやすい楽しさがあるわけでもない。文化的に高尚なわけでもない。それでも真知はそういうことが好きだった。愛していたとさえ言っていい。だから、親しみを込めて「くだらないこと」と呼んだ。

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