第一話「乖離」
真知が高校に入学して三週間ほどが経った。
クラスも打ち解け始め、昼食時には真知の机を囲って二、三人の女子生徒が談笑しているのが日常の光景となった。今まで話題といえば中学校時代のことが主だったが、最近では部活動について言及されることが多い。「どの部活に入った?」という質問は真知を困らせた。どこにも入っていない、と答えるのは簡単だが、そうしたら次には「何故?」と続くのが目に見えている。一応理由はある。「くだらないこと」のため、自分の時間は常に十分に確保されているべきだからだ。しかしそれを説明したところで理解してもらえるとは思っていないし、変人と見なされてしまうだろう。真知はこの話題を捌くのに苦労した。
真知は、ろくに見学にも行かず、偏差値と自宅からの近さのみでこの高校を選んだことを後悔しつつあった。
この高校の雰囲気は真知にとって暑苦しかった。部活動に加入するのは当然で、掛け持ちも珍しくない。学校行事には異常ともいえる熱心さで打ち込み、三年生の秋まで文化祭に入れ込む。
部活動で青春の汗を流すのも、文化祭に身を捧げ涙するのも、理解できなくはない。正しくは、良さを想像できなくはない。真知にも、そのような高校時代が一般に素晴らしいものといわれるのは分かる。しかし、部活動に加入しない人間がいても、文化祭にそれほど熱心ではない人間がいても、それはそれで認められるべきだと思っていた。だが、この学校では、そういった冷めた人間はちょっとした異端者扱いなのだ。
五月には最初の行事、球技大会が行われる。先日のホームルームで参加種目の希望調査がとられると、教室は待っていましたと言わんばかりの活気で沸いた。熱狂の中、積極的に参加しない者は排除される。ただの疎外ではない。不道徳の刻印を伴う、最も悪辣な差別だ。真知とて、迫害を受けてまで我が道を往く気はない。周囲に同調して平穏な日々を送ることは重要だ。それに、真知はそういった行事に熱心な興味を示さないだけで、嫌っているわけではない。だから、バレーボールの「朝練」にも真面目とさえいえる態度で参加している。
その日の帰り、真知は昇降口で加原将という男子生徒と遭った。
「マサくん」
真知は彼の姿を見かけるや否や、嬉しそうに駆け寄った。将は真知の中学校時代からの同級生で、読み違えに由来して真知からは「マサくん」と呼ばれていた。
家の位置も近い二人は帰路を共にすることになった。
将は背が高く、無表情で、髪は整えるのが面倒だとでもいうように短く切られており、地味な印象を与える男だった。真知は小柄で、身だしなみには気を遣っている方であり、二人が並ぶと対照的に見える。
真知は将といると落ち着いた。単に付き合いが長いというのもあるが、中学校時代の友人の中でも、将とは特に仲が良かった。
「高校で会うのは何だか久しぶりな気がするな」
将の言うように、高校入学以来二人の接触は少なくなっていた。お互い、新しい環境に適応するのに精一杯だったし、一学年の人数が多い高校では他クラスとの交流が中学校ほど多くなかった。
「部活、入った? 球技大会の種目は?」
真知は敢えて自分からそう訊いてみた。
「ああ。中学と同じ、サッカー部。球技大会もサッカーで出るよ。空野は?」
「部活は入らなかったよ。球技大会はバレー」
「入らなかった? まあ、空野らしいか」
将は「何故?」とは訊かなかった。
「マサくん、この後暇? よかったらどこかお店に入らない? 久しぶりに話したいしさ」
「いいよ。ただ、地元に帰ってからな。噂になっても嫌だ」
変な気を回すようになったな、と真知は思った。昔から二人は、年頃の男女としては異常なほど親密だった。将だって周囲から冷やかされることはあっただろう。だが、そんなことは気にも留めず、いつも一緒に過ごしていたのだ。
二人は電車で住む街に戻り、駅前の喫茶店に入った。
「しかし空野が店に入るって珍しいな。昔はどんなに寒くても立ち話だったのに」
「高校生になってお小遣いが上がったんだよ」
「どう、高校は」
「うん……。皆、いい人みたいだよ。すごいよね。志が高いっていうか、やりたいことをそれぞれ持っている感じ。さすが進学校。その上スポーツとか芸術ができる人も多くて、絵に描いたような完璧超人もいっぱいいる」
「そうだな。俺みたいにギリギリで合格した人間は置いていかれないように必死だよ」
「マサくんは直前になって急に成績が伸びたよね。集中力なら負けないと思うよ」
しばらく二人は高校に入って驚いたことについて語り合った。授業のレベルの高さ、行事への入れ込みよう、極端な自由さ。
「ただ、わたしの高校選択は少し安易だったのかなって思うときもある。偏差値でしか見ていなかったからね」
「ああ、空野は暑苦しいの嫌いそうだな」
「いや、いいんだけどね。でも、何だか皆本分があっち側にあるっていうか。知り合ったばかりの頃、マサくんがわたしに話してくれたことあったでしょ。夕焼けの中に煌めく一番星を見て、本当に皆感動しているのか、皆にとっては友だち関係とか、そういう現実的なことの方が大事なんじゃないかって」
「そんなこと言ったか」
将は照れたように笑った。
「それと同じこと、今わたしも感じているよ。皆、本当に大事なのは、部活、勉強、学校行事、友人関係、あとは恋愛とかなんだよね。もっとどうでもいいことを心から愛している人はあそこにはいないみたいだ」
「空を見上げたり、見知らぬ土地を散歩したり、そういうことな。昔はよくそのへんについて話したっけ。だけどまあ、俺たちも大人になっていくわけだ。義務と責任を背負って何かを成し遂げることの達成感みたいなものも、そろそろ分かってくるんじゃないかな」
「おお……。マサくんはわたしより大人だね」
「偉そうなこと言うだけなら俺でもできるよ」
真知が将と別れ、帰宅すると、父の浩史が一人で待っていた。母の幸子は旧友との外食、兄の真人は恋人とのデートに出かけているという。浩史は普段帰りが遅く、二人での夕食は久しぶりだった。
浩史は分厚い眼鏡を掛け、身体は大きく、太っている。真知は父に冴えない男という印象を抱いていたが、真知の家庭は裕福だ。この広い一軒家。八人乗りのワゴン車。妻と二人の子供。全てを支えているのはこの父だ。浩史のどこにそんな器量があるのか、真知には想像もできなかった。しかし浩史という人物から少なからぬ影響を受けているのは自覚していたし、やはり尊敬していた。
「浮かない顔だな」
浩史は無表情に言った。
「友だちが大人になっていく」
「何が不満だ」
「わたしはまだ大人になれない。言葉が通じなくなっていく気がするよ」
「なろうと思ってなるもんじゃないからな。それに真知は、子どもである現状、気に入っているんだろう?」
「まあね。わたしは今の自分が好きだよ。ただ、現実の問題として、周囲とは向き合わないといけないでしょ? 不満だよ。皆がいい人なのが不満。思慮深くて、気を遣えて、大きな夢を追っていて、一度しか来ない青春を謳歌しているのが不満」
「分かるよ。俺の経験上、青春は陰鬱でドロドロしているもんだ。青春を謳歌しているなんて奴がいたら、そいつは嘘をついている」
「青春が陰鬱? 父さんはどんな悲惨な青春時代を過ごしてきたの」
「別に俺が特別なんじゃない。自分の感覚を誤魔化すかどうかの違いだ。親の俺から見て、真知は誤魔化さない方の人間だと思うが」
「そうかな。確かに、ドラマみたいな青春はちょっと期待できそうにないけど」
「大人になるってのも同じだ。大人になるのは最悪。辛く、苦しい。しかし社会は否応なしにそれを要求してくる。だから、大人になるのが素晴らしい、大人になりたいって思わないとやっていけないのさ」
「ふーん。父さんは大人なの?」
「当たり前だ。五十過ぎて家庭持って子どもなわけあるか」
「どうして辛くて苦しい大人になったの?」
「話したところで、分からんだろう」
「ずるい」
「そう。それが大人のずるいところだな。いずれ分かる、大人になれば分かる、そればっかりだ。俺自身、大人のそういうところ大嫌いだったし、今そう答えるしかなかった自分にも嫌気が差す。大人にならないと分からないことは確かに多い。だが、大人になってからでは思い出せなくなることもあると思う。真知が自分を子どもと思うなら、それはそれで大事にした方がいい」
それでも父は大人なのだな、と真知は思った。
真知は入浴、就寝準備を済ませ、自室のベッドに寝転がると考え事に耽った。
「くだらないこと」をめぐる自分と周囲のずれというのは、今までも感じてこなかったわけではない。将がかつて言ったように、中学校に入った頃からそういった傾向はあった。だが、気にしてこなかった。周りがどう変質しようとも、自分には関係ないと思っていた。それが急に意識され始めたのは、高校という新しい環境の影響か、自分自身も変質しつつあるということなのか。
同類だと思っていた将も明らかに変わった。自分自身や周囲の成長に上手く対応する術を知ったように見える。将ですら大人になろうとしているのだから、こんなところで立ち止まっているのは自分一人かもしれない。
今すぐどうにかしなければならないような切実な悩みではない。しかし、周囲との乖離は少しの寂しさとなって感じ取られた。
午後十時を回ると、真知は翌日の「朝練」に備えて部屋の明かりを消した。




