第10話:『闇のあわいにて』
崩落の音は、地面の底深くから響き渡る重低音となって、地上へと届いていた。
神聖帝国アスタルゴの象徴であった『神聖大聖堂』。
その巨大な白亜の屋根が内側から崩れ落ち、無数の大理石の柱が折れて巨木のように傾いていく。尖塔の頂に掲げられていた純金の十字架が、虚しく宙を舞い、砕け散った石畳の煙の中に没していった。
地下数千メートルの最深部で稼働していた巨大古代水晶『アスタルゴ神聖核』が爆砕し、そこに繋がれていた何百本もの魔導管がことごとく破裂したことによる、必然の自壊であった。
神聖核の中に数百年間にわたって閉じ込められ、教皇庁によって「聖なる加護」の燃料として絞り尽くされてきた数百万の生命力と魂の残滓。それらがまばゆい黄金と純白の光の濁流となって大聖堂の亀裂から噴き出し、空へと向かって一気に解体・解放されていく。
天を突く光の柱。
それは、教皇ルキウスが誇った「絶対の支配体制」の終焉を告げる、あまりにも壮絶な葬列の光であった。
その光の柱の渦中から、ふたつの影が静かに歩み出てきた。
黒い防寒コートの裾を夜風になびかせる男、クラウス。
その右腕は、光を反射して怪しく光る黒銀の魔導義手。両脚もまた、金属骨格と緻密な刻印回路で補強された異形の義足である。
彼の隣には、大きめの黒ローブを深く羽織り、その背中から四本の白銀の魔導アームを静かに揺らす銀髪の少女、エレノアが寄り添っていた。
ふたりの胸元に刻まれた『共鳴・等価倍加の刻印』は、かつて殺意と激痛で黒と金の凶暴な稲妻を散らしていた姿から一転し、静かな脈動へと落ちついていた。
教皇ルキウスの自爆。神聖核の完全破壊。
帝国全体を縛り上げていた生体搾取システムの解体が完了したことで、刻印の中に蓄積されていた巨大な「負債のエネルギー」は、完璧に相殺・精製されていたのだ。
「……マスター」
エレノアが、透き通る声で小さく呟いた。
彼女の銀色の瞳が、大聖堂の崩落の隙間から溢れ出し、王都全域へと降り注ぐ光の雨を見つめている。
「光が……還っていきます。あそこに閉じ込められていた……無数の命の欠片が」
「ああ」
クラウスは短く答えた。
彼の手の中で、黒銀の義手の指先を静かに握り直す。
かつて、右腕を切断され、両脚を焼き溶かされた瞬間に彼を支配していた、脳髄を焦がすような怒りと灼熱の殺意。それは今、嘘のように消え去っていた。
胸の中に残っていたのは、怒りでも歓喜でもない。
すべての計算工程を終え、巨大な建築物を完全に解体し終えた後に残る、極低温の「静寂」だけであった。
クラウスとエレノアは、崩れ落ちる大聖堂の巨石段を一段ずつ下り、煙と血の臭いが充満する王都中央大広場へと戻ってきた。
広場を埋め尽くしていた数万の民衆は、ひざまずき、涙を流しながら空を見上げていた。
降り注ぐ生命力の光の雨。
それが自らの身体に触れた瞬間、民衆は長年にわたって教皇庁から精神と生命力を吸い取られていたことで生じていた、正体不明の疲労感や虚無感が消え去っていくのを肌で感じていた。
彼らが「神の加護」と信じ込んでいたものが、いかに自らの生命力を削って返却されていた偽りの救済であったかを、身をもって理解したのだ。
民衆の瞳から、教皇庁への狂信的な眩み(くらみ)が消え去っていた。
そこにあるのは、自分たちの足で立ち、自分たちの意思で生きなければならないという、厳しくも真実の現実感であった。
そして、その民衆の視線が集まる広場の中央、潰れた噴水の泥の中に――かつての「英雄」と「聖女」の残骸が横たわっていた。
勇者レオンハルト。
自分の全開の攻撃『聖光・神威断ち』の「二倍の過剰反動」によって、右腕を肩口から爆砕され、左手と全指骨を一千六百キログラムの圧力で叩き潰され、背骨を砕かれて下半身不随となった男。
彼は、崩れ落ちた大聖堂の瓦礫の影で、泥と自らの血の池の中に顔を半分沈ませたまま、ピクピクと痙攣を繰り返していた。
「ヒゅー……ヒゅー……」
潰れた気管から漏れる、虚しい空気の音。
両腕を失い、下半身の感覚を完全に塞がれた彼は、地を這うことすらできない。
かつて金髪をなびかせ、神聖剣『ルミナス』を掲げて全民衆から称賛を浴びていた男が、いまや自分の排泄物と血液に塗れた肉片として、民衆から冷酷な見下しの視線を浴び続けなければならない。
彼が手放さなかった社会的栄誉も、英雄の誇りも、すべての威光は完全に死に絶えていた。
彼が死ぬまで背負うのは、仲間を裏切り、避難民を見殺しにした「詐欺師と残虐者」という永遠の汚名だけであった。
そして、そのすぐ隣。
聖女セレスティア。
己の愛用した拷問聖具『聖導神経衰滅の棘』の三十本の針を体内に打ち込まれ、二百倍の知覚過敏ループと一六〇万ユニットの過虐データの二倍を叩き込まれ続けた女。
二十分間の無限の拷問の果てに、彼女の全神経網は過剰な生体電流で物理的に焼き切れ、壊死を起こしていた。
外傷は、どこまでも美しく、傷一つない。
しかし、彼女の脳と精神は完璧に砕け散り、言葉を発することも、思考することも、誰かを蔑む笑みを浮かべることもできない「意思なき肉体(人間廃業)」へと成り果てていた。
彼女の濁った黒い瞳は開かれたまま、泥の上で空虚に空を見つめている。
かつて神聖帝国で最高位の聖女として君臨し、他人の苦悶をワイン片手に愛でていた女が、一生を意志のない肉の置物として過ごすという、完璧な自家中毒の末路。
クラウスは、その二人の残骸の前に立ち止まった。
黒銀の義足の靴底が、泥を踏みしめる。
レオンハルトの濁った眼球が、わずかに動いた。
彼は動かない顎をガタガタと震わせ、血の混ざった泡を吐きながら、クラウスを見上げた。その瞳には、かつての傲慢さや自己愛などは微塵も残っておらず、ただ人間としての底知れぬ「恐怖」と「絶望」が宿っていた。
「……あ……あ……っ」
レオンハルトの口から、掠れた声にならない音が漏れる。
殺してくれ、と彼の瞳が叫んでいた。この地獄の無力感と、民衆からの侮蔑の視線から、一刻も早く死によって解放してくれ、と。
しかし――クラウスの表情は、どこまでも冷ややかであった。
彼は、黒銀の右義手をポケットに入れたまま、静かに宣告した。
「殺さない」
その一言が、レオンハルトの最後に残された安らぎへの希望を、無慈悲に打ち砕いた。
「お前は死ぬことすら許されない。……お前が踏みにじってきた者たちの無念と、お前自身の罪の重さを……その動かない肉体と、失われた両腕の痛みの記憶と共に、永遠に噛み締め続けて生きろ」
クラウスは、それ以上彼らに言葉を与えることはなかった。
視線を切り、完全に二人の存在を自らの人生から「過去の不要物」として切り捨てたのだ。
復讐は、終わった。
第一の仇・魔導師カイ――理論の過剰反動による肉体破裂で死亡。
第二の仇・勇者レオンハルト――全開威力の二倍反動による四肢爆砕・背骨粉砕・下半身不随・社会的失脚。
第三の仇・聖女セレスティア――自作拷問具の二倍知覚過敏ループによる全神経焼失・精神崩壊。
そして、黒幕・教皇ルキウス――生体搾取システムの二倍過剰負荷による細胞異常増殖・破裂・自爆。
自分を奈落へ突き落とした者たち全員への、理詰めの徹底的な「二倍の返却」は、寸分の狂いもなく完全に遂行されたのだった。
「行きましょう……マスター」
エレノアが、クラウスの黒銀の右手に自分の手を重ねた。
彼女の白く細い指先が、クラウスの金属の指と深く絡み合う。
「ああ」
クラウスは首を縦に振り、崩壊した大聖堂と、混乱から立ち上がり始めた王都中央大広場に静かに背を向けた。
ズン……、ズン……。
黒銀の義足が石畳を踏みしめる重厚な足音が、広場を離れ、王都の外縁へと向かって遠ざかっていく。
民衆は、誰一人としてその二人の復讐者の歩みを遮ろうとはしなかった。
彼らは知っていたのだ。この二人こそが、自分たちを数百年間にわたって縛り付けていた偽りの神話を打ち砕き、絶対の闇を葬り去った「地獄からの回収人」であったことを。
恐怖と、畏怖と、静かな感謝の交ざり合った沈黙の中で、数万の視線が、去り行く二人の背中を見送っていた。
王都アスタロトの巨大な城門をくぐり抜け、二人は外の世界へと踏み出した。
城門の外に広がるのは、かつて帝国の繁栄を支えるために耕やされていた広大な平野であった。
しかし、教皇庁の結界が消滅した今、空を覆っていた人工的な快晴の魔法は消え去り、空には本物の雲が流れ、本物の風が大地を吹き抜けていた。
草木が風に揺れる音。湿った土の臭い。
それらは、魔法の理屈によってコントロールされた偽りの自然ではなく、荒々しくも美しい、ありのままの世界の姿であった。
クラウスとエレノアは、ただあてもなく、街道を西へと向かって歩き続けた。
陽が沈み始め、空が茜色から深い群青色へとグラデーションを描いていく。
街道の途中で、クラウスはふと立ち止まり、自らの黒銀の右義手を見つめた。
義手の表面に刻まれた『共鳴・等価倍加の刻印』。
かつて復讐の渦中においては、敵の攻撃力や感情を吸収して黒と金の不吉な稲妻を放っていたその刻印は、今や深く落ち着いた、静かな漆黒の光を宿していた。
「……静かだな」
クラウスの口から、白く冷たい息が漏れた。
彼が呟いたのは、周囲の環境のことだけではなかった。
己の心の中に、何年間も吹き荒れていた激しい怨念と狂気。それが、すべての復讐を終えたことで完全に鎮火し、空っぽになった胸の奥の感覚のことであった。
「虚しいか……と聞かれれば、違うな」
クラウスは自嘲気味に、薄く口元を緩めた。
「後悔も、達成感すらない。……ただ、なすべき仕事を完璧に終えたという……冷たい納得だけがある」
復讐を果たした者が陥るとされる、お約束の「虚無感」や「自己嫌悪」など、クラウスには存在しなかった。
彼は自分の行いが正義だとも、救いだったとも思っていない。ただ、自分から奪われた負債を理詰めで取り立てたという、明確な計算の完了。
それ以上でも、それ以下でもなかったのだ。
そのクラウスの横に、エレノアが寄り添うように身体を寄せた。
彼女は自分の黒ローブをそっと開き、自分の胸の傷跡と刻印を、クラウスの右手に押し当てた。
――ジュウ……。
かすかな温もりが、金属の義手を通じてクラウスの神経へと伝わってくる。
ふたりの胸の『共鳴刻印』が、かすかな金の脈動を交わし合い、互いの体温と魔力を穏やかに巡らせていた。
「マスター……。私は……幸せです」
エレノアの口から、鈴を転がすような、穏やかな声がこぼれ落ちた。
彼女の銀色の瞳には、かつてセレスティアの地下実験棟で声を奪われ、カプセルの中で漂っていた頃の虚無や絶望の色は、微塵も残っていなかった。
「幸せ……だと?」
「はい……」
エレノアは、クラウスの黒銀の指先を、愛おしそうに自分の頬へと寄せた。
「あの暗いカプセルの中で……私はただの『物』でした。名前もなく、感情もなく……ただ死を待つだけの失敗作でした。……でも、あなたが私を見つけ出し、私に名前をくれ、私と『痛み』を共有してくれました」
エレノアの顔に、ささやかで、しかしどこまでも美しい「微笑み」が浮かんだ。
セレスティアへの過虐の記憶も、激痛の反動も、いまや彼女の体内で完全に精製され、彼女自身を動かす強靭な「生のエネルギー」へと昇華されていたのだ。
「あなたと共に地獄を駆け抜け……あなたの仇を解体した……。私は、あなたによって『人間』になれました。……あなたと痛みを分け合えたこと……それこそが、私の生きている証です」
狂気から始まった契約。
互いの激痛を半分ずつ引き受けるという、残酷で理不尽な共鳴回路。
しかし、その不吉な絆こそが、世界から捨てられた二人の「人間」を、地獄の底で固く繋ぎ止める唯一の救いとなっていたのだった。
クラウスは、エレノアの白く細い手を、黒銀の右義手で静かに握り返した。
「そうか……。なら、これでいい」
クラウスの瞳にも、かすかな温もりが宿っていた。
彼らは、光の当たる「正義の英雄」にはなれなかった。
民衆から称賛され、歴史に名を残す光の者たちにはなれない。彼らは最初から、世界から廃棄され、泥と血の中で復讐を遂げた「闇の者」であった。
だが、それでよかった。
偽りの光に満ちた王国など、彼らには最初から必要なかったのだから。
「行こう、エレノア」
「はい……マスター。どこへでも……あなたと共に」
二人は、再び歩み始めた。
街道は国境を越え、帝国の支配の及ばない、誰も立ち入らない「世界の果て」へと向かって続いていた。
日の光が完全に沈み、空には果てしない星々が散りばめられた、静かな夜が訪れようとしていた。
光の届かない、暗闇のあわいへ。
ふたりだけの静かな生を歩むための旅路が、今、静かに始まろうとしていた。
王都アスタロトが落日と爆炎の残煙の中に没してから、数ヶ月の月日が流れていた。
神聖帝国アスタルゴと呼ばれていた広大な国家は、教皇ルキウスの自爆と『アスタルゴ神聖核』の爆砕によって、その支配構造を根底から失っていた。
各地に置かれていた教皇庁の審問駐屯地や聖導結界塔は、逆流した二倍の過剰負荷によってことごとく倒壊・破砕していた。教皇庁が「神の加護」と偽って民衆から生き血のように吸い上げていた生命力が世界全体へと還元された結果、人々は長年の洗脳と依存から目を醒まし始めていた。
もはや、民衆を欺く「絶対の英雄」も「慈愛の聖女」も存在しない。
病が治る奇跡も、魔物を一瞬で退ける不自然な結界もない。民衆は自らの足で立ち、自らの手で田畑を耕し、自らの知恵で魔物の脅威と戦うという、当たり前で力強い人間本来の生を取り戻しつつあった。
破滅した王都の噂は、風に乗って大陸の隅々まで広がっていた。
自分たちの生命力を糧にして肥え太っていた教皇庁の醜悪な真実。
民衆を見殺しにして手柄を横取りし、仲間を惨殺して肥やしにしていた勇者レオンハルトの末路。
孤児たちを買い集めて過酷な生体実験を繰り返し、悪魔の拷問具を嗜んでいた聖女セレスティアの発狂。
それらすべての欺瞞を打ち砕き、地獄の底から這い上がって裏切り者たちに完璧な「二倍の対価」を取り立てて消えた、黒銀の義肢を持つ術士と異形の少女の伝説。
人々は、その二人を恐れと敬意を込めて『黒き回収人』、あるいは『黄昏の二人』と呼んだ。しかし、その姿を再び見た者は、世界のどこにもいなかった。
神聖帝国の旧国境を遥かに超えた西の果て。
険しい岩山が連なり、年中を通して冷たい霧と静寂が立ち込める『黒曜の谷』。
教皇庁の威光も、人間の王国の関心も届かないその果ての地に、一軒の質素な石造りの家がぽつりと建っていた。
谷底を流れる清らかな渓流の音と、風が針葉樹の枝を揺らすかすかな擦れ音だけが響く、静かな静寂の世界。
石造りの家の前の小さな庭で、カツン……、カツン……と重厚な金属音が鳴っていた。
黒い防寒コートを脱ぎ、作業用の粗末なシャツを纏ったクラウスが、黒銀の右義手で手斧の柄を握り、薪を叩き割っていた。
カァンッ! という鋭い音と共に、硬い乾木が見事に真っ二つに裂け、左右へと倒れる。
クラウスの右腕――黒銀の魔導義手は、肉体以上の精度と質量を持って、寸分の狂いもなく薪の重心を捉えていた。両脚の黒銀の義足もまた、濡れた土と苔の上に不変の安定感を持って踏み締められている。
ご都合主義の奇跡など、この世には起きなかった。
復讐を終えたからといって、失われたクラウスの右腕や両脚が元通りに生えてくるような安っぽい奇跡は存在しない。彼は今も、そしてこれからも、黒銀の義肢を身体の一部として抱え、激痛の記憶と共に生きていくのだ。
しかし、彼の顔に陰りはなかった。
薪を割るクラウスの額から流れる汗を、冷たい谷の風が優しく撫でていく。
「マスター……。お茶が淹れ終わりました」
家の中から、静かで透き通った声が聞こえてきた。
薄手の白いドレスの上に、黒いエプロンを掛けた少女――エレノアが、蒸気の上がる二つの陶器のカップをトレイに乗せて、庭へと歩み出てきた。
彼女の白く美しい銀髪が、谷風を受けて軽やかに揺れる。
彼女の背中からは、かつて戦闘で猛威を振るった四本の白銀の魔導アームが、今は静かに折りたたまれ、羽のように背中に寄り添っていた。
アームの先端は優しくトレイの端を支え、エレノアが歩く衝撃でカップが揺れてお茶がこぼれないよう、精密なスタビライザーとして働いていた。
彼女のうなじや腕に残る、過酷な生体実験の無数の傷痕。それらも消えることはない。
しかし、セレスティアの手によって打ち込まれたボルトや金属プレートは、クラウスの精密な刻印調整によって、彼女の身体に負担を与えない完璧な「体構成の一部」として再構築されていた。
「ありがとう、エレノア」
クラウスは手斧を木株に突き刺すと、黒銀の右手で丁寧にカップを受け取った。
湯気と共に立ち上る、野草の香ばしい香り。
二人は庭に設置された木製のベンチに並んで腰掛け、静かにカップに唇をつけた。
温かい液体が喉を通り、身体の奥へと染み渡っていく。
「いい味だ」
「よかったです……。谷の奥で見つけた新しい野草を……乾かして煮出してみました」
エレノアの顔に、ささやかな笑みが浮かぶ。
かつてカプセルの中で声を奪われ、自我を殺されていた少女の顔には、いまや豊かな感情の色彩が宿っていた。
彼女の銀色の瞳は、クラウスの横顔を愛おしそうに見つめている。
ふたりの胸元。
服の隙間から覗く胸の皮膚の上には、今もなお、黒と金の二色で描かれた幾何学模様――『共鳴・等価倍加の刻印』が静かに息づいていた。
しかし、その刻印の役割は、かつてとは完全に変化していた。
かつてこの刻印は、自分たちを痛めつけた敵へ「二倍の過剰負荷」を返却し、敵の肉体と精神を自滅させるための、凶暴な「債権回収システム」であった。
だが、すべての仇を解体し、復讐が完了した今。
返却すべき「負債」も、新たに発生する「殺意」もなくなったこの刻印は、二人の身体と魂を永久に繋ぎ止めるための、静かな『巡還回路』へと変質を遂げていたのだ。
クラウスが黒銀の義肢を動かす際に生じる、微かな神経の排斥痛。
エレノアが背中の魔導アームを維持する際に生じる、わずかな魔力負荷。
それらの日常的な小さな痛みが、胸の共鳴回路を通じて互いの身体へと巡り、半分ずつ綺麗に分散・吸収されていた。
痛みを分け合うこと。
それは、ふたりにとって「苦痛」ではなく、互いが今ここに生きているという「存在の証明」であり、互いを愛し合っているという唯一無二の「絆の術式」であった。
「……マスター」
エレノアが、小さく声をかけた。
「何だ?」
「王都での……あの最後の瞬間のこと……覚えていますか」
エレノアは、遠く東の空を見つめながら、静かに語り始めた。
「教皇の神聖核が崩れ去り……あそこに閉じ込められていた命の光が……空へ還っていったときのことです」
「ああ。覚えている」
「あの時……私の中に残っていた……昔の恐怖や寂しさが……完全に消えていくのを感じました」
エレノアは己の手を見つめた。
セレスティアによって名前を奪われ、『零七号』としてカプセルに繋がれていた日々。
毎日注射される腐食薬品の激痛と、背骨を削られる大槌の音。悲鳴すら上げられない壊された声帯。
あの日々のトラウマは、クラウスと共にセレスティアへ「二倍の知覚過敏」を返却し、彼女の自滅を共鳴回路で引き受けたあの瞬間に、完全に精製され、過去の記憶として昇華されていたのだ。
「セレスティアも……レオンハルトも……カイも……教皇も……。彼らはみんな、自分自身の『欲』と『誇り』の重さに耐え切れずに……自滅していきました」
エレノアの言葉は、恐ろしいほど正確に事象の本質を穿っていた。
「マスターが彼らを殺したのではなく……彼らが自分自身を解体したのです」
「そうだな」
クラウスは、黒銀の義手を静かに膝の上に置いた。
「カイは自分の魔法理論の完璧さを過信し、反動の逃げ場を無くして自爆した。レオンハルトは自分の英雄像を守ろうと全力で踏み込み、その二倍の衝撃で自らの腕と背骨を砕いた。セレスティアは他人を痛めつける道具に溺れ、自らその道具の知覚地獄へ落ちた。教皇は巨大な搾取システムを過信し、そのシステムの二倍の過剰負荷で破裂した」
クラウスの口元に、冷ややかな、しかしどこか晴れやかな笑みが浮かんだ。
「俺はただ……彼らが放った威力を、彼らの身体へ送り返すための『計算式』を置いただけだ。……彼らが撒いた毒の種が、二倍になって彼ら自身の実を結んだ。ご都合主義の奇跡などない。純然たる自業自得の結末だ」
因果応報。
他者の尊厳を踏みにじり、自分だけが安全な場所で笑おうとした者たちが辿り着く、物理法則の如き冷酷な終わり。
そのすべての精算を終えた二人は、いまや何の負債も残さず、この世界の果てで自分の人生を歩んでいた。
昼下がり。
ふたりは家から少し離れた、谷の澄んだ川辺へと散歩に出かけた。
クラウスが黒銀の義足で川の浅瀬を踏み越え、エレノアが背中の魔導アームを器用に伸ばして、川辺に咲く青い野花を摘み集める。
アームの先端の金属爪が、花茎を傷つけないよう繊細に力を加減し、一輪一輪丁寧に摘み取っていく。
かつて教皇庁の兵器として、人間の肉体を切り裂くために設計された殺戮のアームが、いまや花を摘み、お茶を淹れ、クラウスの身体を支えるための「優しい手」へと変わっていた。
「マスター、見てください」
エレノアが、摘み取った青い花束を嬉しそうにクラウスに見せた。
「綺麗な花だな。何という名だ?」
「わかりません……。帝国のアカデミーの本にも……載っていなかった花です」
「そうか。なら……お前が名前を付ければいい」
「私が……ですか?」
エレノアが銀色の瞳を丸くする。
「ああ。ここはお前と俺の場所だ。世界の分類など関係ない」
エレノアは少し考え込むように首をかしげ、やがて柔らかく微笑んだ。
「なら……『アビス・ルミナ』と呼びます」
「アビス・ルミナ……? 奈落の光か」
「はい。……私たちがいた暗い奈落の底で……最初に見つけた希望の花です」
クラウスの心が、静かに温かいもので満たされていく。
彼はエレノアの頭に黒銀の右手を乗せ、その銀髪を優しく撫でた。
エレノアは嬉しそうに目を細め、クラウスの胸元にそっと頬を寄せた。
ふたりの胸の『共鳴刻印』が、トクン、トクンと穏やかな二重奏を奏でる。
ふたりをつないでいるのは、可憐な奇跡でも、与えられた救いでもない。
あの日、奈落の底で交わした悪魔の契約。
激痛を分かち合い、仇を理詰めで解体し、地獄を共に駆け抜けたという、圧倒的な「生の共有」であった。
どんなに世界が彼らを「悪魔」と呼ぼうとも、どんなに彼らの身体に無残な傷と義肢が残ろうとも、ふたりにとっては、この痛みの共有こそが何よりも愛おしい救いだったのだ。
夕刻。
谷全体が、紫と金の深い黄昏の光に包まれていった。
石造りの家の中に明かりが灯る。
クラウスが暖炉に薪をくべ、黒銀の義手で火打ち石を叩くと、パチパチと橙色の暖かな炎が立ち上った。
室内には、乾燥させたハーブの香りと、スープの煮えるスープ鍋の湯気が満ちていた。
テーブルの上のランプの灯りが、壁にふたりのシルエットを大きく映し出している。
エレノアが鍋から温かい野菜スープを深皿に注ぎ、二人の席へと運んでくる。
かつて、王都の豪華な宮殿でレオンハルトやセレスティアたちが貪っていた豪奢な晩餐など、ここには存在しない。
あるのは、自分たちの手で集めた薪、自分たちの手で摘んだ野草、自らの足で歩んで手に入れた、質素で力強い夕食であった。
「いただきます、マスター」
「ああ、いただきます」
ふたりは向かい合って座り、静かにスプーンを動かした。
温かいスープが身体を温め、一日の疲れを解かしていく。
食事が終わると、クラウスは暖炉の前の革張りの大きなソファに深く腰掛けた。
エレノアは迷わず、そのクラウスの隣に腰を下ろし、彼の黒銀の右手に自分の体を預けるようにして寄り添った。
エレノアの背中の魔導アームがゆらりと伸び、クラウスとエレノアを後ろから包み込むように、暖かな金属の抱擁を作った。
「マスター……。私は……ずっと、こうしていたいです」
エレノアが、クラウスの胸に顔を埋めながら囁いた。
「ああ。ずっとこうしていろ。……もうお前を縛る鎖も、カプセルも、セレスティアの針もない」
「はい……。私を縛るのは……あなたの胸の刻印と……あなたの温もりだけです」
エレノアの手が、クラウスのシャツの胸元を開き、自らの胸をクラウスの胸の刻印へとぴったりと重ね合わせた。
――ジュウ……。
黒と金の光が、小さな蛍の光のように優しく室内を照らす。
クラウスの右肩の義手から伝わるかすかな痛みが、エレノアの体内へと巡り、エレノアの魔導アームの微かな不快感が、クラウスへと巡る。
互いの痛みを半分ずつ引き受け合い、互いの生命力を補い合う、完璧なる二人だけの小宇宙。
奇跡などいらない。
世界からの赦しなど、端から求めていない。
二人は、世界から切り離されたこの暗闇のあわいで、互いの存在だけを唯一の絶対として、静かに息づいていたのだ。
夜が深まっていく。
『黒曜の谷』の頭上には、満天の星空が広がっていた。
かつて神聖帝国の王都で輝いていた人工の魔法の光などではなく、本物の宇宙が放つ、澄み切った無数の星々の輝き。
その静寂の星空の下で。
旧神聖帝国アスタルゴの各地では、人々が教皇庁の支配から解放され、自分たちの新しい未来を模索し始めていた。
レオンハルトやセレスティア、教皇ルキウスの名は、歴史の教科書の中で「人々の生命力を吸い上げた愚かな独裁者たち」として、永劫の警戒と共に記録されていくことだろう。
そして、彼らを二倍の対価で解体し、姿を消した『黒き回収人』の噂は、やがて時代と共に都市伝説となり、暗闇の中に消えていく。
それでよかった。
クラウスもエレノアも、自分たちが歴史に名を残すことなど、何一つ望んではいなかったのだから。
二人が望んだのは、ただ一つ。
自分たちの尊厳を奪った者たちに、等価なる……いや、二倍の負債を取り立て、自分たちだけの「平穏」を取り戻すこと。
その目的は、完璧に、寸分の狂いもなく成就されたのだ。
暖炉の炎が、薪の爆ぜる音と共にパチリと弾けた。
クラウスは、腕の中で穏やかな寝息を立て始めたエレノアの銀髪を、黒銀の右義手で静かに撫で続けた。
エレノアの顔には、安らかな、何の恐怖もない無垢な寝顔が広がっていた。
彼女の背中の四本の魔導アームも、今は静かに力を抜き、二人を包み込む羽のように弛緩している。
クラウスは窓の外、静かな星空を見つめた。
かつて、信じた仲間に四肢を潰され、奈落の底へ叩き落とされたあの日。
激痛と絶望の中で、彼の心に宿ったのは、氷のように冷たい『殺意』だけであった。
しかし今、その殺意の果てに辿り着いたこの暗闇のあわいには、穏やかで、誰にも侵されることのない「生」が横たわっていた。
(俺たちの復讐は……終わった)
クラウスは心の中で、静かに呟いた。
(お前たちが求めた栄光も、権力も、偽りの神話も……すべて泥の中に消えた。……俺たちは、手に入れたぞ。お前たちが決して辿り着けなかった……本当の生を)
クラウスはそっと目を閉じた。
胸元で脈動する『共鳴・等価倍加の刻印』の、穏やかで温かい鼓動を感じながら。
黒銀の義肢の冷たさと、エレノアの体温の暖かさが混ざり合い、彼の意識を深い安らぎへと誘っていく。
光の届かない、世界の果て。
暗闇のあわいにて。
手足を奪われ、声を奪われた二人の復讐者は、互いの傷と痛みを愛おしく抱き締め合いながら、どこまでも穏やかで、どこまでも静かな、二人だけの永久の生を歩み続けていくのだった。




