第十話 見知らぬエリート
「えぇっと……なに、迷子?」
番長は口許だけに笑みを浮かべ、脅すような視線を少年に向けていた。
すると、少年は「そんなところで」と面倒そうに頭をかいた。
さらりとした黒髪に、清潔感漂うブレザー。ぱっと見地味だが、なんとなく品がある。特徴のない顔立ちだが、カッコ悪いわけでもない。きゅっと引き締まった体つきだが、背は高いわけでもない。第一印象でいうならば――少年は普通だった。そう、鈴木のように。
「その制服……」と昴は値踏みでもするように目を薄めて少年を凝視した。「帝南だな」
帝南――その名前に、鈴木はぎょっとした。
この一帯で、特に名を轟かせている超一流高校である。実力主義の秀才高校といわれ、公立ながらも、その辺の名門私立も相手にならない偏差値を誇る。
なんでそんな高校の学生が、こんなところに? しかも、こんな状況に?
「ガリ勉が火遊びにでも来たのか?」
昴がくつくつ笑って蔑むように言うと、少年は「まあ、そんなところで」とふてぶてしい態度であしらうのみ。
エリートロードを走り続けて、不良の恐ろしさを学んでこなかったのだろうか。見ているこっちが生きた心地がしない。
「俺はあっちの彼に用があるんで、席外してくれませんかね?」
あっちの彼、と少年が指差したのは、鈴木だった。いきなり話をふられ、鈴木は「え」とすっとんきょうな声をもらした。
「ちょっとした知り合いで」
「知り合いだ?」銀蠅はちらりと鈴木を一瞥した。「こいつはそんな顔してねぇけどな?」
そりゃそうだろう、と鈴木は思った。なんせ、知り合いなんてとんでもない。あの少年に全く見覚えがないのだから。
「とりあえず、席外してくれません?」
「席外すのはそっちだろ」昴は校舎の壁によりかかり、少年を睨みつけた。「ここは俺の縄張りだ。ガリ勉は帰って公式覚えてろ」
「縄張りって……あなた、ここの地主?」
「てめぇ、うちの大将ナメてんのか!?」
とうとう、番長を守る鉄壁が動いた。銀蠅はぐるりと巨体を回し、少年へと荒々しく歩を進める。
「大将?」
少年は迫り来る巨人に警戒する様子もなく、へえ、と白々しく驚いて昴を見つめた。あからさまにバカにしている。まるで挑発でもしているようだ。
銀蠅が昴の面子を重んじていることは、さっきのやり取りでも明らか。
少年が何者なのか、なぜここに居合わせたのかは見当もつかないが、自分を助けるために首を突っ込んでくれたのは確かだ。このままでは……いや、しかし——嫌な予感を覚えつつも何もできない己の無力さに、鈴木はやりきれない思いだった。
そんな鈴木の苦悶をよそに、
「道理で、頭の悪そうな顔をしているんだと思った」
少年はけろりとそんなことを言い放った。
ぞわっと全身が粟立つ。鈴木は声にならない悲鳴を上げて、名画『ムンクの叫び』を再現してみせた。
ブチリと何かが切れた音がした気がした。と、同時に銀蠅は乱暴に少年の胸ぐらをつかんだ。
「ここに迷い込んだのを後悔するんだな!」
鈴木にふるわれるはずだった右拳が宙に振り上げられ——勢いよく少年に襲いかかった。
少年は悲鳴をあげることもなく吹き飛ばされ、地面に転がった。
「な……」
なんてこった、と鈴木は愕然として固まる。
他校の生徒——しかも、将来有望なエリート学生が身代わりになって銀蠅の怒りの鉄拳を食らってしまった。しかも、ぴくりともせず横たわっている。
やがて訪れる、不気味なほどの静寂……そして、長い沈黙。
ざあっと風にゆすられ、木の葉たちがひそひそと騒ぎだした。
「おい、銀蠅」昴が頭痛でもするかのような気だるそうな声で沈黙を破る。「手加減したのか?」
「……」
黙り込む銀蠅の背中が全てを語っていた。
「冗談じゃねぇぞ」昴は溜息を漏らしてこめかみをもんだ。「だから、やめろ、つったんだ。お前、不器用だもんなぁ」
不器用で済む問題か。
鈴木は血の気がひくのを感じた。
もしかしたら、自分はとんでもない場所に居合わせてしまったのではなかろうか。目元に黒い線が入った自分の顔写真が脳裏をよぎった。
「と、とにかく、救急車……」
緊急事態に非常電源でも点いたかのように、やっと体に自由が戻って立ち上がった鈴木だったが、すぐまた動きを奪われた。
「カット!」という明るく弾んだ声によって。
「カット?」
「バッチリ撮れたわ」
そういえば、さっきもこんな声が聞こえた気がした。少年が現れる寸前、確かに場違いな女の子の声が……。ぼんやりと思い出しながら、鈴木は、声のしたほう――校舎の角に視線をやった。
ぴょん、とそこから飛び出してきたのは、大きなつり目が特徴的なショートヘアの少女だった。殴られた少年と同じデザインの緑色のブレザーを着ている。彼と違うのは、チェック柄のスカートと胸元のリボンくらい。つまり、彼女もまた秀才の一人、帝南高校の学生、ということだ。
その手には、なぜか手の平サイズのホームビデオカメラ。
「撮れた?」
嫌な予感がしたのだろう、昴は訝しそうに聞き返した。
「んふ」と少女は怪しげな含み笑いを漏らす。「いい素材が手に入ったわ」
少女はビデオカメラを胸に抱き、嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねている。その軽やかな動きといい、人懐っこそうな顔立ちといい、子猫みたいだと鈴木は思った。
「俺に礼は無いのか、アンリ?」
不機嫌そうな声に、子猫ははたりと動きを止めて、いたずらっぽく微笑んだ。
「おつかれさま、和幸。サンキュね」
あ、と鈴木は間の抜けた声をあげていた。
死体のように転がっていた少年がむくりと起き上がり、平然とした様子で立ち上がったからだ。しかも、殴られたはずの頬にも何も異常は見られない。暢気に制服についた土をはらっている。
「サンキュって……軽いこと、軽いこと」
「殴られたときに悲鳴くらいあげたらどうなの?」
「んで、ダメ出しか」
「なんで不機嫌なのよ。どうせ、ついで、だったんでしょう? ギブアンドテイクよ」
「なにがギブアンドテイクだ。どんだけこっちがお前に振り回されてると思ってる?」
「楽しんでるくせにぃ」
「楽しめるか」
二人はわいわいと口論を始めた。痴話ゲンカにも思えるほど、なんとも平和な雰囲気で。まるで何事も無かったかのようだ。
鈴木は理解できずに目を白黒させた。
どうなっているんだ? なぜ、彼はピンピンしているんだ? さっきまで殴られて失神していたというのが、嘘のように……。
「!」
鈴木は、まさか、と目を見開いた。
「おいおい」と、声をあげたのは昴だった。さすがの番長も驚きを隠せないようで、切れ長の目を丸くしている。「どうなってんだ? てめぇ、気失ったんじゃなかったのか。なんで、顔面殴られてケロっとしてやがる?」
「簡単だ」と、口を挟んだのは銀蠅だった。背中をわなわなと震わせ、「手応えがなかったんだよ、昴くん」と押し殺したような声で続けた。
「手応えが無かった? どういうことだ?」
「つまり……殴ってねぇってことだ」
悔しげな銀蠅の声に、やはり、と鈴木は確信するとともに唖然とした。
彼は殴られていない。そう見えただけ。目の錯覚だった、というわけだ。
だが、そんな簡単な話ではないだろう。彼は——あのエリート高校生は、至近距離で銀蠅の右ストレートをスレスレでよけた、ということになるのだから。
「殴ってねぇって……じゃ、なんであいつ——」
昴は何かを言いかけ、すぐさま言葉を切った。
「いや、違う」クッとその口許が笑んだかと思うと、鋭い視線がギロリと少年へ向けられた。「銀蠅は殴ったことになる、てわけだ。角度によっては……」
肩を竦める少年の隣で、ショートヘアの少女は嬉々とした様子でホームビデオをひらひら振って応えた。
そのアクションだけで彼らの言いたいことは分かる。
昴が舌打ちするのがかすかだが聞こえた。
「なるほど。エリートのやることは汚ぇな」
「暴力沙汰はこっちも願い下げなんで」と少年は軽い調子で前置きした。「無抵抗の他校の生徒を殴ったなんて騒ぎ、そっちも嫌でしょう? で、まあ……ここはお互い、何も無かったことにしませんか、て話です」
ちなみに、と少年の視線がこちらに向けられ、目が合った。
「今後、彼に何かあった場合も、あのビデオに尾ひれ背びれをつけて、そちらの校長に送りつけさせてもらいますんで」
それは間違いなく、鈴木の身の安全を保証するための脅しだ。
昴と銀蠅は、二人仲良く眉間に皺を寄せてこちらに振り返った。鈴木は反射的に首を横に振った。そんな顔で見ないで、と叫びたかった。少年の言動が意味不明なのは鈴木も同じだった。
「なんでそこまで、こいつを庇うんだ?」たまらず、銀蠅が少年に向き直って訊ねた。「正義のヒーロ気取りか」
すると、少年は鼻で笑った。
「いや、だから言ったでしょう」と、彼は困ったような、呆れたような、ぎこちない笑みを浮かべた。「彼は知り合いなんだ、て。ちょっとした……ね」
いや、だから誰なんだよ!? 鈴木はとてつもなく走り出したい衝動にかられた。




