第十一話 常識人
「大丈夫?」
気に入らない様子でしぶしぶ去って行く昴と銀蠅の後ろ姿を見送っていた鈴木に、やんわりとした声がかけられた。
我に返って振り返ると、例のエリート高校生が歩み寄ってくるところだった。
「大きなお世話だったかな」
「い、いえ……助かりました」
「よかった」
安心したように微笑む少年。
高慢で不真面目そうなさっきまでの印象はどこへやら。とげとげしいオーラもなくなり、その笑顔は爽やか好青年。オレンジジュースを片手に「果汁百パーセント」とでも言ってほしいものだ。そのギャップに鈴木は戸惑いすら感じた。
「あのぉ」と目の前で立ち止まったエリートにおずおずと鈴木は切り出す。「どちらさまなんでしょう? どこかでお会いしましたっけ?」
「ああ、悪い」
そうだった、と彼は鈴木の前で立ち止まると、姿勢を正した。
「俺は和幸」
和幸、と名乗られたところで、ピンとこない。鈴木は「はあ」と生返事をする。だから、誰だよ? と心の中でつっこみながら。
「あっちは」と和幸はちらりと背後に一瞥した。その視線の先には、ビデオカメラを片手に興奮した様子で辺りを撮影している少女がいる。「アンリ。まあ、あれは気にしないでくれ。関わると面倒だから、距離を置いた方が良い」
「いや、それより、あなたは——」
「鈴木くん……だよね?」
突然訊ねられ、鈴木はぎょっとした。
名前まで知られているとは……。やはり、知り合いなのか。
「すみません。どこでお会いしたか、全く思い出せないんですけど」
「そりゃそうだ。会ってないんだから」
「は?」
「俺が一方的に君の話を聞いてただけ」
「俺の話?」鈴木は目を丸くした。「誰が俺の話なんか……」
すると、和幸は申し訳なさそうな笑みを浮かべて言った。
「いつも砺波が迷惑かけてるみたいだな」
「砺波……って、藤本砺波!?」
意外な名前が飛び出して、鈴木は身を乗り出していた。
「藤本さんの知り合いなんですか?」
「知り合い……というか、まあ、腐れ縁かな」
なるほど。鈴木はぽかんと口を開けたまま、納得した。ようやく、思考を覆っていたもやが晴れた。
そうか、砺波から自分の話を聞いて——。自然と頬がゆるんでいた。視線が泳ぎ、胸が高鳴る。
砺波は自分のことをなんて言っていたのだろうか。男らしくないのは分かっているが、気になってしまうものは仕方がない。
鈴木は逡巡してから、和幸を遠慮がちに見上げた。
「ふ……藤本さん、俺のこと、なんて言ってたんです?」
「はぐれたモブ」
「……え」
鉄も驚きのスピードで鈴木の心が冷えきったことは言うまでもない。
あの砺波にいったい何を期待してしまったのだろうか。いや、それより、彼はその情報だけで自分を見極めたということか。
鈴木はがっくりと頭を垂らした。
聞くんじゃなかった。
「で……藤本さんのお友達が俺に何の用ですか?」
「いや、別に用はないけど……」和幸は、相変わらずカメラを回しているアンリを一瞥した。「あいつが『不良高校といったら校舎裏』とかワケの分からないこと言い出して、俺は付き合わされただけ。来てみたら、ちょうど君が絡まれてて……もしかしたら、例の『鈴木』くんじゃないかと思っておせっかいしただけだよ」
なんだ、そりゃ。鈴木は眉根を寄せた。
「でも、さっき俺に用がある、て……」
「あれは保険だよ」
「保険?」
「俺からケンカをしかけてきた、なんてあいつらが言い出したらあのビデオも役に立たないだろ。実際、殴らせるために挑発もしたし」
「確かに……」
「だから、あくまで俺は君を訪ねてきた友人、てことにしたかったんだ。丁重にお引き取り願ったのに、殴られた。——そういう流れがあれば、挑発的な発言をしてても明らかに向こうに非ができるだろ」
「知り合いだ」とか「席を外してほしい」といった発言にはそういう意図があったのか。
鈴木は言葉が出なかった。
しっかりしているというか、計算高いというか、姑息というか。エリートは敵にまわしたくないものだ、と思った。
「ま、『鈴木くん』と話してみたかったのは事実だから、あながち嘘でもないか」
そして見せる笑顔はやはり爽やかで、鈴木は調子が狂った。
なるほど。あの人の笑顔が好き、と騒ぐ女子の声を聞いたことがあったが、こういう人のことなのかもしれない。
「よし、こんなものかな!」
和幸の背後でアンリがビデオカメラを高々と掲げて飛び跳ねた。
「和幸。そろそろ行かないと、先輩たちに怒られるんじゃない?」
「ったく、誰のために時間とってやったと思ってるんだ」
愚痴りつつも、和幸は「分かってる」とアンリに律儀に答える。面倒見がいい人なのだろう。
「あの、アンリ……さんでしたっけ? 撮影マニアなんですか?」
「そんなとこだ。趣味に他人を巻き込んで、ふざけた映画を創ろうとしている。ここに来たのも、映画作りの『資料集め』なんだと」
おそらく、彼もその趣味に巻き込まれている一人なのだろう。嫌そうに語る様子がそれを物語っていた。
「じゃ」ふっと一つ息をつき、和幸は微笑を浮かべた。「またあいつらにちょっかい出されたら砺波を通して連絡くれ。厄介ごとの後始末は得意だから」
「いや、大丈夫です!」
慌てて鈴木は両手を振った。
気持ちは有り難いが、無関係の彼をこれ以上巻き込むわけにはいかないし、騒ぎを大きくしたくもなかった。番長たちとのことは、曽良が元凶なわけだし、曽良に相談するのが筋だろう。
というか……あのがっかりイケメンが責任を取るべきことだ。
胸の奥でふつふつと怒りがよみがえり、鈴木は堪えるように拳を握りしめた。
「『責任者』には俺からきっちり言いますから、心配しないでください」
「そう?」
和幸は不安そうに眉を曇らせた。
心配性なのか、お人好しなのか。とりあえず、人がいいのは確かだろう。
砺波の友人だという彼の優しさを感じ、鈴木はそれだけで心強くなった。
「ほんと、心配しないでください。結構慣れてるんです。こういうことにはよく巻き込まれるんで」
「だろうと思って、心配してるんだけど」
「はい?」
「いや」と、和幸は諦めたようなため息を漏らした。「砺波のこと、よろしくな。鈴木くん」
和幸は軽く手を振り身を翻すと、途中で細長い布袋を拾い上げ、アンリとともに去って行った。
一人残された鈴木はしばらく呆然と突っ立っていた。
不思議な高揚感を感じていた。
あの和幸というエリート学生——脅すような手段は感心できなかったが、鈴木への態度は実に紳士的だった。聡明そうで、落ち着きがあって、何より常識的な人のようだった。
そう、常識人。
なんて魅力的な言葉だろうか。なんて懐かしい響きだろうか。
鈴木はぐっとこみあげてくるものを感じた。
ああ……常識人と話せたのはいつぶりだろうか。アホなイケメンや熱血リーゼント、その他粗暴な輩たちと過ごす日々の中、その出会いは実に貴重で新鮮だった。鈴木は感動すら覚えていたのだった。
しかし、ふと疑問が浮かぶ。
「なんで小賀葛に来たんだろう?」
常識人が遊びにくるような場所ではないはずだが……。
鈴木は一人小首を傾げた。