第92話「見つけてもらうためよ」
勢いのままに、額と額をぶつける。なんかすごい音がしたような気もしたが、痛みは感じない。感じるのは全身の血が沸騰するような熱さ。あの男への憎悪と、倉伊という存在への悲しみだ。
私は、私はな、倉伊。お前とはわかりあえると思っていたんだ。何か根拠があったわけでもない、何を分かち合うのかもわからない。ただ近しいものを感じたのだ。一目見たときからお前のことが気になって気になって仕方なかった。
私は勘がいい方だ。きっと、知らず知らずのうちに倉伊の中に流れる半分私と同じ血を感じ取っていたのだろう。忌まわしい、自分でも消し去ってしまいたいと思ったほどのものを。いつか手首にカッターナイフを立てたことを、思い起こさせたのかもしれない。
「お前も私も、あの男の子どもだということは変わらない。どうしようもない事実だ! でもな、私もお前も命なんだよ!! 誰が何に怒っていようと、復讐を求めていようと、私たちは生きていていいんだ! あのクソ野郎のためなんかに人生使うな! 生きろ!!」
倉伊の母親の親族のことなんか知るか。生まれたのが使える能力者だからって、使い潰していいわけじゃない。母親本人ならまだしも、ただの親族風情が!
間近で見た倉伊の緑の瞳が雫を垂らした水面のように揺らめく。私が泣いているのかもしれない。目頭が熱いとかそういうのはないけれど、身体中が熱い。
揺らめく瞳の中で、倉伊も迷っているのだろう。迷っているのなら、生きてほしい。迷うということは、少しでも「生きたい」という気持ちがあるはずだから。
けれど、迷った最果ての倉伊の選択肢は、肩から先を黒い刃に変化させるというものだった。
「五十嵐さん」
至近距離でなければ届かなかったであろうか細い声で、倉伊が私の名を呼ぶ。私は倉伊の目を真っ直ぐ見ていたが、倉伊はその碧眼を閉ざしてしまった。
「僕は、生きたくても、もう長くないんだ」
「え」
虚を衝かれて、目を見開いた瞬間、捕まえていた手を切り裂かれ、倉伊は刃を大きく振りかぶる。
完全に隙ができた。私も。──倉伊も。
何が起こったかわからなかった。私はどん、と誰かに突き飛ばされ、地面に打ち付けられた。私と倉伊の間に立ちはだかっていたのは、意外すぎる人物だった。
倉伊は唖然として刃を寸止めしている。私は呆然と、その人を呼んだ。
「母さん……?」
「やっと見つけた」
私の母──五十嵐乙奈は倉伊の刃を恐れることなく、倉伊の頬に触れていた。母は私の呼び掛けに反応せず、倉伊に語りかける。
「ねえ、何故私が旧姓に戻らず、あの人の[五十嵐]という苗字を名乗り続けたと思う?」
それは、確かにずっと不思議に思っていた。
あの男は病死した。病名は覚えていないし、葬式もしなかったし、墓参りにも行ったことがない。私はあの男のことを忘れたかった。それでいて、一秒たりとも忘れようとはしなかった。なんであんな男が、平均寿命より若いとはいえ、病死程度で済んでしまうのか。理不尽に思った。きっと神様というものはいないのだろうと思った。
私ほどでないにしろ、込み入った事情の子どもの一人や二人くらいは周りにいて、両親が離婚して母方についた子は苗字が変わるというのをぼんやり認識していた。
あの[五十嵐]の子ども、と言われるのが嫌で、私は母に何度か問いかけたことがある。
「どうして名前を変えないの? あいつは死んだのに」
「あの人が死んだからよ」
母の言葉の意味を私は理解しかねた。そもそもあんなクズ男と結婚するような物好きな母である。尊敬はしているが、基本的にずれていると感じていた。私も他者とずれているところがあるから人のことは言えないけれど。
ただ、倉伊への解答で、私は母の思慮深さを知った。
「見つけてもらうためよ」
「え……」
「あの人のことですもの。私以外に手を出して、外に女なんて十人以上いてもおかしくはないわ。あなたのように子どもだってよそに何人作っていることか。あの人はひどい人だから、あの人を恨んでいつか誰かが来ることは想像に易いわ。だからね、あなたのような子が、見つけられるように、私は[五十嵐]という名前を捨てなかったの。
あの人が残した咎。その矛先をちゃんと、わかっていてあの人を選んだ私に向けてもらえるように」
そういうことだったんだ。
五十嵐李王は死んだ。もうどこにもいない。けれど、五十嵐李王への恨みは消えることはない。何なら数代先まで続いていくだろう。そういうレベルであの男はクソ野郎だった。けれど、ぶつける相手のいない恨みをどこにぶつけたらいいのか。そうなったとき、人はきっとどうしようもない虚しさに囚われる。
だから、母はそれら全ての矛先を自分で受け入れようとしたのだ。五十嵐李王が死んだから。その忌み名を継いで、引き受ける。最初から母はそういう覚悟であいつの伴侶となったのだ。
倉伊の表情が戸惑いを浮かべる。そうだろう。倉伊の言っていたことを言葉そのままに受け取るなら、五十嵐乙奈は標的ではないのだから。
倉伊の役目はあくまであの男の血を絶やすこと。五十嵐乙奈は五十嵐李王の血を引いてはいない。
戸惑う倉伊に、母は優しく微笑みかける。
「私も母の端くれですもの。子どもは守らせてもらうわ。あの人がしたことを、許して、なんて言わない。ただ……あなたがあの人の罪を背負うことはないの」
母は倉伊を抱きしめた。
倉伊はただ呆然と、されるがままで、変化していた腕からひとひら、黒い羽根が落ちる。
「私が背負うから、舞華の言ったように、自分のために生きてくれないかしら。どんなに短い時間でも、あなたの時間を過ごしてほしい。あなたもきっと、優しい子だもの」
その[も]というのは、誰とかけていたのだろう、と考えていると、遠くの方から声がした。
「五十嵐さん、五十嵐さん、五十嵐さん!」
「一回で聞こえるわ、ポンコツ女!」
普段なら「誰がポンコツですって!」と返ってくるところだが、ポンコツ女──半田の声には鬼気迫るものがあった。
半田がこう告げる。
「五十嵐さん、手伝ってください! 咲原くんが、失明したんです!!」
五十嵐舞華、隼人の母親
五十嵐乙奈[いがらしおとな]
やっと名前を出せました……




