故郷、遥かに
朝、目を覚ました時には、まだナギサは眠っていた。
毛布を肩まで引き上げ、壁の方を向いて小さく丸くなっている。白い髪が頬に掛かっていたが、それを払う気配もない。
アズマは寝台に腰掛けたまま、しばらくその背中を眺めていた。
昨夜、一度起き出していたせいもあるのだろう。持ち込んだ酒の正式な検品結果が出るのは昼前だと聞いているし、それまでは特に急いで片付ける仕事もない。
起こす理由はなかった。
アズマは音を立てないよう立ち上がり、上着を羽織った。煙草と小銭をポケットへ入れ、扉へ向かう。
そこで一度だけ振り返った。
ナギサは動かない。
腹が減れば、そのうち起きるだろう。
そう思って部屋を出た。
朝のコクソウは、もう随分と騒がしかった。
中央通りを荷車が行き交い、倉庫の前では男たちが小麦や大麦、豆の詰まった麻袋を肩に担いでいる。乾燥させたトウモロコシを満載した荷車が軋むたび、荷台の隙間から細かな粒がこぼれ、それを痩せた鳥が追いかけていた。
薪の煙に焼いたパン、家畜と湿った土の臭いが混じっている。
どれも覚えのある匂いだった。
四年ぶりだった。
昨日は到着してからサトウと話し、酒を預け、風呂へ入り、香織と顔を合わせただけだった。こうして一人で町を歩くのは、十八でコクソウを出て以来になる。
もっと懐かしく感じるものだと思っていたが、実際はそうでもない。
角を曲がれば井戸があり、その向こうには古い穀物倉庫がある。もう少し歩けば、昔よく薪を割らされた場所に出る。
十年暮らした場所というのは、四年程度では身体から抜けないらしい。
「……アズマ?」
不意に声を掛けられ、振り向いた。
倉庫の軒下で、大柄な男が麻袋を肩から下ろしている。顔には覚えがあったが、名前が出てくるまで少し掛かった。
「久しぶり」
「やっぱりアズマか。いつ戻った?」
「昨日です」
「四年ぶりか」
「そうなりますね」
男はアズマを上から下まで眺めた。
「生きてたんだな」
「勝手に殺さないでくださいよ」
「何にも聞かねえからさ。まだ酒造ってんのか?」
「それで食ってます」
「へえ。本当にやったんだな」
「何がです?」
「ここ出る時、自分で食ってくとか言ってただろ」
「……そんなこと言いました?」
「言ってたよ」
覚えていなかった。
男は笑いながら再び麻袋を担ぎ、「まあ、またな」と仕事へ戻っていった。
特別仲が良かったわけではない。それでも十年暮らした場所だ。こういう顔なら、いくらでもいる。
少し先では井戸端にいた老婆に捕まった。
「あらまあ、アズマやないの」
「おはようございます」
「ほんまにアズマ? ちょっと顔見せて」
「見えてるでしょう」
「四年も帰って来んかった子が何言うてんの」
皺だらけの手が頬へ伸びてきたので、アズマは半歩下がった。
「あら、逃げるようになった」
「昔から逃げてましたよ」
「そうやったかしら」
「そうです」
その後ろから別の女まで顔を出した。
「あら、ほんまや。昨日戻ってきたん?」
「ええ」
「香織ちゃんには会うた?」
「昨日会いました」
「あらあら」
二人が顔を見合わせる。
「……何です?」
「何にも」
「別にねえ」
妙に楽しそうだった。
長くなりそうなので、アズマは適当に頭を下げてその場を離れた。
商店の軒先には干した果物や豆、塩、使い古された刃物が並んでいる。戦前の缶詰が二つ残っていたが、交換量を書いた札を見てやめた。
特に欲しいものもない。
煙草でも吸うかと思い、一箱取り出した。
「危ないぞ!」
怒鳴り声が通りに響いた。
顔を上げると、穀物を積んだ荷車が大きく傾いていた。右の車輪が外れ、沈んだ荷台から麻袋が一斉に横へ滑っていく。
その先に、小さな男の子が立っていた。
何が起きたのか分かっていないらしい。
アズマは煙草を落とした。
考えるより先に走り、子供の襟首を掴んで後ろへ引く。
直後、麻袋が地面へ落ちた。鈍い音が続けて響き、裂けた袋から小麦が吹き出す。
「うわっ――」
子供が尻餅をついた。
一番大きな袋は、ほんの一瞬前まで子供がいた場所に落ちていた。
「怪我してないか?」
目を丸くしたまま、子供が頷く。
「なら向こう行ってろ。荷車には近づくなよ」
「……うん」
駆け寄ってきた荷車の男は青い顔をしていた。
「悪い、助かった」
「俺じゃなくて、あの子に言った方がいいですよ」
「あ、ああ」
男が慌てて子供を追う。
アズマは外れた車輪へ目をやった。車軸が割れている。
「積みすぎじゃないですか」
「人手が足りなくてな」
「だからって潰したら余計減るでしょう」
「……違いない」
近くにいた連中が散らばった麻袋を拾い始めたので、アズマも裂けた袋を起こした。
「それ、こっち頼む」
「はいよ」
袋を渡したところで、背後から声がした。
「アズマ?」
手が止まった。
聞き違えるはずがない。
振り返ると、少し離れたところに高坂紫苑が立っていた。
黒を基調とした着物に白い襟元。艶のある黒髪は後ろで品よくまとめられ、金の簪が朝の光を拾っている。胸元には、第二区画の相談役であることを示す札が下がっていた。
コクソウの住民なら、それを見ただけで多少は居住まいを正す。
アズマにとっては、八歳の頃から何かと世話を焼いてくる女だった。
「おはようございます。紫苑さん」
「まあ。ほんまにアズマやったんやねえ」
「昨日戻りました」
「ええ、聞いておりますよ」
「じゃあ話が早いですね」
「そうやねえ」
にこりと笑う。
その笑顔を見て、アズマは何となく嫌な予感がした。
紫苑がこちらへ歩いてくる。
「お怪我は?」
「ないですよ」
「そう」
肩についた小麦粉を、紫苑が指先で払った。
「相変わらず、危ないところへすぐ入って行かはるのねえ」
「子供がいたんで」
「見てました」
「じゃあ聞かなくても」
「怪我してへんかどうかは別でしょう?」
「……まあ」
紫苑は改めてアズマの顔を見た。
「四年」
「はい?」
「長かったねえ」
思ったより静かな声だった。
「そうですかね」
「私には長かったです」
アズマは少し困った。
「……すいません」
「あら。謝れるようにならはったの?」
「俺を何だと思ってるんですか」
「十八の時、ろくに相談もせんと出て行った子」
「一応言いましたよ」
「前の日にね」
「言ったことには変わらないでしょう」
「そういうことにしときましょう」
昔と同じだった。
「今から顔出そうと思ってたんですよ」
「あら、どちらへ?」
「紫苑さんのところ」
「ほんま?」
「ほんまです」
「アズマ。あんた昔から、嘘つく時だけちょっと目ぇ逸らすんよ」
アズマは黙った。
紫苑の笑みが深くなる。
「十四年経っても変わらへんねえ」
「もう二十二ですよ」
「存じております」
「じゃあ、そろそろ大人として――」
「八つの頃から面倒見てきた子ぉが、二十二になったくらいで急に他人になりますの?」
ならないらしい。
紫苑はアズマの袖を軽く摘まんだ。
「いらっしゃい」
「どこへ?」
「私のお部屋」
「検品まで町を見ようと思ってたんですけど」
「四年見てへん町を、今の一時間で全部見なあきませんの?」
「……」
「いらっしゃい」
最初から選択肢はなかった。
第二区画の管理棟、その二階に紫苑の部屋はあった。
中へ入った途端、アズマは少しだけ足を止める。壁際に積まれた帳簿や書類、薬草や乾物の小瓶が並ぶ棚、窓際の机に古びた茶卓。昔、何度もここへ呼び出された頃とほとんど変わっていない。
「何してはるの? そこ、お座り」
「はい」
反射的に座ってから、アズマは少し嫌な気分になった。
紫苑が湯を沸かし始める。
「ナギサちゃんは?」
「まだ寝てます。昨夜も一回起きてたんで、疲れてるんでしょう」
「起こしてあげへんかったの?」
「寝たいなら寝かせとけばいいですよ」
「ふふ」
「何です?」
「何にも」
薄い茶が湯呑みに注がれた。上等な茶葉ではないが、口に含むと妙に懐かしい。
「消防署で暮らしてはるんやって?」
「ええ」
「屋根は?」
「直しました」
「お水は?」
「あります」
「冬場は?」
「暖炉があります」
「ちゃんと食べてはる?」
「紫苑さん。俺、四年間それで生きてるんですよ」
「ええ」
「だったら大丈夫でしょう」
「そうやねえ」
「じゃあ何で毎回聞くんです?」
紫苑は少し考えるように首を傾げた。
「気になるから?」
「……そうですか」
「そうです」
悪びれる様子はなかった。
「十八の時は、ほんま驚きましたもの」
「またその話ですか」
「四年ぶりなんやから、させてもろてもええでしょう? あんた急に、外で暮らす言い出して」
「急じゃないですよ。前から考えてました」
「私は聞いてませんでした」
「言ったら止めるでしょう」
「止めますよ」
「ほら」
「当たり前やないの。十八の子ぉが、壁の外で一人で暮らす言うてるんですよ?」
「十八は大人でしょう」
「誰が決めたの?」
「昔の法律とか」
「もうないでしょう、そんなもん」
返す言葉がなかった。
紫苑は茶を一口飲んでから、静かに湯呑みを置いた。
「ここにおったらよろしかったのに。食べるもんも、寝るところも、仕事もあった。お酒かて、ここで造れたでしょう?」
「そうですね」
「ほな、何で?」
アズマは少し考えた。
「……ここにいたら、何も困らなかったからですかね」
「困らへんかったら、あきませんの?」
「いや。ただ、それだけで歳取るのは嫌だったんですよ」
紫苑は黙って続きを待った。
「食って、寝て、生きて。それだけで終わるのが、何となく嫌だったんです」
「十八の頃から、そんなこと考えてはったの?」
「まあ」
「今は?」
「さあ」
アズマは茶を飲んだ。
「でも、外で暮らして酒造って、それで四年食ってきましたから。出たのは間違いじゃなかったと思ってます」
紫苑はしばらく何も言わなかった。
「ほんま、誰に似たんやろねえ」
「師匠じゃないですか」
「それは嫌やわ」
即答だった。
アズマが笑うと、紫苑も少しだけ笑った。
「あの時は、半年もしたら帰って来はると思てました」
「酷いですね」
「十八でしたもの。それが住む場所見つけて、自分で直して、お酒造って、ちゃんと食べて、四年でしょう?」
「最後のやつ重要ですか?」
「一番大事です」
また即答された。
「ほんまに、自分で暮らし作らはったんやねえ」
妙に真っ直ぐ言われて、アズマは居心地が悪くなった。
「仕事は順調なん?」
「ぼちぼちです」
「昨日のお酒、四十七本やって?」
「もう知ってるんですか」
「相談役を何やと思てるの?」
「怖いですね」
「あら、今ごろ?」
紫苑は楽しそうに笑った。
「香織ちゃんも驚いてはったでしょう」
「かなり」
「昨日、長う話してはったそうやね」
「誰から聞いたんです?」
「狭いところですもの」
「酒飲ませただけですよ」
「あら。香織ちゃん、お酒そんな強ないでしょう?」
「三杯飲んでました。新作が気に入ったみたいで」
「新作?」
「シルバーラムです」
「それを香織ちゃんに?」
「ええ」
「へえ」
紫苑の声色が僅かに変わった。
「何です?」
「そのお酒、誰にでも飲ませてはるの?」
「いや。まだほとんど」
「そう」
それきり紫苑は茶を飲んだ。
「何です?」
「何にも」
「絶対何かあるでしょう」
「ありませんよ」
澄ました顔のまま、紫苑が続ける。
「香織ちゃん、昨日えらい機嫌よう帰らはったえ」
「飲んでましたからね」
紫苑の眉が僅かに上がった。
「……そうやねえ」
「何です?」
「何にも」
またそれだった。
アズマは昨夜の香織を思い出した。
頬を赤くして、戸口で一度だけ振り返った姿。
『……来てくれて、よかった』
四年ぶりだったのだから、それくらい言うこともあるだろう。
それ以上考えるほどのことでもない。
少し間を置いて、紫苑が茶を足した。
「……獏は?」
「師匠?」
「ええ」
「分からないです。西へ行ったっきりですよ」
紫苑の顔から笑みが消えた。
「あの人は、ほんまに……」
「生きてるとは思いますけど」
「何を根拠に?」
「死ぬような人じゃないんで」
「そういう人ほど、ある日ぽっくり逝くんです」
「師匠が?」
「憎まれっ子世にはばかる言いますし、あと五十年くらい生きるかもしれませんねえ」
「どっちなんですか」
「知りません」
どうやら今でも嫌いらしい。
「八つの子ぉ連れて何年もふらふらして、ここへ預けた思たら自分は何月も帰って来んと。ほんま、よう平気な顔してはったわ」
「仕事だったんでしょう」
「仕事やったら子供ほったらかしてよろしいの?」
「別にほったらかされてないですよ」
「アズマ。あんたが平気やったかどうかは、別の話です」
静かな声だった。
「子供いうのはね、食べさせて、寝床与えて、鉄砲の撃ち方教えたらそれでしまい、いうもんやありません」
「師匠、そこまで酷くないですよ」
「酔うて道端で寝てはったやないの。一度迎えに行ったときも、本人だけ酒場の床で寝てはりましたよ」
「……あったかな」
「あったんです」
「覚えてないですね」
「私は覚えてます。あの時はほんま、蹴飛ばして差し上げようかと思いました」
アズマは思わず笑った。
「何がおかしいの?」
「紫苑さんが人蹴るところ、想像できなくて」
「私かて怒る時くらいあります」
「師匠相手だと多いですね」
「怒らせるようなことばっかりしはるからです」
紫苑は小さく息を吐いた。
「まあ、ええわ。ここにおらへん人に腹立てても仕方ありません」
「ようやくですか」
「余計なこと言わんの」
その言い方だけ、昔と何も変わらなかった。
アズマは残った茶を飲み干した。
「そろそろ行きます。検品がありますから」
「あら、もうそんな時間?」
「まだ少しありますけど」
「ほな、引き止めたら嫌われそうやねえ」
「もう十分引き止めてますよ」
「そう?」
紫苑は悪びれもせず笑った。
アズマが立ち上がり、戸へ向かう。
「アズマ」
「まだあるんですか」
「次に帰って来はる時は、四年も空けんといておくれやす」
振り返ると、紫苑は茶卓の向こうに座ったままこちらを見ていた。先ほどまでのからかうような調子はなかった。
アズマは少しだけ言葉に詰まった。
「……善処します」
「そこは『はい』でしょう?」
「はい」
「よろしい」
紫苑が満足そうに頷く。
アズマは戸へ手を掛けた。
「それと、香織ちゃんによろしく」
「自分で言えばいいでしょう。すぐそこにいるんだから」
「そうやねえ」
「じゃあ」
「はい。いってらっしゃい」
戸を開けようとしていた手が止まった。
昔も何度となく聞いた言葉だった。
「……行ってきます」
振り返らずに答え、そのまま部屋を出た。
管理棟を出ると、朝の空気は少し冷たかった。
アズマは煙草に火をつけ、検品所のある通りへ向かった。
四年前、ここを出たことに大層な理由があったわけではない。ただ、何も困らない場所で、食べて寝て歳を取っていくのが嫌だった。
外へ出て、古い消防署を住めるように直し、酒を造って、それを売って暮らしてきた。
四年経った今も、それが何のためなのかはよく分からない。
昨夜は香織がその酒を旨そうに飲んでいた。
なら、今のところは悪くない。
煙を吐きながら、アズマは歩いていった。
どこで死ぬかは知らんが、どこで生きるかくらい自分で決めろ。
『とある終末世界の戦士』より




