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終末世界のムーンシャイナー  作者: 論田リスト
『Moon in night』
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14/14

故郷、遥かに

朝、目を覚ました時には、まだナギサは眠っていた。


 毛布を肩まで引き上げ、壁の方を向いて小さく丸くなっている。白い髪が頬に掛かっていたが、それを払う気配もない。


 アズマは寝台に腰掛けたまま、しばらくその背中を眺めていた。


 昨夜、一度起き出していたせいもあるのだろう。持ち込んだ酒の正式な検品結果が出るのは昼前だと聞いているし、それまでは特に急いで片付ける仕事もない。


 起こす理由はなかった。


 アズマは音を立てないよう立ち上がり、上着を羽織った。煙草と小銭をポケットへ入れ、扉へ向かう。


 そこで一度だけ振り返った。


 ナギサは動かない。


 腹が減れば、そのうち起きるだろう。


 そう思って部屋を出た。


 朝のコクソウは、もう随分と騒がしかった。


 中央通りを荷車が行き交い、倉庫の前では男たちが小麦や大麦、豆の詰まった麻袋を肩に担いでいる。乾燥させたトウモロコシを満載した荷車が軋むたび、荷台の隙間から細かな粒がこぼれ、それを痩せた鳥が追いかけていた。


 薪の煙に焼いたパン、家畜と湿った土の臭いが混じっている。


 どれも覚えのある匂いだった。


 四年ぶりだった。


 昨日は到着してからサトウと話し、酒を預け、風呂へ入り、香織と顔を合わせただけだった。こうして一人で町を歩くのは、十八でコクソウを出て以来になる。


 もっと懐かしく感じるものだと思っていたが、実際はそうでもない。


 角を曲がれば井戸があり、その向こうには古い穀物倉庫がある。もう少し歩けば、昔よく薪を割らされた場所に出る。


 十年暮らした場所というのは、四年程度では身体から抜けないらしい。


「……アズマ?」


 不意に声を掛けられ、振り向いた。


 倉庫の軒下で、大柄な男が麻袋を肩から下ろしている。顔には覚えがあったが、名前が出てくるまで少し掛かった。


「久しぶり」


「やっぱりアズマか。いつ戻った?」


「昨日です」


「四年ぶりか」


「そうなりますね」


 男はアズマを上から下まで眺めた。


「生きてたんだな」


「勝手に殺さないでくださいよ」


「何にも聞かねえからさ。まだ酒造ってんのか?」


「それで食ってます」


「へえ。本当にやったんだな」


「何がです?」


「ここ出る時、自分で食ってくとか言ってただろ」


「……そんなこと言いました?」


「言ってたよ」


 覚えていなかった。


 男は笑いながら再び麻袋を担ぎ、「まあ、またな」と仕事へ戻っていった。


 特別仲が良かったわけではない。それでも十年暮らした場所だ。こういう顔なら、いくらでもいる。


 少し先では井戸端にいた老婆に捕まった。


「あらまあ、アズマやないの」


「おはようございます」


「ほんまにアズマ? ちょっと顔見せて」


「見えてるでしょう」


「四年も帰って来んかった子が何言うてんの」


 皺だらけの手が頬へ伸びてきたので、アズマは半歩下がった。


「あら、逃げるようになった」


「昔から逃げてましたよ」


「そうやったかしら」


「そうです」


 その後ろから別の女まで顔を出した。


「あら、ほんまや。昨日戻ってきたん?」


「ええ」


「香織ちゃんには会うた?」


「昨日会いました」


「あらあら」


 二人が顔を見合わせる。


「……何です?」


「何にも」


「別にねえ」


 妙に楽しそうだった。


 長くなりそうなので、アズマは適当に頭を下げてその場を離れた。


 商店の軒先には干した果物や豆、塩、使い古された刃物が並んでいる。戦前の缶詰が二つ残っていたが、交換量を書いた札を見てやめた。


 特に欲しいものもない。


 煙草でも吸うかと思い、一箱取り出した。


「危ないぞ!」


 怒鳴り声が通りに響いた。


 顔を上げると、穀物を積んだ荷車が大きく傾いていた。右の車輪が外れ、沈んだ荷台から麻袋が一斉に横へ滑っていく。


 その先に、小さな男の子が立っていた。


 何が起きたのか分かっていないらしい。


 アズマは煙草を落とした。


 考えるより先に走り、子供の襟首を掴んで後ろへ引く。


 直後、麻袋が地面へ落ちた。鈍い音が続けて響き、裂けた袋から小麦が吹き出す。


「うわっ――」


 子供が尻餅をついた。


 一番大きな袋は、ほんの一瞬前まで子供がいた場所に落ちていた。


「怪我してないか?」


 目を丸くしたまま、子供が頷く。


「なら向こう行ってろ。荷車には近づくなよ」


「……うん」


 駆け寄ってきた荷車の男は青い顔をしていた。


「悪い、助かった」


「俺じゃなくて、あの子に言った方がいいですよ」


「あ、ああ」


 男が慌てて子供を追う。


 アズマは外れた車輪へ目をやった。車軸が割れている。


「積みすぎじゃないですか」


「人手が足りなくてな」


「だからって潰したら余計減るでしょう」


「……違いない」


 近くにいた連中が散らばった麻袋を拾い始めたので、アズマも裂けた袋を起こした。


「それ、こっち頼む」


「はいよ」


 袋を渡したところで、背後から声がした。


「アズマ?」


 手が止まった。


 聞き違えるはずがない。


 振り返ると、少し離れたところに高坂紫苑が立っていた。


 黒を基調とした着物に白い襟元。艶のある黒髪は後ろで品よくまとめられ、金の簪が朝の光を拾っている。胸元には、第二区画の相談役であることを示す札が下がっていた。


 コクソウの住民なら、それを見ただけで多少は居住まいを正す。


 アズマにとっては、八歳の頃から何かと世話を焼いてくる女だった。


「おはようございます。紫苑さん」


「まあ。ほんまにアズマやったんやねえ」


「昨日戻りました」


「ええ、聞いておりますよ」


「じゃあ話が早いですね」


「そうやねえ」


 にこりと笑う。


 その笑顔を見て、アズマは何となく嫌な予感がした。


 紫苑がこちらへ歩いてくる。


「お怪我は?」


「ないですよ」


「そう」


 肩についた小麦粉を、紫苑が指先で払った。


「相変わらず、危ないところへすぐ入って行かはるのねえ」


「子供がいたんで」


「見てました」


「じゃあ聞かなくても」


「怪我してへんかどうかは別でしょう?」


「……まあ」


 紫苑は改めてアズマの顔を見た。


「四年」


「はい?」


「長かったねえ」


 思ったより静かな声だった。


「そうですかね」


「私には長かったです」


 アズマは少し困った。


「……すいません」


「あら。謝れるようにならはったの?」


「俺を何だと思ってるんですか」


「十八の時、ろくに相談もせんと出て行った子」


「一応言いましたよ」


「前の日にね」


「言ったことには変わらないでしょう」


「そういうことにしときましょう」


 昔と同じだった。


「今から顔出そうと思ってたんですよ」


「あら、どちらへ?」


「紫苑さんのところ」


「ほんま?」


「ほんまです」


「アズマ。あんた昔から、嘘つく時だけちょっと目ぇ逸らすんよ」


 アズマは黙った。


 紫苑の笑みが深くなる。


「十四年経っても変わらへんねえ」


「もう二十二ですよ」


「存じております」


「じゃあ、そろそろ大人として――」


「八つの頃から面倒見てきた子ぉが、二十二になったくらいで急に他人になりますの?」


 ならないらしい。


 紫苑はアズマの袖を軽く摘まんだ。


「いらっしゃい」


「どこへ?」


「私のお部屋」


「検品まで町を見ようと思ってたんですけど」


「四年見てへん町を、今の一時間で全部見なあきませんの?」


「……」


「いらっしゃい」


 最初から選択肢はなかった。


 第二区画の管理棟、その二階に紫苑の部屋はあった。


 中へ入った途端、アズマは少しだけ足を止める。壁際に積まれた帳簿や書類、薬草や乾物の小瓶が並ぶ棚、窓際の机に古びた茶卓。昔、何度もここへ呼び出された頃とほとんど変わっていない。


「何してはるの? そこ、お座り」


「はい」


 反射的に座ってから、アズマは少し嫌な気分になった。


 紫苑が湯を沸かし始める。


「ナギサちゃんは?」


「まだ寝てます。昨夜も一回起きてたんで、疲れてるんでしょう」


「起こしてあげへんかったの?」


「寝たいなら寝かせとけばいいですよ」


「ふふ」


「何です?」


「何にも」


 薄い茶が湯呑みに注がれた。上等な茶葉ではないが、口に含むと妙に懐かしい。


「消防署で暮らしてはるんやって?」


「ええ」


「屋根は?」


「直しました」


「お水は?」


「あります」


「冬場は?」


「暖炉があります」


「ちゃんと食べてはる?」


「紫苑さん。俺、四年間それで生きてるんですよ」


「ええ」


「だったら大丈夫でしょう」


「そうやねえ」


「じゃあ何で毎回聞くんです?」


 紫苑は少し考えるように首を傾げた。


「気になるから?」


「……そうですか」


「そうです」


 悪びれる様子はなかった。


「十八の時は、ほんま驚きましたもの」


「またその話ですか」


「四年ぶりなんやから、させてもろてもええでしょう? あんた急に、外で暮らす言い出して」


「急じゃないですよ。前から考えてました」


「私は聞いてませんでした」


「言ったら止めるでしょう」


「止めますよ」


「ほら」


「当たり前やないの。十八の子ぉが、壁の外で一人で暮らす言うてるんですよ?」


「十八は大人でしょう」


「誰が決めたの?」


「昔の法律とか」


「もうないでしょう、そんなもん」


 返す言葉がなかった。


 紫苑は茶を一口飲んでから、静かに湯呑みを置いた。


「ここにおったらよろしかったのに。食べるもんも、寝るところも、仕事もあった。お酒かて、ここで造れたでしょう?」


「そうですね」


「ほな、何で?」


 アズマは少し考えた。


「……ここにいたら、何も困らなかったからですかね」


「困らへんかったら、あきませんの?」


「いや。ただ、それだけで歳取るのは嫌だったんですよ」


 紫苑は黙って続きを待った。


「食って、寝て、生きて。それだけで終わるのが、何となく嫌だったんです」


「十八の頃から、そんなこと考えてはったの?」


「まあ」


「今は?」


「さあ」


 アズマは茶を飲んだ。


「でも、外で暮らして酒造って、それで四年食ってきましたから。出たのは間違いじゃなかったと思ってます」


 紫苑はしばらく何も言わなかった。


「ほんま、誰に似たんやろねえ」


「師匠じゃないですか」


「それは嫌やわ」


 即答だった。


 アズマが笑うと、紫苑も少しだけ笑った。


「あの時は、半年もしたら帰って来はると思てました」


「酷いですね」


「十八でしたもの。それが住む場所見つけて、自分で直して、お酒造って、ちゃんと食べて、四年でしょう?」


「最後のやつ重要ですか?」


「一番大事です」


 また即答された。


「ほんまに、自分で暮らし作らはったんやねえ」


 妙に真っ直ぐ言われて、アズマは居心地が悪くなった。


「仕事は順調なん?」


「ぼちぼちです」


「昨日のお酒、四十七本やって?」


「もう知ってるんですか」


「相談役を何やと思てるの?」


「怖いですね」


「あら、今ごろ?」


 紫苑は楽しそうに笑った。


「香織ちゃんも驚いてはったでしょう」


「かなり」


「昨日、長う話してはったそうやね」


「誰から聞いたんです?」


「狭いところですもの」


「酒飲ませただけですよ」


「あら。香織ちゃん、お酒そんな強ないでしょう?」


「三杯飲んでました。新作が気に入ったみたいで」


「新作?」


「シルバーラムです」


「それを香織ちゃんに?」


「ええ」


「へえ」


 紫苑の声色が僅かに変わった。


「何です?」


「そのお酒、誰にでも飲ませてはるの?」


「いや。まだほとんど」


「そう」


 それきり紫苑は茶を飲んだ。


「何です?」


「何にも」


「絶対何かあるでしょう」


「ありませんよ」


 澄ました顔のまま、紫苑が続ける。


「香織ちゃん、昨日えらい機嫌よう帰らはったえ」


「飲んでましたからね」


 紫苑の眉が僅かに上がった。


「……そうやねえ」


「何です?」


「何にも」


 またそれだった。


 アズマは昨夜の香織を思い出した。


 頬を赤くして、戸口で一度だけ振り返った姿。


『……来てくれて、よかった』


 四年ぶりだったのだから、それくらい言うこともあるだろう。


 それ以上考えるほどのことでもない。


 少し間を置いて、紫苑が茶を足した。


「……獏は?」


「師匠?」


「ええ」


「分からないです。西へ行ったっきりですよ」


 紫苑の顔から笑みが消えた。


「あの人は、ほんまに……」


「生きてるとは思いますけど」


「何を根拠に?」


「死ぬような人じゃないんで」


「そういう人ほど、ある日ぽっくり逝くんです」


「師匠が?」


「憎まれっ子世にはばかる言いますし、あと五十年くらい生きるかもしれませんねえ」


「どっちなんですか」


「知りません」


 どうやら今でも嫌いらしい。


「八つの子ぉ連れて何年もふらふらして、ここへ預けた思たら自分は何月も帰って来んと。ほんま、よう平気な顔してはったわ」


「仕事だったんでしょう」


「仕事やったら子供ほったらかしてよろしいの?」


「別にほったらかされてないですよ」


「アズマ。あんたが平気やったかどうかは、別の話です」


 静かな声だった。


「子供いうのはね、食べさせて、寝床与えて、鉄砲の撃ち方教えたらそれでしまい、いうもんやありません」


「師匠、そこまで酷くないですよ」


「酔うて道端で寝てはったやないの。一度迎えに行ったときも、本人だけ酒場の床で寝てはりましたよ」


「……あったかな」


「あったんです」


「覚えてないですね」


「私は覚えてます。あの時はほんま、蹴飛ばして差し上げようかと思いました」


 アズマは思わず笑った。


「何がおかしいの?」


「紫苑さんが人蹴るところ、想像できなくて」


「私かて怒る時くらいあります」


「師匠相手だと多いですね」


「怒らせるようなことばっかりしはるからです」


 紫苑は小さく息を吐いた。


「まあ、ええわ。ここにおらへん人に腹立てても仕方ありません」


「ようやくですか」


「余計なこと言わんの」


 その言い方だけ、昔と何も変わらなかった。


 アズマは残った茶を飲み干した。


「そろそろ行きます。検品がありますから」


「あら、もうそんな時間?」


「まだ少しありますけど」


「ほな、引き止めたら嫌われそうやねえ」


「もう十分引き止めてますよ」


「そう?」


 紫苑は悪びれもせず笑った。


 アズマが立ち上がり、戸へ向かう。


「アズマ」


「まだあるんですか」


「次に帰って来はる時は、四年も空けんといておくれやす」


 振り返ると、紫苑は茶卓の向こうに座ったままこちらを見ていた。先ほどまでのからかうような調子はなかった。


 アズマは少しだけ言葉に詰まった。


「……善処します」


「そこは『はい』でしょう?」


「はい」


「よろしい」


 紫苑が満足そうに頷く。


 アズマは戸へ手を掛けた。


「それと、香織ちゃんによろしく」


「自分で言えばいいでしょう。すぐそこにいるんだから」


「そうやねえ」


「じゃあ」


「はい。いってらっしゃい」


 戸を開けようとしていた手が止まった。


 昔も何度となく聞いた言葉だった。


「……行ってきます」


 振り返らずに答え、そのまま部屋を出た。


 管理棟を出ると、朝の空気は少し冷たかった。


 アズマは煙草に火をつけ、検品所のある通りへ向かった。


 四年前、ここを出たことに大層な理由があったわけではない。ただ、何も困らない場所で、食べて寝て歳を取っていくのが嫌だった。


 外へ出て、古い消防署を住めるように直し、酒を造って、それを売って暮らしてきた。


 四年経った今も、それが何のためなのかはよく分からない。


 昨夜は香織がその酒を旨そうに飲んでいた。


 なら、今のところは悪くない。


 煙を吐きながら、アズマは歩いていった。

どこで死ぬかは知らんが、どこで生きるかくらい自分で決めろ。


『とある終末世界の戦士』より

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