第十九話 鎧 黒澤一輝1
城壁は崩れていた。鉄壁の要塞と呼ばれたスタールボルグの門は焼け落ち、半ば開いたまま動かない。城内には煙が澱み、石畳には折れた槍と砕けた盾、引きずられた血の跡が続いている。
「ガロン――」
ラグナスは同胞の左胸を貫いていた槍を抜き、その名を呼んだ。返事はなく、支えを失った身体が石畳へ沈んでいく。
「スタールボルグは落ちた。我が軍の勝利だ」
破れた衣をはためかせ、セラヴィアが声を張り上げる。普段の彼女からは想像もつかない、高く鋭い声だった。
ロードは何も言わず、負傷者を古龍アズラグの背へ運ばせている。その足元では、魔族も人間も区別なく折り重なっていた。
「すべてはセリシアの祝福のため」
自分にだけ聞かせるように、ラグナスは繰り返した。
少し離れた石畳を、うつ伏せの人間兵が掻いていた。それでも右手を伸ばし、小さく名を呼ぶ。
「シアラ……」
恋人か、妻か、娘か。ラグナスは尋ねず、その背から心臓を貫いた。兵士の右手は最後に何かを掴むように閉じ、静かに石畳へ落ちた。
◇
黒澤一輝は、敷路神宮の鳥居の脇に立っていた。暑さの残る夕方だったが、境内を埋めていた蝉の声は途切れがちで、石段へ落ちる木々の影は長い。夏はまだ終わらない。それでも夕暮れだけが、少しずつ早くなっていた。
参拝を終えた人々が石段を下りてくる。土産物の紙袋を提げた夫婦、制服の学生、子どもの手を引く母親。奥で鳴った鈴の余韻も、すぐに人の声へ溶けた。
スマートフォンを確認する。
【敷路神社について調べる】
その下に自作のラグナススタンプ。
さらに森山葵からの返信が一行だけ。
【今から行く】
「……また、スタンプはスルーか」
落胆はしたが、来ると言われただけで胸の奥が軽くなる。
この世界の神社にセリシアはいない。鳥居も鈴も賽銭箱も御神木も、ガーラシアの神殿とは何ひとつ似ていない。それなのに人が手を合わせる姿を見るたび、別の祈りが蘇る。
【すべてはセリシアの祝福のため】
ラグナスだった自分が繰り返した言葉の重さを黒澤は知っている。血の臭いも、同胞の胸から槍を抜く感触も、名も知らない兵の背へ剣を沈める手応えまで。
自分の手を見た。指先はラーメン屋の洗剤と湯に荒れていて、剣を握ってきた戦士のものではない。それでもこの手は、背中のどこを狙えば心臓へ届くのかを知っている。
目を閉じる。
子どもの頃から口だけは達者だった。ゲームの攻略やカードの組み合わせを話せば人が集まり、自分は少し賢いのだと思っていた。
中学に上がる頃、その言葉が邪魔になった。理屈っぽい、空気が読めない、面倒くさい。
昼休みにカードの効果を説明している途中で「もういい」と笑われ、話の残りを飲み込んだ。
声を張れば浮き、黙れば忘れられる。気づけば、目立たないことばかりを覚えていた。
家にはゲームとアニメがあった。強い者は強く、選ばれた者が物語の中心に立つ。
ラグナスの記憶も初めは夢だと思った。黒い城壁、燃える旗、長い刃、人間兵の怯えた目。
知らない言葉なのに意味だけが分かる。目を覚ますたび、恐怖より先に胸が高鳴った。
【魔王軍の側近 魔剣のラグナス】
その名を思い出したとき、喜びに近い震えだった。
だから、すがった。
口調を変え、態度を変え、自分を少し大きく見せた。
客に嫌な顔をされても、店長に小言を言われても、内側に魔剣のラグナスがいると思えば耐えられた。
だけど、黒澤一輝という身体に、大きすぎる鎧をかぶせただけのことだった。
臆病さも卑屈さも何ひとつ消えてはいない。
――彩花を見つけたのも、その頃だった。
注文する声も小さく、どこか怯えて見える少女。だから魔王かもしれないと思った――いや、そう思いたかった。
魔王ドロネオールが本当にこの世界にいるのだと考えるだけで、胸が冷える。
ラグナスなら膝をつくのだろう。だが黒澤一輝はどうする。セラヴィアもロードも、ラグナスだった自分を知っている。その目に、ただの黒澤一輝が映るのが怖かった。
だから彩花を魔王にした。弱そうで、自分にも守れそうで、こちらの物語に収まってくれそうな少女を。彼女を魔王だと思えば、逃げていないことにできる。使命を果たしていることにできる。
ゲームやアニメなら、魔族は悪で人間は正義で、勇者が魔王を倒せば世界は救われる。
だが、戦場に境などなかった。
人間にも魔族にも守るものがあり、同じ神の名を口にしながら殺し合った。
ガロンが、セラヴィアが、ロードがいた。
そして、魔王がいた。
だからラグナスは剣を握った。人間を憎んでいたわけでも、殺すことを楽しんでいたわけでもない――黒澤には、それが分かってしまう。
あの人間兵へ剣を突き立てたのは、必要だと判断して終わらせた。
そして迷わなかった。
悪意なら拒める。残虐さなら軽蔑できる。
だが、慈悲だと理解したうえで人を殺す判断を黒澤は理解できてしまう。
「……ふざけるなよ」
完全にラグナスへ戻れるなら、いっそ楽なのかもしれない。本当に怖いのは、黒澤一輝のままラグナスの判断をすることだった。
黒澤は鳥居の脇から少し離れた。境内には一つ、また一つと灯りが点き始めている。
葵はまだ来ない。
森山葵。クローディア。かつて敵だった女。
それでも黒澤は彼女へ連絡した。神社について聞きたい、転生者の気配を確かめたい、理由ならいくらでもある。
だが、それだけではない。葵は黒澤をラグナスとして扱いきらず、かといってただの黒澤一輝とも扱わない。警戒し、面倒そうな顔をしながら、それでも普通に話す。怯えもせず、崇めもしない。鎧を見抜かれているようで、それが少しだけ楽だった。
喉の奥で笑う。『遅いぞ、クローディア』――来たらそう言うつもりだった。
だが、少し空しい。それが鎧だと、自分で知ってしまったからだ。
スマートフォンをしまったとき、境内の奥で何かが動いた気がした。紙垂が揺れ、木々の葉がざわめく。胸を細い針が掠めるような感覚。
――転生者
はっきり分かったわけではない。
右手を強く握っていた。剣などない。ここはスタールボルグではなく、敷路神宮だ。それでも身体の奥で、ラグナスが目を開く。
自分はラグナスではない――そう言い聞かせたとき、ポケットで端末が震えた。
肩を揺らし、慌てて取り出す。
【着いた】
続けて弓矢のスタンプ。画面に薄く映った自分の顔が少しにやついていた。黒澤はそれを見なかったことにして、もう一度境内の奥へ目を向ける。
――シアラ。
その名だけが、まだ耳の奥に残っている。黒澤はスマートフォンを握ったまま、鳥居の脇から一歩を踏み出した。




