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終末世界のムーンシャイナー  作者: 論田リスト
『Moon in night』
13/13

月の輝き

 脱衣所の板張りが、足の裏に馴染んだ。


 十年ぶりの感触だった。コクソウの来客棟、奥の風呂場。変わっていない。桶も、蛇口の位置も、壁の染みも。


 アズマは桶に湯を汲んで、頭から被った。黒ずんだ水が足元に広がった。もう一杯被る。まだ黒い。三杯目でようやく普通の色になった。


 湯船に足を入れると、少し茶色い湯が揺れた。コクソウの水源は鉱山近くの土地なので鉄分が溶け出ている。健康に害はないが、一見ではぎょっとする色だった。


 アズマは肩まで沈み、目を閉じる。


 緩んだ影響か身体の芯が震えていた。恐怖と言えばいいのか。興奮の名残と言えばいいのか。どちらでもよかった。


 夜明け前に殺したならず者たちが脳裏をよぎる。


 正当防衛と言ってしまえば、それまでだ。


 だが、人を殺すのは命を奪う行為だった。決して気持ちの良いものではない。


 殺らなければ、殺られる。


 それでも、本当にあれしかなかったのか。


 瞼の裏に浮かぶのは、死んだ男たちの顔だった。何度経験しても変わらない。そのたびに、自問自答を繰り返す。


 答えの出ない問いを振り払い、アズマはナギサのことを思い出した。


 まだ幼い少女。守るべき相手がいたことは、救いだった。


 銃声が、まだ耳の奥に残っている。耳鳴りがやまない。


 実戦でイヤマフを付けるわけにもいかない。そんな間抜けな光景を想像して、少しだけ笑った。


 湯気が天井へ消えていく。しばらくそうしていた。


 風呂から上がると、廊下に灯りが漏れていた。


 戸が開く。


 和服を着た女が、三つ指をついて頭を下げた。結んだお下げが畳に垂れる。


「お待たせしました」


 アズマは固まった。


 女も顔を上げて固まったが、やがて口元だけが震えた。


「き、来てたなら早く言ってよぉ」


「交易で来ただけだ」


「……それが理由になるん?」


 香織は膳を持って部屋へ入る。アズマは頭を掻きながら後に続いた。


 畳に膳が置かれる。味噌汁。焼いた塩漬け肉。糠漬け。雑穀飯。湯気が立っていた。


「はやく食べて」


 アズマは座り、箸を取った。一口食べる。


「……旨い」


「……そう」


 香織は膳の端を整え、少し離れた場所へ座った。視線は膳の上に落ちている。


「ナギサは?」


「あの子なら先に食べさせたわ。体調悪いって言ってたし」


「そうか。大丈夫なのか」


「もう寝てるわよ。疲れてたみたいね」


 しばらく、咀嚼音だけが続いた。


「四年ぶりだね」


 香織がぽつりと言った。


「そうだな」


「少し変わった?」


「どうだろうな」


 香織が笑う。昔と同じ笑い方だった。


「ちょっと痩せたね」


「そうか」


「……そうだよ」


 それ以上は言わなかった。


 食事を終えると、香織が膳を片付け始めた。


「長く居る?」


「いや」


「そっか」


 返事は早かった。香織はアズマを見ないまま立ち上がる。


 皿を片付ける音がして、しばらくして戻ってきた。また少し離れた場所へ座る。


「ねえ。荷物、お酒でしょ」


「ああ」


「何本持ってきたの」


「四十七」


「そんなに」


 香織が目を丸くした。


「ウチにも回してくれる?」


「サトウさん次第だ」


「うん」


 少し黙る。


「一本だけ見てもいい?」香織が言った。「わたし、交易やってるから。あんたの酒、ちゃんと見たことなくて」


 アズマは木箱から一本取り出した。透明な液体が灯りに揺れる。


 香織は栓を抜き、香りを嗅いだ。


 動きが止まる。


 もう一度嗅ぐ。湯呑みに注ぎ、灯りに透かす。口に含む。飲み込む。


 沈黙。


「……なにこれ」


「なにって」


「なにこれ!?」


 声が跳ねた。


「七十超えてる。二回通したでしょこれ」


「ああ」


「ウチに回ってくるやつと全然別物なんだけど!」


「七十三だ」


「七十三!?」


 廊下の奥で戸が擦れた。


 ナギサだった。寝間着姿のまま目を擦っている。


「……どうかしましたか」


「あ、ごめんね。起こしちゃった」香織が苦笑する。「アズマの酒が、あんまりすごくて」


 ナギサは湯呑みと木箱を見た。それから香織の隣へ座る。


「おいしいんですか、それ」


「飲めないよ。子供は」香織が笑った。「でも、すごいの」


 ナギサがアズマを見る。


「アズマさんが作ったんですか。あの蒸留器で」


「ああ」


 香織が二人を見比べた。


「……仲、いいんだね」


「成り行きだ」


 ナギサが少しむくれた。


「成り行き、じゃないです」


 香織がくすりと笑った。白い髪を、そっと撫でる。


「そうだね。成り行きでここまで面倒見てたら、ただのお人好しだもん」


 ナギサがちらりとアズマを見る。アズマは目を逸らして、湯呑みに口をつけた。


 ナギサは何か言いたげに口を開き、結局閉じた。けれど、むくれた顔はもうほどけていた。


「四十七本、全部この出来?」香織が話を戻す。


「ばらつきはない」


「これは売れるわ……」香織が呟く。


「『オックス』のやつら、これ見せたら飼料の値、言い値で通せるよ」


 アズマは肩をすくめた。


「別に。転売されても俺には関係ない」


「もう、そういうとこだよ」


「作って売れたら、それでいい」


 香織は呆れたように息を吐いた。


「ほんと、変わってないね」


 アズマは荷物からスキットルを取り出した。銀色の携帯瓶だった。


「これも飲むか。新作だ」


「……それも商品?」


「シルバーラム」


 湯呑みに注ぐ。ほんのり琥珀色だった。


 香織は香りを嗅ぐ。


「……甘い?」


「少しな、モラセスで作った」


 香織は口に含んだ。今度はゆっくり味わう。


「……美味しい」


 静かな声だった。


「ウイスキーより好きかも」


「お前向きだと思った」


 香織が顔を上げた。


「……え」


「いや」アズマは目を逸らした。「なんとなく」


 香織は何も言わなかった。ただ、少しだけ嬉しそうだった。


 それから、なかなか腰を上げなかった。


 一杯のつもりが、二杯になり、三杯になった。ラムの甘さに頬が赤くなる。


 昔のコクソウの話をした。井戸端で遊んだ話。薪割りを押し付けられた話。


 ナギサは黙って聞いていた。知らない名前。知らない場所。知らなかったアズマの話。


 やがて瞼が重くなる。気付けば、アズマの肩にもたれたまま眠っていた。静かな寝息が聞こえる。


 夜が更けていった。


「……あ」香織が窓の外を見た。「わたし、もう帰らなきゃ」


 アズマは、肩にもたれて眠るナギサを、そっと抱え直した。軽い。痩せすぎだ。奥の部屋へ運んで、布団に寝かせる。ナギサは小さく身じろぎしたが、起きなかった。


 戻ると、香織が立ち上がっていた。少しふらつく。


「飲みすぎだ」


「あんたが美味しいの出すからでしょ」


 香織は戸口へ向かった。一度だけ振り返る。頬が赤いせいか、いつもより真っ直ぐアズマを見た。


「……来てくれて、よかった」


 それだけ言って出ていく。足音は少し覚束なかった。やがて聞こえなくなる。


 部屋には静けさだけが残った。


 ふと、香織の言葉を思い出す。ナギサは体調を崩していた。


 様子を見ようと、奥の部屋を覗いた。布団が乱れている。ナギサの姿はない。


 一抹の不安が胸をよぎった。さっき寝かせたばかりだ。足音を殺して廊下を歩く。木の床が小さく軋んだ。


 廊下の突き当たり。縁側に、小さな影があった。


「ナギサ。こんなところにいたのか」


 ナギサは縁側に座り、夜空を見上げていた。


 アズマも、つられて空を見る。


 いつもの夜空ではなかった。淀んだスモッグが風に流されている。雲の切れ間から、青白い光が地上へ落ちていた。


 月だった。


 この世界では、めったに見られない。しかも大きい。低く、近く、膨らんだ満月が終末の世界を静かに照らしている。


「綺麗だ」


 思わず声が漏れた。


 ナギサが振り返る。月明かりに照らされた白い髪が淡く光っていた。ナギサは少しだけ笑った。


 アズマは隣に腰を下ろした。夜風が冷たい。ナギサが小さく肩を震わせる。アズマは何も言わず、その身体を引き寄せた。痩せた肩が腕の中に収まる。


 二人とも、しばらく黙っていた。


 ふと、師匠の言葉を思い出す。


 昔、法を破って酒を造っていた連中は、月明かりだけを頼りに蒸留を続けたという。だから、その酒はムーンシャイン。月の輝き。それを造る者は、ムーンシャイナー。


 アズマは自分の手を見た。


 今日も人を殺した手だった。その同じ手で、酒を造っている。香織が旨そうに飲んでいた。


 それで、十分な気がした。


 月が雲に飲まれていく。光が少しずつ薄れていった。


 アズマはナギサを抱いたまま、最後の光が消えるまで夜空を見上げていた。


 耳鳴りは、いつの間にか、止んでいた。

光あれ!


『旧世界の禁書』より

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