十九 またな
夢を見ないまま、三月になった。
あれ以来、如月は一度も現れていない。
最初のうちは、眠るたびにどこかで期待していた。
目を開ければ夕暮れの教室にいて、いつものように不機嫌そうな顔をしたもう一人の自分がいるのではないか、と。
けれど、一週間が過ぎても。
二週間が過ぎても。
夢はただの夢に戻った。
朝になれば、自分の部屋で目を覚ます。
それだけだった。
最後に見た如月の顔だけが、まだ頭に残っている。
何かを伝えようとしていた。
『これから――』
そこから先は、結局聞こえなかった。
そしてもう一つ。
『守れよ』
以前、如月に言われた言葉。
何を。
誰を。
聞き返したくても、もう夢の中に如月はいない。
答えだけが、どこかに置き去りにされたままだった。
そして、大和がこの街にいる時間も残り少なくなっていた。
「あと三日」
昼休み、大和が突然言った。
「何が?」
「俺がこの学校に来るの」
「……ああ」
「反応薄くない?」
「分かってるよ」
「ほんとか?」
「ほんと」
修了式まで、あと三日。
そのあと大和は引っ越す。
新学期からは別の高校へ通う。
何か月も前から知っていたことなのに、日付が近付くほど現実味がなくなっていく気がした。
「向こう行ったらさ」
大和がパンの袋を丸めながら言う。
「うん」
「とりあえずクラス決まったら写真送るわ」
「何の?」
「教室」
「いらない」
「冷た」
「制服姿は?」
「もっといらない」
「お前ほんと寂しくないの?」
「またそれ?」
「最後まで聞く」
「最後とか言うなよ」
思ったより強い声が出た。
大和が一瞬黙る。
「……悪い」
「いや」
拓真は視線を落とした。
「別に、そういう意味じゃない」
「うん」
短い沈黙が落ちる。
言いすぎたと思った。
けれど、何を否定したかったのか、自分でもよく分からない。
最後になることなのか。
寂しいと思っていることなのか。
それを大和に気付かれることなのか。
沈黙を破ったのは大和だった。
「じゃあ、『しばらく会えなくなるまで』聞く」
「ほぼ同じだろ」
「全然違う」
「どこが」
「俺の気遣い」
「自分で言う?」
二人で笑った。
さっきまでの空気は、それだけで消えた。
拓真はほっとした。
同時に、少しだけ自分が嫌になった。
また笑って終わらせた。
本当に言いたいことは、その奥に置いたまま。
修了式の日。
教室はいつもと違う騒がしさに包まれていた。
通知表の話。
春休みの予定。
新しいクラスの予想。
その中に、大和の転校の話も混じっている。
「水嶋、向こうでも元気でな」
「まだ死なねえよ」
「忘れんなよ」
「お前は忘れる」
「ひど」
友人たちが次々と大和に声を掛ける。
写真を撮る者もいた。
連絡先を確認し合う者もいた。
大和はそのたびに、いつもの調子で笑っていた。
拓真もその輪の中にいた。
「拓真も入れよ」
「俺?」
「ほら早く」
肩を組まれ、何人かで写真を撮る。
シャッター音が鳴った。
「もう一枚!」
「何枚撮るんだよ」
「水嶋の遺影」
「縁起悪すぎだろ!」
教室に笑い声が響く。
拓真も笑った。
いつもの大和だった。
明日から会わなくなるなんて、やっぱりどこか信じられなかった。
放課後になると、一人、また一人と教室を出ていった。
「じゃあな、水嶋」
「また連絡するわ」
「向こうでも頑張れよ」
「おう」
最後の友人が教室を出る。
残ったのは、拓真と大和だけだった。
大和が自分の机の中を覗く。
「何も残ってないよな」
「知らないよ」
「消しゴムとか忘れてたら取っといて」
「捨てる」
「使えよ」
「嫌だ」
「俺の形見だぞ」
「死んでないってさっき自分で言ってただろ」
「そうだった」
大和が笑う。
拓真も笑った。
窓の外を見る。
三月の夕方は、少しだけ日が長くなっていた。
この教室に大和がいる光景も、今日で最後になる。
そう考えると、急に見慣れた景色まで違って見えた。
「行くか」
「うん」
二人で教室を出る。
廊下も。
階段も。
昇降口も。
何度も一緒に通った場所だった。
校門を出て、二人は自転車を押して歩いた。
くだらない話をしながら、いつもの道を進む。
けれど、その日はいつもより少しだけ歩くのが遅かった。
途中の交差点。
ここで二人の帰り道は分かれる。
大和が立ち止まった。
「じゃあ」
「うん」
「明日引っ越しだから」
「知ってる」
「朝早いし、たぶんもう会わないな」
「……うん」
拓真は大和を見る。
今度こそ、本当に最後だ。
少なくとも、こうして毎日のように会うのは。
頭の中に、何度も飲み込んできた言葉が浮かんだ。
行かないでくれ。
寂しい。
もっと一緒にいたい。
言えばいい。
あいつなら、そう言うだろう。
嫌なら嫌だって言え。
困るかどうかは相手が決める。
分かっている。
もう何度も分かっている。
「大和」
「ん?」
「……行か」
声が出た。
自分でも驚くほど小さな声だった。
大和の目が、わずかに見開かれる。
続きを待っている。
ほんの数秒。
その数秒が、ひどく長かった。
この先を言ったら、大和はどんな顔をするだろう。
困るだろうか。
笑うだろうか。
明日には、もういなくなるのに。
今さらそんなことを言って、どうする。
「……いや」
拓真は首を振った。
「向こうでも、頑張れよ」
大和はすぐには答えなかった。
拓真の顔をじっと見ている。
「……そっか」
小さく、それだけ言った。
それから、いつものように笑う。
「お前もな」
「俺は別に何も変わらないけど」
「三年になるだろ」
「大和もだろ」
「じゃあ、お互い頑張ろう」
「雑だな」
「いいんだよ」
大和が自転車に跨がる。
「着いたら連絡する」
「うん」
「既読無視すんなよ」
「しないって」
「絶対な」
「分かったよ」
「じゃあな、拓真」
「……うん」
大和がペダルへ足を掛ける。
拓真は一瞬だけ迷ってから、口を開いた。
「またな」
大和が振り返る。
少し笑って、手を上げた。
「おう。またな」
自転車が走り出す。
拓真はしばらくその場に立っていた。
角を曲がる直前、大和がもう一度振り返った。
拓真は手を上げる。
大和も手を上げた。
それから、姿が見えなくなった。
一人で自転車を漕ぎ出した。
いつもの帰り道を進むつもりだった。
けれど、気付けば川沿いのサイクリングロードへ入っていた。
冷たい風が頬に当たる。
遠くに、橋が見えた。
九月九日の朝。
あそこに、もう一人の自分が立っていた。
拓真は自転車を止めた。
橋の中央には誰もいない。
夕日が欄干を赤く染めている。
あの日見た姿を探すように、しばらく橋を見つめた。
「……行かないでくれ、って」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「言えばよかったのかな」
返事はない。
如月だったら、何と言っただろう。
考えるまでもなかった。
きっと。
『言えばいいだろ』
そう言う。
分かっている。
それでも拓真には、今から大和を追いかけてまで言う勇気はなかった。
自転車のハンドルを握り直した。
翌日。
大和からメッセージが届いた。
『着いた』
その下に、段ボール箱だらけの部屋の写真が添えられている。
拓真は思わず笑った。
『汚』
すぐに返事が来た。
『引っ越したばっかなんだから当たり前だろ』
『片付けろ』
『お前来てやって』
『嫌』
『冷た』
いつもの会話だった。
少し安心した。
何も終わったわけじゃない。
会えなくなっただけだ。
連絡なら取れる。
また遊びに来るかもしれない。
自分から会いに行くことだってできる。
そう思えば、大したことではない気がした。
数日後。
春休みに入り、家の中は静かだった。
夕食の時間になっても、父親は帰ってこない。
「父さん、今日も遅いの?」
拓真が聞くと、母親は味噌汁をよそいながら頷いた。
「最近仕事が忙しいみたい」
「そっか」
「年度末だからね」
「うん」
母親は笑った。
「心配しなくて大丈夫よ」
その言葉に、拓真は少しだけ肩の力を抜いた。
「別に心配してないけど」
「そう?」
「仕事なら仕方ないじゃん」
「……そうね」
一瞬だけ、母親の手が止まったように見えた。
けれど、すぐにまた動き出す。
「冷めないうちに食べよ」
「うん」
二人で食卓についた。
父親は仕事が忙しい。
大和とはいつでも連絡できる。
如月の夢を見なくなったのも、きっと何かの区切りだっただけだ。
全部、ちゃんと理由がある。
だから、大丈夫。
そう思えば、まだ何も変わっていないような気がした。




