月の輝き
脱衣所の板張りが、足の裏に馴染んだ。
十年ぶりの感触だった。コクソウの来客棟、奥の風呂場。変わっていない。桶も、蛇口の位置も、壁の染みも。
アズマは桶に湯を汲んで、頭から被った。黒ずんだ水が足元に広がった。もう一杯被る。まだ黒い。三杯目でようやく普通の色になった。
湯船に足を入れると、少し茶色い湯が揺れた。コクソウの水源は鉱山近くの土地なので鉄分が溶け出ている。健康に害はないが、一見ではぎょっとする色だった。
アズマは肩まで沈み、目を閉じる。
緩んだ影響か身体の芯が震えていた。恐怖と言えばいいのか。興奮の名残と言えばいいのか。どちらでもよかった。
夜明け前に殺したならず者たちが脳裏をよぎる。
正当防衛と言ってしまえば、それまでだ。
だが、人を殺すのは命を奪う行為だった。決して気持ちの良いものではない。
殺らなければ、殺られる。
それでも、本当にあれしかなかったのか。
瞼の裏に浮かぶのは、死んだ男たちの顔だった。何度経験しても変わらない。そのたびに、自問自答を繰り返す。
答えの出ない問いを振り払い、アズマはナギサのことを思い出した。
まだ幼い少女。守るべき相手がいたことは、救いだった。
銃声が、まだ耳の奥に残っている。耳鳴りがやまない。
実戦でイヤマフを付けるわけにもいかない。そんな間抜けな光景を想像して、少しだけ笑った。
湯気が天井へ消えていく。しばらくそうしていた。
風呂から上がると、廊下に灯りが漏れていた。
戸が開く。
和服を着た女が、三つ指をついて頭を下げた。結んだお下げが畳に垂れる。
「お待たせしました」
アズマは固まった。
女も顔を上げて固まったが、やがて口元だけが震えた。
「き、来てたなら早く言ってよぉ」
「交易で来ただけだ」
「……それが理由になるん?」
香織は膳を持って部屋へ入る。アズマは頭を掻きながら後に続いた。
畳に膳が置かれる。味噌汁。焼いた塩漬け肉。糠漬け。雑穀飯。湯気が立っていた。
「はやく食べて」
アズマは座り、箸を取った。一口食べる。
「……旨い」
「……そう」
香織は膳の端を整え、少し離れた場所へ座った。視線は膳の上に落ちている。
「ナギサは?」
「あの子なら先に食べさせたわ。体調悪いって言ってたし」
「そうか。大丈夫なのか」
「もう寝てるわよ。疲れてたみたいね」
しばらく、咀嚼音だけが続いた。
「四年ぶりだね」
香織がぽつりと言った。
「そうだな」
「少し変わった?」
「どうだろうな」
香織が笑う。昔と同じ笑い方だった。
「ちょっと痩せたね」
「そうか」
「……そうだよ」
それ以上は言わなかった。
食事を終えると、香織が膳を片付け始めた。
「長く居る?」
「いや」
「そっか」
返事は早かった。香織はアズマを見ないまま立ち上がる。
皿を片付ける音がして、しばらくして戻ってきた。また少し離れた場所へ座る。
「ねえ。荷物、お酒でしょ」
「ああ」
「何本持ってきたの」
「四十七」
「そんなに」
香織が目を丸くした。
「ウチにも回してくれる?」
「サトウさん次第だ」
「うん」
少し黙る。
「一本だけ見てもいい?」香織が言った。「わたし、交易やってるから。あんたの酒、ちゃんと見たことなくて」
アズマは木箱から一本取り出した。透明な液体が灯りに揺れる。
香織は栓を抜き、香りを嗅いだ。
動きが止まる。
もう一度嗅ぐ。湯呑みに注ぎ、灯りに透かす。口に含む。飲み込む。
沈黙。
「……なにこれ」
「なにって」
「なにこれ!?」
声が跳ねた。
「七十超えてる。二回通したでしょこれ」
「ああ」
「ウチに回ってくるやつと全然別物なんだけど!」
「七十三だ」
「七十三!?」
廊下の奥で戸が擦れた。
ナギサだった。寝間着姿のまま目を擦っている。
「……どうかしましたか」
「あ、ごめんね。起こしちゃった」香織が苦笑する。「アズマの酒が、あんまりすごくて」
ナギサは湯呑みと木箱を見た。それから香織の隣へ座る。
「おいしいんですか、それ」
「飲めないよ。子供は」香織が笑った。「でも、すごいの」
ナギサがアズマを見る。
「アズマさんが作ったんですか。あの蒸留器で」
「ああ」
香織が二人を見比べた。
「……仲、いいんだね」
「成り行きだ」
ナギサが少しむくれた。
「成り行き、じゃないです」
香織がくすりと笑った。白い髪を、そっと撫でる。
「そうだね。成り行きでここまで面倒見てたら、ただのお人好しだもん」
ナギサがちらりとアズマを見る。アズマは目を逸らして、湯呑みに口をつけた。
ナギサは何か言いたげに口を開き、結局閉じた。けれど、むくれた顔はもうほどけていた。
「四十七本、全部この出来?」香織が話を戻す。
「ばらつきはない」
「これは売れるわ……」香織が呟く。
「『オックス』のやつら、これ見せたら飼料の値、言い値で通せるよ」
アズマは肩をすくめた。
「別に。転売されても俺には関係ない」
「もう、そういうとこだよ」
「作って売れたら、それでいい」
香織は呆れたように息を吐いた。
「ほんと、変わってないね」
アズマは荷物からスキットルを取り出した。銀色の携帯瓶だった。
「これも飲むか。新作だ」
「……それも商品?」
「シルバーラム」
湯呑みに注ぐ。ほんのり琥珀色だった。
香織は香りを嗅ぐ。
「……甘い?」
「少しな、モラセスで作った」
香織は口に含んだ。今度はゆっくり味わう。
「……美味しい」
静かな声だった。
「ウイスキーより好きかも」
「お前向きだと思った」
香織が顔を上げた。
「……え」
「いや」アズマは目を逸らした。「なんとなく」
香織は何も言わなかった。ただ、少しだけ嬉しそうだった。
それから、なかなか腰を上げなかった。
一杯のつもりが、二杯になり、三杯になった。ラムの甘さに頬が赤くなる。
昔のコクソウの話をした。井戸端で遊んだ話。薪割りを押し付けられた話。
ナギサは黙って聞いていた。知らない名前。知らない場所。知らなかったアズマの話。
やがて瞼が重くなる。気付けば、アズマの肩にもたれたまま眠っていた。静かな寝息が聞こえる。
夜が更けていった。
「……あ」香織が窓の外を見た。「わたし、もう帰らなきゃ」
アズマは、肩にもたれて眠るナギサを、そっと抱え直した。軽い。痩せすぎだ。奥の部屋へ運んで、布団に寝かせる。ナギサは小さく身じろぎしたが、起きなかった。
戻ると、香織が立ち上がっていた。少しふらつく。
「飲みすぎだ」
「あんたが美味しいの出すからでしょ」
香織は戸口へ向かった。一度だけ振り返る。頬が赤いせいか、いつもより真っ直ぐアズマを見た。
「……来てくれて、よかった」
それだけ言って出ていく。足音は少し覚束なかった。やがて聞こえなくなる。
部屋には静けさだけが残った。
ふと、香織の言葉を思い出す。ナギサは体調を崩していた。
様子を見ようと、奥の部屋を覗いた。布団が乱れている。ナギサの姿はない。
一抹の不安が胸をよぎった。さっき寝かせたばかりだ。足音を殺して廊下を歩く。木の床が小さく軋んだ。
廊下の突き当たり。縁側に、小さな影があった。
「ナギサ。こんなところにいたのか」
ナギサは縁側に座り、夜空を見上げていた。
アズマも、つられて空を見る。
いつもの夜空ではなかった。淀んだスモッグが風に流されている。雲の切れ間から、青白い光が地上へ落ちていた。
月だった。
この世界では、めったに見られない。しかも大きい。低く、近く、膨らんだ満月が終末の世界を静かに照らしている。
「綺麗だ」
思わず声が漏れた。
ナギサが振り返る。月明かりに照らされた白い髪が淡く光っていた。ナギサは少しだけ笑った。
アズマは隣に腰を下ろした。夜風が冷たい。ナギサが小さく肩を震わせる。アズマは何も言わず、その身体を引き寄せた。痩せた肩が腕の中に収まる。
二人とも、しばらく黙っていた。
ふと、師匠の言葉を思い出す。
昔、法を破って酒を造っていた連中は、月明かりだけを頼りに蒸留を続けたという。だから、その酒はムーンシャイン。月の輝き。それを造る者は、ムーンシャイナー。
アズマは自分の手を見た。
今日も人を殺した手だった。その同じ手で、酒を造っている。香織が旨そうに飲んでいた。
それで、十分な気がした。
月が雲に飲まれていく。光が少しずつ薄れていった。
アズマはナギサを抱いたまま、最後の光が消えるまで夜空を見上げていた。
耳鳴りは、いつの間にか、止んでいた。
光あれ!
『旧世界の禁書』より




