異世界恋愛と聖人の想い
2月。コンビニには相変わらず甘い香りが漂い、あの、なんだか落ち着かないイベント、バレンタインデーは続いていた。
そして、ブロンコの恋も、また別の意味で熱を帯び続けているらしい。屈強なバーバリアンの戦士が、日に日に恋にうつつを抜かしていく様子を見て、僕は他人事ながら心配になってきた。このままでは、アシュロ国の戦力がガタ落ちになるんじゃないだろうか?
ブロンコは、暇さえあればコンビニにやってきて、贈り物になりそうなバレンタインのチョコレートや、見慣れない化粧品などを買い漁っては、意中のハーピーの娘のもとへせっせと通っているらしい。
「仕事はちゃんとできてるんですか?」
僕は、つい興味本位でライリーに尋ねてみた。リザードマンの戦士長は、苦笑いを浮かべて首を横に振った。
「ダメだな、ありゃ。相当入れ上げてる。まぁ、今は幸いにも主だった戦闘もなく、訓練くらいしかやってないからまだ良いんだが……このままじゃ、本当にダメになるかもしれんな」
そんなに誰かを好きになることがあるなんて。恋愛経験がほとんどない僕には、その気持ちが少しだけ、羨ましくもあった。
「そもそも、この『バレンタインデー』とは、一体なんなのですか?」
珍しく、グウィンドールが興味深そうに質問してきた。知的な彼のことだ。このイベントの起源や意味を知ったら、もしかしたら自国に持ち帰って、新たなイベントとして広めてしまうかもしれない。
「僕も詳しくは……ちょっと調べてみますね」
そう言って、僕はポケットからスマホを取り出し、検索を始めた。バレンタインデーの起源は諸説あるらしいが、最も有名なのは――。
「ええと……紀元3世紀のローマで殉教した、聖バレンタイン(聖ウァレンティヌス)という人物に由来する、という説が有力みたいです」
僕は、スマホの画面を見ながら、グウィンドールとライリーに説明を始めた。禁じられた愛を貫いた聖人の物語。それが、この異世界の屈強な戦士の恋を、少しでも後押ししてくれるだろうか?
「殉教……愛のイベントで、その命日に行うとは……」
グウィンドールは、腕を組み、深く感心したように頷いた。
「以前、カツヤさんからいただいたお守りや、年末の賑やかなイベントを見るに、あなたの国はよほど信仰心の篤い国なのですね」
彼の言葉に、僕は思わず苦笑してしまった。
「いや、それが……逆なんです。僕の国は、むしろ全然信仰心がないというか……」
申し訳ないような気持ちでそう言うと、グウィンドールは明らかに「なぜ……?」という顔になった。その知的な瞳には、深い疑問の色が浮かんでいる。
「え……? あんなにも人々に浸透しているイベントなのに、特に信仰心と結びついているわけではない、と?」
ライリーも、意外そうな表情で僕に問いかけた。
「なんだか不思議な国だな、お前の国は。強い絆を祝う日に、殉教した聖人の命日を選ぶなんて……何か深い理由があるんだろう?」
僕は、少し考えてから、曖昧に答えた。
「うーん……どうなんでしょうね。起源となった聖人の物語は語り継がれていますけど、現代では、宗教的な意味合いはほとんどなくなって、単に好きな人に気持ちを伝える日、っていう認識の方が強いと思います」
グウィンドールは、ますます理解に苦しむといった表情になった。
「信仰心がないのに、聖人の命日がこれほど盛大に祝われる……。それは、一体どういう心の動きなのでしょうか……?」
異世界の賢者にとって、僕たちの世界のバレンタインデーは、なんとも不可解な文化現象に映るらしい。僕は、その複雑な背景をどう説明したものか、少し頭を悩ませた。
「なるほど、信仰心がないのに、聖人の命日がこんなにも……興味深いですね」
グウィンドールが深く頷くのを見て、僕はバレンタインデーのもう一つの側面、その起源となったとされる物語を、スマホを見ながら彼らに語ってみることにした。
「実は、このバレンタインデーには、ちょっと悲しいお話があるんです。それは、今からずいぶんと昔、1800年ほど前の僕の国とは違う、遠い国のローマという場所でのお話です」
僕は、少し声のトーンを落として、スマホで見た物語を読み始めた。
「その国には、クラウディウス2世という、とても強い力を持った皇帝がいました。その皇帝は、自分の国の兵士たちが、何よりも戦うことに集中してほしいと考えていました。だから、『結婚すると、故郷や家族を想う気持ちが強くなって、戦う力が弱まってしまう』と考えたんです」
ライリーは、腕を組みながら、少し眉をひそめた。「戦士にとって、守るべきもののために戦うのは当然だろうに……」とでも言いたげな表情だった。
「それで、クラウディウス2世は、なんと兵士たちの結婚を禁じてしまったんです。愛し合う二人がいても、国の命令には逆らえなかった時代だったんですね」
グウィンドールは、難しい顔で聞き入っている。「なんと酷な……愛を断つとは、人心を失う行いではありませんか」
「でも、そんな厳しい決まりの中でも、愛を諦められない人たちがいました。そこに、バレンタインという名前の、心優しい司祭がいたんです」
僕は、聖バレンタインの存在を、彼らに分かりやすいように「心優しい司祭」という言葉で表現した。
「その司祭は、皇帝の命令は間違っていると考えました。愛し合う二人が結ばれるのは、自然で美しいことだと信じていたんです。だから、彼は、秘密裏に、結婚を望む若い兵士たちの結婚式を、こっそりと執り行っていたんです」
ライリーは、少し目を見開いた。「密かに、か……勇敢な男だ」
「でも、いつかその秘密は、皇帝の耳に入ってしまいました。クラウディウス2世は激怒し、バレンタインを捕えて、牢屋に入れてしまったんです」
グウィンドールは、痛ましそうな表情で息を呑んだ。「ああ……なんと悲しい結末なのでしょう」
「牢屋に入れられたバレンタインは、そこで出会った盲目の娘の視力を、奇跡によって取り戻したという言い伝えもあります。そして、処刑される前日、彼はその娘に『あなたのバレンタインより』というメッセージを送ったと言われています」
僕は、少し感傷的な気持ちになりながら、そのエピソードを語った。
「そして、ついにバレンタインは、皇帝の命令によって、2月14日に処刑されてしまったんです。彼の勇気と、愛を貫いた強い想いは、その後も人々の心に深く刻まれ、彼を偲んで、2月14日は愛を誓い合う日、バレンタインデーとして語り継がれるようになった、というわけなんです」
静かに、僕は物語を締めくくった。ライリーは深く頷き、グウィンドールは目を潤ませているようだった。
「なんと……そのような悲しい出来事が、この愛の祭りの始まりだったとは……」
グウィンドールは、しみじみと呟いた。
「それでも、その聖人の想いは、形を変えて、今もこうして人々の間で生き続けているんですね。愛は、時に困難を乗り越える強い力を持つものだと、改めて教えられた気がします」
ライリーも、力強く頷いた。「ああ。禁じられた愛を貫いた男の魂は、確かに今も、人々の心を温めているのだろうな」
僕は、二人の言葉を聞きながら、遠い昔の聖人の想いが、この異世界の人間にも確かに届いていることを感じた。ブロンコの恋も、きっと聖バレンタインの想いのように、実を結ぶと良いな、と心の中でそっと願った。
聖バレンタインの、禁じられた愛を貫いたという物語は、異世界の住人たちの心に深く響いたようだ。何せ、兵士の結婚というテーマは、彼らの世界でも決して他人事ではない。あの冷静沈着なグウィンドールが、目元を赤くしているのを見た時は、僕も少し驚いた。
その聖人の想いに打たれたのだろう。ライリーとグウィンドールは、いつの間にかブロンコの恋を応援するモードに切り替わっていた。
「俺たちまで、あいつの恋を笑いものにするのは、やっぱり良くないな」
ライリーが、珍しく殊勝なことを言った。
「ええ、そうですね。ブロンコの真剣な気持ちを、私たちもちゃんと受け止めて、応援しましょう」
グウィンドールも、いつもの冷静さを保ちつつも、どこか熱意のこもった声で同意した。二人の間には、不思議な連帯感が生まれている。
そんな時、当のブロンコが、妙に陽気な足取りでコンビニにやってきた。
「よっ! みなさん、お集まりで!」
屈強なバーバリアンは、満面の笑みを浮かべている。
「ブロンコ」
グウィンドールは、真剣な眼差しでブロンコを見つめた。
「私たちは、あなたの恋を応援することに決めました。どうか、私たちに任せてください。聖バレンタインの熱い想いは、私たちがしっかりと受け継ぎます!」
そう言うと、グウィンドールとライリーの全身から、メラメラとした闘志のようなものが立ち上った。それを見たブロンコは……。
「あ、もしかしてハーピーのあの子のこと? あれなら、もういいんだ……」
そう言って、ブロンコの表情は、なぜか急に濁った。
(もしかして……あの激しいアプローチも実らず、失恋してしまったのか?)
そう思った瞬間、僕を含めた三人は、かける言葉を探した。慰めるべきか、そっとしておくべきか……。
しかし、僕たちが言葉を発するよりも早く、ブロンコは衝撃的な事実を口にした。
「実は……南の街に、もっといい女がいてな。そっちの方が、なんだか良くなっちまって」
その瞬間、僕たちは盛大にずっこけた。聖バレンタインの尊い想いを背負って、あんなに盛り上がっていた二人の熱意は一体……。
聖人の想いの分まで、ブロンコをぶん殴ってやりたい衝動に駆られた、そのまさに直後――。
「ゴッ!」
鈍い音が店内に響いた。ライリーの拳が、容赦なくブロンコの顔面に叩き込まれたのだ。
「貴様……聖人の想いを弄んだ罪は重いぞ……!」
さすが、俺たちのライリー。迷いのない、渾身の一撃だった。
一撃で完全に伸びてしまったブロンコと、店内にあったバレンタイン商品を買い占め両手に抱えたライリーとグウィンドールは、深い霧の中に、申し訳なさそうに、まるで何かから逃げるように消えていった。後に残されたのは、呆然とする僕だけだった。
結局、ブロンコの恋の騒動は、なんとも予想外の結末を迎えてしまった。聖バレンタインの想いは、一体どこへ行ってしまったのだろうか……。軽々しく“忌々しいイベント”と思っていた自分を恥じりながら、霧の消えたコンビニで、一人、そう思った。




