34. 深き眠りの英雄王
王都アムランの空にはすっかり帷が降り、星々の瞬きと城下の灯りが、未だ止まぬ喧騒の街を仄暗く縁取っていた。
王宮に戻ったセレナリスは侍女も連れず、一人王の塔の階段を登っていた。階段には一定の間隔で近衛騎士が立ち、前を通るセレナリスに一礼をする。
壁の狭間からは城壁の外の灯りがはっきりと見え、祭りの騒ぎ声が聞こえてくる。セレナリスは少しだけ足を止めて、その光の集まりに目を細めた。
階段を上り切ると、扉の前に二人の騎士が立っている。騎士達はセレナリスの足音に反応するように、扉を開けて彼女を部屋の中へ通した。
星明かりが照らす中央の寝台に、一人の男が眠っている。頬は痩せこけて、髭は無法に伸びたまま。
か細い呼吸を繰り返すこの男こそが、数世代に及ぶ因縁の宿敵ドゥライル王国を打ち滅ぼし、世界で猛威を振るうオルド帝国の侵攻を阻んだ唯一の王。スロンディア・テードリアンである。
セレナリスの足音に目を覚ましたスロンディアは、小さくも力強く低い声で彼女の名を呼んだ。
セレナリスは持っていた燭台を机の上に置き、桶の中の布を絞る。そしてベッドの縁に腰を下ろし、夫の顔を拭き始めた。
「遅くなってごめんなさい。よく眠れたかしら?」
浅い吐息が聞こえる。返事はなくともセレナリスは続けた。
「さっき終わったわ。クロディアが決勝まで進んだのよ。怪我をしたけどなんともないって。生意気になったものね。
騎士達も強かったわ。皆王国の誇りよ。起き上がれるようになったら玉座の間に連れてきましょうね」
セレナリスはその日の出来事をこうして毎日スロンディアに話す。この部屋を訪れるのは医者か神官、時折り思い出したかように王の弟や息子達が訪ねて来るのみである。勿論そのような者のみにしか、この塔への立ち入りは許されていない。
王妃と言えども毎日が刺激に溢れているわけではない。それは王妃であるが故かも知れないが、セレナリスは一日に一度、必ずこの塔の階段を登り病床の夫に話を聞かせた。深い眠りに目を覚さない日もあるが、それでもセレナリスは毎日塔を登り、そんな日には王の隣で、ただ城下町の灯りを見下ろすのだった。
スロンディアはクロディアのことを尋ねた。セレナリスは語って聞かせる。
「心配なのね、大丈夫よ。負けはしたけど、手加減なしで戦えたと喜んでいたわ」
クロディアは敗れた。セレナリスのトークンを持ったルアン・ロチェスターと激闘を演じ、この日最大の熱狂の中で馬から落ちた。
しかし勝負はそこで終わらなかった。ルアンも同時に落馬し、両者剣を抜いての地上戦にも連れ込んだのだった。
エメルディアの号令で兵士達がすぐさま止めに入ったが、ルアンがクロディアに覆い被さり、喉元に剣を向けたことによって勝敗は決した。
その時セレナリスは生きた心地がしなかった。クロディアの首に剣を当てたルアンは、いつでも殺せるぞと言わんばかりにほくそ笑み、セレナリスを見て笑ったのだった。
夫にそこまでは語らなかった。ただクロディアが決勝で負けたのだと、セレナリスはそれだけを語った。
「血潮の熱さがあなたそっくり」
スロンディアの口角が少し緩む。そして次に、また子供の名前を口にした。
「グエルヘンは…」
「グエルヘン?あの子ならもうロヴィリカに帰ったわよ。この前孫の顔を見せに来た日よ」
「そうか…ロベンディアは」
「ふふ、子供達を愛しているのね。あの子は今、アムレイルにいると聞いているわ。大丈夫、安全よ」
スロンディアは子供達のことを順に聞いた。そして最後に、後継者であるエメルディアのことを尋ねる。
「エメルディアは、頑張ってるわよ。あなたより賢いし統治に熱心。ただ諸侯からの尊敬を得られているかと言うと、正直まだこれからね。でもそれも時間の問題だと私は思ってるわ。
前にも話した通り、あの子は次の結婚にかなり慎重で。それは私も同じだけど、令嬢達の勢いに怖気付いているとでも言うのかしら。女に及び腰なテードリアンなんて笑えるわね。
あと本人は語らないけど、あれは愛に憧れてる目よ。ふふっ、王家には珍しい考え方だわ。あなた達の先祖は欲しいものを全て手に入れて来たと言うのにね」
スロンディアは短く、そうかとだけ言った。窓の外から祭りの喧騒が微かに聞こえる。日が落ちて冷え始めた風に、セレナリスは肩を震わせた。椅子から立ち上がり、部屋の窓を一つずつ順番に閉めていく。その最後の窓を閉めて、部屋から音が消えて無くなった。
蝋燭の揺らめきとスロンディアの寝顔が、窓の硝子に反射して映る。セレナリスは取手を摘んだまま、夫に聞こえぬよう小さくこぼした。
「あなたは何でも手に入れたわね…」




