閑話 王子と神官
中央神殿に設えられた、とある人物専用の執務室。
そこを訪れた若き女性神官は、焦りを含んだ声音で言った。
「……フィクタ様、至急の御用件が」
その言葉で弾かれるように書類から顔を上げたフィクタは、期待と不安の入り混じった表情を浮かべる。
「聖女様の件で何か進展が――」
「いいえ、そうではありませんが……フィクタ様に今すぐ面会のお取次ぎを、と」
「このような時分に、ですか? いったい誰が?」
現時刻は深夜とはいかずとも、来訪にはかなり深い時間帯である。
訝し気に眉を寄せたフィクタへ女性神官が緊張を孕みながらも答えようとした時――
「お、なんだやっぱり居るじゃねぇか」
室内唯一の扉を潜って現れた人物が深紅の髪を掻き上げながらニヤリと口角を上げる。
無断かつ堂々と入室してきたその図々しい男に対して、フィクタは明確な嫌悪を乗せた視線を向けた。
「いくらリヴェルタス王子といえど、神殿中枢への立ち入りはご遠慮いただきたいのですが?」
「おいおい、固いこと言うなよ? オレたちみんな共犯者じゃねぇか」
共犯者、とリヴェルタスが口にした瞬間、
「……後のことは私が対応しますので、貴女は引き続き業務に戻りなさい」
有無を言わさぬ口調と態度でフィクタは女性神官へと命じた。彼女は彼女ですぐさま一礼すると、余計なことは何も言わずに退出する。
リヴェルタスは目に見えて苛立っているフィクタを興味深げに観察しながら、
「さっきの子は何も知らないってわけか。そいつは悪いことをしたな?」
と全く悪びれもせずに嗤った。安い挑発であることは目に見えていた。しかし今のフィクタにはそれをいなすだけの余裕がない。必然的に王族に向けるには相応しくない態度と自覚した上で言葉を返す。
「いったい何をしに来た? いくら気楽な第二王子とはいえ、此度の件を知るお前を王家が遊ばせているのは不可解だが」
「あぁ、当然オレも捜索に加われって親父からは言われてるぜ? けどなぁそれでやる気が出るかはまた別問題だろ?」
「……貴様は、聖女様が未だに行方不明というこの状況を何とも思わないのか?」
聖女エマが忽然とインぺリウム城の客室から姿を消してから、既に五日が経とうとしている。
様子のおかしい聖女に気づいたフィクタは彼女の断りもなく寝所へと押し入った。しかし寸前まで会話をしていたはずの聖女の姿は室内のどこにもなく。その場に残されていたのは、ほんの僅かな赤い魔力痕のみ。
聖女の魔力痕とは明らかに異なるそれが示すのは、聖女ではない誰かが室内で魔術を行使したという事実のみ。十中八九、聖女を連れ去るための術式のはずだが、詳細は未だに掴めていない。
あの時、自分がもう少し早く異変に気付き扉を開けていれば――と、フィクタは悔やんでも悔やみきれないほどの自責の念に苛まれていた。
聖女失踪という前代未聞の不祥事に彼女の筆頭世話役を務めていたフィクタの責任は重い。だが事が神殿ではなく王家の管轄であるインぺリウム城で起こったこともあり、現在フィクタは特に謹慎などを命じられることなく、聖女捜索の総責任者として中央神殿に詰めていた。
当初は王家もしくは国内貴族による聖女隠匿という線も考えられたが、王家も貴族も調査に全面協力の姿勢を見せている。むしろ王家は祝宴を主催した側として自分達の不手際を認めており、神殿からの捜索に関する人員要請を費用度外視で請け負っているほどだ。
それすらもパフォーマンスの一環である可能性は捨てきれないが――フィクタの直感は王家が白であると告げている。唯一、王家の中で疑わしい者がいるとすればこの眼前の男なのだが、
「言っとくが、オレは聖女様の失踪には一切関与してないぜ? そもそも聖女に入れ込むほど交流もねぇし……まぁ境遇に少しばかり同情して、あの夜には余計なお節介を焼いちまったけど」
「貴様、聖女様に何を言ったんだ」
「なに、あんま依存すんなって忠告しただけだ。お前を慕う姿があまりにも滑稽だったからなぁ」
あまりにも直截な物言い。しかしその態度は三年前から一貫していることもあり、フィクタはリヴェルタスの言葉に嘘はないと密かに判断していた。
だからこそ今度はこの疑問が浮かび上がる。
「……なら、何故わざわざ私を訪ねて此処に来た?」
「あー、それなんだけどよ……お前、現場で赤の魔力痕を見たって言ってただろ?」
「その通りだが、それが何か?」
「いや、もしかしたらオレが捜してるヤツと何か関連してるんじゃないかと思ってな」
「なに……?」
フィクタは思わずリヴェルタスの顔を見返した。僅かでも聖女捜索の手掛かりになる可能性があるならば見過ごせない。すぐに話の先を促そうとフィクタが口を開こうとした瞬間――
「フィクタ様!! 火急のご報告が!!!」
室内に飛び込んできたのは先ほどの女性神官だった。その尋常ではない様子にフィクタもリヴェルタスも揃って目を見張る。ここまで走って来たのか息も絶え絶えな女性神官は、フィクタの方へと歩み寄りながら胸に抱きしめていたあるものを震える手で差し出した。
――それは、何の変哲もない手紙の封筒。
しかし封筒の裏側の文字を目の当たりにした瞬間、フィクタは女性神官から手紙を強引に奪い取った。
常にないフィクタの乱暴な行動にリヴェルタスが「おい」と声を掛けるが、フィクタは食い入るように封筒から目を離さない。
「フィクタ神官、いったいどうした――」
「この筆跡は……間違いなく聖女様のもの……ッ!!」
「なっ!?」
さしものリヴェルタスも、流石に驚愕の表情を晒す。一方、フィクタは執務机の上に置かれたペーパーナイフを急いで手に取ると、慎重な手つきで手紙を開封した。
その間にリヴェルタスがフィクタの背後へと回り、長身を活かして彼の肩越しに手紙を覗き込む。
入っていた便箋は僅か一枚のみ。
そしてそこには、確かに聖女の筆跡でこう記されていた。
【神殿の皆へ
申し訳ありませんが事情により少しの間、留守にします。
三ヶ月以内には必ず戻りますので心配しないでください。
聖女エマより】
その内容がどうしても信じられず、フィクタは三度読み直した。しかし記載事実は変わらない。
三年間、手塩にかけて育ててきた自分だけの聖女が、まさかこんなにも身勝手な行動を取るなど、誰が想像するというのだ。フィクタは激しい怒りに苛まれながら、手紙を握る指先にこれ以上力を入れないよう必死で堪える。そうしなければ今にも手紙を破り捨てたくなってしまうから。
一方、そんなフィクタとは対照的にリヴェルタスは落ち着き払っていた。
しかし彼の関心は手紙の文面ではなく――何故か封筒に向けられる。
「……フィクタ神官、少しでいい。封筒に触れても構わないな?」
リヴェルタスにしては殊勝な物言い。フィクタはそこでようやく僅かだが冷静さを取り戻し、一呼吸を置くとリヴェルタスの方へと封筒を差し出す。それを了承と捉え、リヴェルタスが慎重な手つきで封筒の縁に触れた――刹那。
パチリ、と赤い魔力痕がほんの僅かだが封筒から放出される。
時間にして瞬きほどのものだったが、リヴェルタスにはそれで十分だったらしい。
「――やっぱりな。これで確信が持てた」
彼は未だに驚きで瞠目するフィクタに対し、
「喜べよフィクタ神官。事情が変わった……オレも聖女捜索に本気を出してやる」
獰猛な笑みを浮かべながら、そう宣言してみせた。