烙印
平地に出た瞬間、アズマは舌打ちをした。
撒けていない。
見渡す限りの荒野に、砂煙が三方から立ち上がっていた。右から二筋、左から一筋、前方からエンジンの唸りが風に乗って届いてくる。包囲だ。最初からこのルートを読んでいた。
「プランBだ」
キリシマが舌を鳴らす。
「だと思ったよ」
ハンドルを切る。バックミラーに廃墟群の影が映る。かつて街だった場所。入り組んだ路地、崩れたビル、瓦礫の迷路。逃げ込むならそこしかない。
「ナギサ、伏せたままでいろ」
「はい」
声は震えていなかった。アズマはそれだけで十分だと思った。
廃墟に入った瞬間、追手のエンジン音が反響して方向が掴みにくくなる。アズマはそれを利用しながら路地を縫う。狭い道、崩れた壁、視界を塞ぐ瓦礫の山。
バックミラーに三台。まだいる。
「キリシマ、右の二階」
「見えてる」
ライフルの銃声。バイクの一台が横転した。アズマは同時にリボルバーを窓外へ向け、先頭の運転手を撃ち抜く。残り一台が急ブレーキを踏んだ隙に、ジープを路地へ滑り込ませた。
静寂。
エンジンを切る。風の音だけが残った。
「……撒けたか」
キリシマがボトルを傾ける。
「まだだ」
彼の直感は正しかった。
五分もしないうちに、廃ビルの影から軽バンが姿を現した。ドクロのペイント。荷台に三人。火炎瓶を持っていた。
「しつこい連中だな」
キリシマが呟く。アズマは奥歯を噛んだ。数が減っていない。補充している。つまりこの廃墟に最初から別働隊を置いていた。
追い込まれている。
ナギサが後部座席から身を乗り出し、工具箱を漁り始めた。
「何してる」
「ちょっと待ってください」
取り出したのはワイヤーだった。太さは五ミリほど、長さは三メートル近くある。
「アズマさん、速度を落とせますか」
「どのくらい」
「バイクが追いつくギリギリまで」
アズマは一瞬だけナギサを見た。何を考えているか分かった瞬間、前を向いた。
「分かった」
軽バンが距離を詰めてくる。荷台の男が火炎瓶を振りかぶる。キリシマが一発、振りかぶった腕を狙い撃つ。火炎瓶が荷台で砕け、炎が広がった。軽バンが制御を失い、廃ビルの壁に激突する。
残ったバイク二台が路地を縫って迫ってくる。
「今です」
ナギサがワイヤーの片端を助手席のヘッドレストにしっかりと巻きつけた。もう一端を窓から外へ出し、路面すれすれに垂らす。細い腕が風にさらされる。焼き印が光の中に晒された。
アズマは速度を落とした。
バイクが追いついてくる気配。タイヤの音が近づく。近づく。
「今っ」
アズマが急加速した瞬間、ワイヤーがピンと張った。先頭のバイクのタイヤが絡め取られ、派手に横転する。巻き込まれた後続のバイクが瓦礫に突っ込んだ。
金属が路面を削る音が響き、砂煙が上がった。
アズマは前を向いたまま一言漏らした。
「えげつないことしやがる……」
ナギサが息を切らしながら窓を閉める。
「効きましたか?」
「効きすぎだ」
キリシマが後部座席で口笛を吹いた。
「お嬢ちゃん、俺より頭いいな」
「別に、大したことは……」
ナギサが首を振った。頬が上気していた。
その隙にキリシマがジープから飛び降り、横転したバイクに歩み寄った。車体を起こし、エンジンをかける。一発でかかった。
「もらっとくわ」
「戦闘中に何やってんだ」
「ちゃんと見張りながらやってる」
涼しい顔でバイクに跨り、ライフルを肩に掛け直した。
だが終わりではなかった。
廃墟の奥から新たなエンジン音。そして徒歩の人影が瓦礫の上に立った。パイプ銃を構えている。
アズマは地図を脳内で展開する。この廃墟の構造、出口、死角。三秒で答えを出した。
出口は北だ。
「突っ切るぞ」
ジープが唸りを上げ、瓦礫を踏み砕きながら北へ向かう。キリシマのバイクが並走する。パイプ銃の銃声が後方で響く。弾が車体をかすめた。
路地の出口が見えた瞬間、一人の男がジープの前に飛び出した。捨て身の突っ込みだった。アズマは急ブレーキを踏み、窓から銃口を向ける。
男が叫んだ。
「サイ様の命令だ──白髪のガキを──」
銃声。
男が倒れ、言葉が途切れた。
アズマはその断片を頭の中で繰り返した。
サイ。白髪。命令。
そして“灰被り”。
戦後、白い髪を持って生まれた人間をそう呼ぶ。珍しいが、それだけだ。利用価値があるとは聞いたことがない。なのになぜここまでする。
白い髪だけじゃない。何かがある。
廃墟を抜けた先、開けた道に出る。残った追手が後を追うが、速度が違った。振り切るのに時間はかからなかった。
川沿いの橋の手前でジープを止めた。
三人で川沿いに腰を下ろし、水を飲んだ。しばらく誰も喋らなかった。風が川面を撫でる音だけが続いた。
キリシマが立ち上がったのは、空が白み始めた頃だった。鹵獲したバイクに跨り、ライフルを肩に掛ける。
「俺はここまでだ。飯より美味い酒だったよ」
「毎度あり」
アズマが手を上げた。キリシマはナギサに目をやる。
「お嬢ちゃん」
「はい」
「その髪、隠せる時は隠しておけ」
ナギサがフードを握った。
「烙印みたいなもんだ。どこにいても目立つ。お前を狙う連中はまだいる」
それだけ言って、バイクを発進させた。砂煙が上がり、朝霧の中に消えていく。エンジン音が遠ざかり、川の流れる音だけが残った。
ナギサがフードを深く被り直した。白い髪が隠れる。
「……烙印」
小さく繰り返した。アズマはその横顔を一瞬だけ見て、前を向いた。
「気にするな」
「でも」
「行くぞ。もう少しだ」
ナギサは何か言いかけて、やめた。助手席に乗り込み、荷物を膝に抱える。
ジープが走り出す。しばらくして、丘の向こうに灯りが見えた。小さな、でも確かな灯り。
ナギサが窓に顔を近づけた。息が白く曇る。
「あれが……」
「ああ」
アズマはそれ以上何も言わなかった。ナギサも何も言わなかった。
ジープは夜明けの道を、灯りに向かって進み続けた。
白き髪の子は見るだろう。
誰も見ぬものを。
『失われた預言書より』




